- 寺 山 だ よ り -

先生方にお願い
【No.370】 2005年05月12日

9日は湯河原町、10日は伊勢原市で、そして11日大井町と、連日PTA広報づくり講座を持った。
委員は誰も「大変そうだけど、委員になったからにはイイモノをつくりたい」という思いを抱いて集まってきているのだと思った。そのことは会場での質問や感想で読み取れた。
 A会場でのワンシーン。最前列の真ん中の席のお母さんが「園児のお迎えなので」とわざわざ声を掛けて退席していった。講座が終わったのは4時過ぎ。しばらく会場に残り質問を受けていた。そこに、先ほど退席されたお母さんが子どもさんを連れて現れた。「もう終わっていると思ったけど。今日のような、本物のPTA広報作りの話が聞けるのでしたら、お迎えは上の子に頼んでおけばよかったと思います。2年目の広報委員ですが、何を書いたらいいのか、少し分かったような気がします。頑張ります」と、そのことをわざわざ私に告げに戻って来られたのだ。
 B会場で飛び出した質問。「私たちの出した企画が学校側に却下された。理由を聞いても、ただ『これは止めてくれ』と言われるだけ。こういう場合どうしたらいいのか」。
 C会場の主催者はP連の母親委員さんたち。その中の一人が「来年は広報委員に立候補します」と私を喜ばせてくれた。A会場で講座を主催した教育委員会の職員Sさんも言った。「高校のPTAの広報委員を頼まれたのですが、仕事との兼ね合いがあるので断ってしまいました。でも、今日の話を聞いて広報をやってみたくなりました。」
9日は湯河原町、10日は伊勢原市で、さそして11日大井町と、連日PTA広報づくり講座を持った。委員は誰も「大変そうだけど、委員になったからにはイイモノをつくりたい」という思いを抱いて集まってきていた。そのことは会場での質問や感想で読み取れた。
A会場の場合。最前列の真ん中の席のお母さんが「園児のお迎えなので」とわざわざ声を掛けて退席されました。講座が終わったのは4時過ぎでした。しばらく会場に残り質問を受けていました。そこに、先ほど退席されたお母さんが子どもさんを連れて現れたのです。「もう終わっていると思ったけど。今日のような、本物のPTA広報作りの話がきけるのでしたら、お迎えは上の子に頼んでおけばよかったと思います。2年目の広報委員ですが、何を書いたらいいのか、少し分かったような気がします。頑張ります」と、私に告げに戻って来られた。B会場で飛び出した質問。「私たちの出した企画が学校側に却下された。理由を聞いても、ただ『これは止めてくれ』と言われるだけ。こういう場合どうしたらいいのか」。
 「PTA広報づくりを頑張る人は子育てに一生懸命だということ。そして自分のことにも一生懸命になれる人」だと、委員を元気づけるのが私の役目なのだが、次のような感想をもらって、私の方が元気付けられた。
◇あの時ジャンケンで負けて広報委員になったことを今は感謝しています。36才の一年間、子どものため学校のためではなく、私自身のために時間を費やし3月に涙を流せるくらいに思いきり楽しみたいと考えを変えました。武先生ありがとうございました。
◇2時間半あっという間に終わった講座、とても来て良かったとおもいます。広報への思いが変わりました。この一年間楽しくできそうです。すべて初めての事でとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。
◇成り行きでなってしまった広報委員ですが、いろいろな学校のすばらしい広報を知ることができ、型にはめられている今までの新聞ではなく、楽しい新聞を皆で作れたらいいなと思いました。はじめに紹介された広報にとても感動しました。一年間がんばってみようと思います。
◇すべて初めてのことでとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。

 先生方にお願いします。このお母さんたちの思いをどうぞ成就させてあげてください。

敵も然る者 苦労・クロウ(crow)人
【No.369】 2005年05月06日

 夜が明ける前からカラスの鳴き声。枯れ枝をくわえて啼くとは器用なもの。少しあわてて桜の木の下に立つ。新しく巣が作られているようには見えない。
 敵も然る者 苦労・クロウ(crow)人。 カラスは賢いというがその通りかもしれない。桜の根元には小枝が散乱。城は捨てたがゲリラ戦法で復讐をしていのだ。それに応える私の作戦は煙作戦。彼らが撒き散らした小枝で季節外れの焚き火。さらに桜の木にはしごを掛けてヒコバエを切り落とす作業をして、彼らに私の姿を見せ続けた。カラスさんよ、「共生」とは「住み分け」のことだと思うのですが、どうでしょう。
 中学生のとき新聞づくりに燃えた寺尾さんから手紙が来た。現在大学一年生だが劇団「第七劇場」に所属している。この5,6月に静岡市で開かれる「Shizuoka春の芸術祭2005」はギリシャ悲劇の特集。寺尾さんはエウリピデスの「トロイアの女」で「脚本上の主役ヘカベを演ずる」と書いてきた。カラスと争っている私とは違い過ぎる!
 

5月3日 「風雲カラス城の戦い」
【No.368】 2005年05月03日

 8時半から退職教職員の会の総会の案内状を配って回る。私の持分は12人。会員のHさん宅は蓑毛のバス停近くにある。このバス停は大山登山や丹沢の表尾根縦走の登山口なので、この時間でもけっこうなにぎわい。そんな人たちを眺めながら、私は「田舎に住む幸せ」を思う。1時間ほどで完了。 ここ数日、庭の桜の木蔭に黒い影が頻繁に見える。カラスが巣作りを始めたのだ。カラスは、日本の神話の中では「ヤタ烏」のように、神の鳥とも見られたりしているが、実際には人々にあまり好かれる鳥ではない。とにかく、あの鳴き声がウチの庭から近所に響くのはあまり芳しいこととは思えない。それで“意を決して”巣の取り外しをすることにした。 
 巣は、木の天辺近くで、その高さは15メートルほどか。よじ登ることはできないので、ハシゴと10メートルほどの竿を使い、巣を突き落とすことにした。巣は未完成だが、使われている枯れ枝の量はかなりのもの。    「元中学校長 カラスの巣撤去で転落」などという見出しにならないように、心してかかった作業。腕と首に負担がかかり“悪戦苦闘”。とりあえずは「勝った」のだが、敵も然る者で、再度築城を始める態勢。これ見よがしに、ウチの周りで騒ぎたてている。そういうわけで、武家の桜の木を舞台に「風雲カラス城の戦い」は、この連休中続きそうだ。

 K小のO先生来訪。今年度は学級新聞を学級づくりに活かしたいので、新聞についての授業をして欲しいとのこと。作文指導では多くの実績を上げているO先生が新聞に取り組んでくれるのは願ってもないこと。2時間の授業をさせてもらうことにした。 
 昨夜はS小のS先生から電話をもらった。「学習新聞に取り組ませたいので、授業を」ということ。20日、4クラスに新聞の作り方を教えることになった。
 夕方、裏の畑でトラクターがうなりを上げていた。この畑はH中が総合学習で使う。「親父の会」の会長Tさんが運転していた。

 連休が終わると、K小もS小も、そしてH中も、どの学校も、授業は充実感を増す。

ある日・4月25日 
【No.367】 2005年04月26日

 9時30分の約束で、まちづくり推進課の二人がパソコンを抱えて来訪。29日の『ふるさと自慢シンポジュウム』の打ち合わせ。パワーポイントを使って話すのて、その写真の順番の確認をした。「事務連絡」の紙を渡された。その連絡事項の中に、当日の服装は“ふだん着”で、とあった。改まって「ふだん着」と言われ、さて何を着て行こうかと悩んでいる。
 11時過ぎに伊勢原市P連の役員二人がみえる。5月に行うPTA広報講座の最終確認。雑談の中で「学校だよりとPTA広報との記事の奪い合い、あるいはダブリ」について質問された。
 午後1時30分、秦野市P連の母親委員長・Aさん来訪。26日の広報講習会に併せて全国のPTA広報紙の展示会を開く。その展示する広報紙を渡した。「百聞は一見に如かず」、他紙を手にすることは私の講義より意味がある。もちろん「PTA広報とは」をある程度理解していなければいけないのだが…。Aさん、ふるさとの町が合併しなくて良かったと言う。Aさんのふるさとは、西馬内音盆踊りで知られている秋田・羽後町。
 妻が言った。「秘書が必要でしょ。」

4月25日の「歌壇」「俳壇」から
《「共感」と言ったら、母には礼を失するかもしれないが…》
介護する我より深き吐息して義父は車椅子からベッドへ移る  山田 紀子
くりかえし「隅田川」うたう媼あり春のうららの哀しきベッド 高安みさほ
《悲しい現実》
子どもらの歌声ひびく校庭をよぎれずなりぬ門閉ざされて   篠原 克彦
《希望・字向村(あざむかいむら)は岩手、秋田、長野なと各地にある地名》
台所の玉葱の芽の青く伸び漸く春になる字向村  奈瀬明日美
《馬場あき子選の第1首、とても春を感じました。どのような歌かと気になる方、どうぞご自分の目で確かめてください。》

離任された安田校長先生の言葉
【No.366】 2005年04月23日

 昨秋蒔いたキヌサヤがようやく背を伸ばし始めた。ジャガイモ、インゲン、ダイコン、サトイモの順に播種をしてきた。そしてきょうはキュウリ、トマト、ナスの苗を植えた。1アールほどしかない畑なのだが、それらしい畝も見え、とても満足。 
 野菜の苗と一緒にメダカを買ってきた。去年も今頃、同じ店で20匹買ってきた。だが、ただいまメダカの学校の生徒は1匹。孵化も失敗。今年の生徒はにぎやかに年を越させたい。
 午後、昼寝?をしていたら、東中の広報委員長の本間さんが新聞を持って来てくれた。4月6日に今年度の第1号が発行され、既に3回の発行を数えている。本間さんは部活の帰り。「明日は試合です。頑張ります」とにっこりの彼女。もうすっかり日焼けしていた。
 「皆さんが学習、行事、部活に取り組む熱い姿勢は私の誇りであり、元気と勇気の泉でした。挨拶、新聞、ボランティアといった伝統を守り、ぜひ受け継いで下さい」。これは、東中新聞788号に載っている、離任された安田校長先生の言葉です。

研究紀要『秦野の教育と新聞』
【No.365】 2005年04月20日

 秦野市教育研究所がこの3月に発行した研究紀要第71集をいただいた。 その紀要は『秦野の教育と新聞』(A4判・142ページ)で、第1章「新聞でたどる秦野の教育」、第2章「座談会・秦野の新聞教育」、第3章「学習の的と目としての新聞づくり」、資料編「新聞の作り方」「新聞コンクールの結果一覧」など、からなっている。
 第1章は、昭和25年から平成16年までに秦野市内の小・中学校で発行された学校新聞、学級新聞、そしてPTA広報の縮刷版や記事の切抜きが100ページあまりにわたって掲載されている。これは、戦後の秦野の教育の歴史を子どもや保護者の目から記録したものとして貴重な資料だ。別冊『秦野教育史』とも言える。
 授業のかたわら、この研究に2年間取り組まれた6人の先生のご苦労に心から「お疲れさまでした。ありがとうございました。」とお礼を申し上げる。この研究を事業として採り上げた教育研究所に深謝。

PTA広報講座第2日目の会場で
【No.364】 2005年04月15日

 昨日の中井町に続いて今日は松田町で広報講座。「広報に興味のある方」にも呼びかけてあるのだが、2会場ともPTAの広報委員のみ。日程や時間帯からいっても当然のことだろう。
 いつもの通り「広報委員に立候補した人」に挙手を求めた。挙った手は両会場とも1割強。「今でも『広報はイヤ』、できれば変わってもらいたい」と思っている人も1割程度。残りの8割は「一応納得して」広報委員を受けている。“イヤイヤ組”を“一応組”に《変心》させるのが私に課せられた務めと思って、頑張ったつもり。
 今日、講座が終わってから寄小・中の委員と雑談していたら、どこかで見た顔を発見。「N中で先生に教わりました」。そして学級新聞も作ったと言う彼女。私のクラスではなかったが、記憶にある顔だった。残念ながら、名前は思い出せなかった。彼女も名乗らなかった。
 だが帰りの車の中で、突然名前が浮かんだ。「そう、I.Kだ」。上気しているように見えた彼女の顔色が、中学生のころの色白の彼女の顔に突然つながったのだった。
 I.Kさんと出会ったのはたぶん30年くらい前だろう。英語をよく勉強した子だった。当時のN中は超マンモス校、一学年が9クラスだった。私が彼女のクラスに授業に出たのは1年生のときだけだったような気がする。
 彼女に直接「I・Kさんでしょう」と言えなかったことに少し後悔の念。

開幕前日
【No.363】 2005年04月13日

 明日は私のシーズン「新聞づくり」の幕開けの日。中井町で「広報づくり講座」をおこなう。中井町からは初めてのお招き。
 一日中雨だったので落ち着いてレジュメを作った、というのはウソ。昨年度いただいたPTA広報や学校新聞を、それまで使用していたものと差し替える作業。おおよそ300紙に目を通し、講座に例示する紙面を選んだのだが、途中で記事に引き込まれたりしてなかなかはかどらない作業。
 明後日は松田町での講座なので、2会場分のレジュメを作ってしまうことにした。「“読んでもらうのではなく 読ませちゃおう”の広報づくり講座」にするつもりのレジュメ。少し意気込み過ぎだが、開幕前日だから仕方のないこと。
 それにしても寒い。訪ねて来た人が「寒いですね。」と挨拶する。「寒くなりましたね。」などと言ってしまった私に、相手は怪訝な表情。

きょうは宵宮
【No.362】 2005年04月09日

 明日の鹿島神社のお祭り。それで清水庭(自治会の会員)は9時にお宮に集まった。「もじりかけ」をするためだ。「もじりかけ」とは御神輿の飾りつけをすることの代名詞。ねじった白の晒しを神輿の頂の鳳凰から四方の蕨手(わらびて・わらびのような形をしているから)に流し、神輿を壊れないように締めることが「もじりかけ」。「もじり」は「ねじる」という古語。この「もじりかけ」を済ませ注連や榊などを取り付け、神輿の化粧は終わる。明日は桜吹雪の中、神輿も舞うだろう。
 午後1時30分から秦野園芸愛好会の例会。今月は総会なので出席者は15名と盛況。終わって会が2年前から始めたカブトムシの人工飼育床を見に行く。どうやら今夏、幼稚園児にプレゼントできそうだ。
 留守の間、わが家のさくらを見に「エコー」の読者I、K、Tさんが来訪。一緒に花見ができず、残念。
 Nさんから「小学校で仕事をすることになった」とメール。絶やさない笑顔と進取の心の持ち主のNさんの、子どもたちの前の姿を思い浮かべた。

落日を拾いに行かむ海の果て
【No.361】 2005年04月06日

 「春眠暁を覚えず」などというのは、この歳の私にはもはや当てはまらない。もうずっと以前から、毎朝4時過ぎには目が覚めてしまう。それから5時半までモソモソ。そして5時30分からテレビを観る。
 水曜日の5時半からは「NHK俳壇」。今朝は年度替りということで、投稿句の選は行われなかった。番組は2年前の講座「11人の辞世の句」の再放映だった。金子兜太と嵐山光三郎が、芭蕉、蕪村、子規、山頭火、放斎などの辞世の句、あるいは絶筆といわれている句について対談をした。
 その11人目に登場したのは壇一雄。彼の最期の句は「落日を拾いに行かむ海の果て」で、ポルトガルで作られたとか。芭蕉の「旅に病んで夢は」を無意識のうちに踏まえているらしい。 
 「火宅の人」だった彼にとって、この辞世の句は「永遠に旅をし続けるしかない」という思いが込められているともとれる。それでいて、明るいし、希望さえ感じられる。今朝この句に出会えたことは「早起きは三文の得」。
 お隣の小学校では、今朝離任式。校歌と「蛍の光」が鼓笛隊によって奏でられる中、先生たちが新しい世界に向かって歩を進めていた。なぜか「落日を」の句を思った。
 
 明日木曜の朝は「短歌」。

 4月1日
【No.360】 2005年04月01日

 4月1日 新しい年度が始まった。新聞が恒例の「教員移動特報」を作ってくれた。毎年そのページに付けられる「見出し」を楽しみにしている。今年は「夢はぐくむ 明るい教室」がA紙。そしてB紙は「出会いの春に心躍る」。子どもたちに、保護者に、そして先生たちにとって、学校は「夢はぐくむ」ところでなければならない。
 
 4月1日を意識した、今日の新聞の広告欄のキャッチコピー。印象に残ったのは、
「悠然として山を見る蛙かな 小林一茶」(銀行)
「4月。父親への挑戦状。」(ビール会社)

 午前10時、東中学校の新年度の広報委員長の本間さんが訪ねてきた。委員は新学期が始まって決まるので今のところは一人。でも、明日から活動を始めるらしい。その心意気がうれしい。


P広報紙の講評 完了
【No.359】 2005年03月30日

 市P連のOさんに今年度の「PTA広報の講評集」の原稿を渡した。 
 この一年間に発行された全広報紙を読んだ。そして1校600字程度の紙面クリニックを書いた。22校分だからかなりの量。この講評集は次年度の広報づくりのヒントにもなるので、できる限り視点を変えて書いたつもり。
 今年度の広報紙の特徴は「子どもの安全」に真剣に取り組んでいること。そして「委員の選出の困難さ」も相変わらず取り上げられていた。

これが最後か
【No.358】 2005年03月28日

 3月27日、箱根・宮ノ下の富士屋ホテルで開かれたY先生の結婚披露宴に出かけた。今考えれば冷や汗ものだが、30年くらい前、このホテルの近くの保養所に泊まったとき、数人でこのホテルのバーに飲みに行ったことがあった。それ以外にこのホテルに足を踏み入れたことはない。開宴まで少し時間が合ったので、本館の中を見てまわった。
 宴は歴史を感じさせるカスケードルーム。100名を超える招待客。今日の私は新郎の主賓だった。“媒酌人なし”なので祝辞のトップバッター。多分、披露宴の主賓として招かれるのは今回が最後だろう。そう思ってスピーチをさせてもらった。いつも以上に足が震えていた。 
 新郎のYさんは新採用教員として私が勤務していた秦野東中に来た。それが縁で今も一緒に学校新聞の指導をしている。幸せ絶頂のYさん夫妻を祝福させてもらった私もまた幸せだった。 
 帰りの登山電車から眺めた早川渓谷の木々に少しうす緑が差していた。

春になった
【No.357】 2005年03月25日

 午後からほんとに春のような陽気。風もない空にふんわりとした雲が浮かんでいた。そんな気候に乗せられてか今日は筆が進み、講評はとりあえず書き終えた。
 3時過ぎ、畑に大根とねぎを取りに行った妻があわてて戻ってきて、「キャベツのネットにヒヨドリが絡まっている」と言う。厳冬期、餌のないヒヨドリは、育ち始めたキャベツの柔らかな部分を食べにくる。それでネットを掛けておいてある。 
 季節はどうやら春になった。だが鳥たちの食べ物は冬と変わらず乏しい。しかも、これから繁殖期に入るのだから体力が必要。だからキャベツのネットに首を突っ込んだのだろう。 
 ネットを外そうとしている私の手袋を猛烈に突っつく。けっきょく二人がかりてネットを切り裂いて助けた。手から離れたヒヨドリはけたたましく鳴きながら飛び去っていった。しばらくして、桜の木の天辺にヒヨドリが来た。さっきのヒヨドリかもしれないと思った。お礼を言いに来たのか、それとも性懲りもなくキャベツをついばみに来たのか。
 「東中新聞」の774号がポストに届いていた。1、2年生だけで作った今年度の最終号。来年度の委員長・本間さんが「新聞の伝統を引き継ぎ、東中を変えるきっかけとなるような新聞作りをしたいです。頑張ります。」と抱負を述べている。
 桜の蕾が今日一日で色づき始めた。春になった。

私は生産組合長
【No.356】 2005年03月24日

 3月も今頃になると、新聞で人事異動の氏名が報じられ始める。次年度の私の人事 順番で農協の生産組合長―組合員数48名―をすることになった。その引き継ぎの会が、昨夜支所で開かれた。 
 集まった次年度の組合長は29名。仕事の内容も分からないままの出席なので、緊張気味の私。席に着き、置かれている新組合長の名表に目をやった。教え子の名を8つ数えることができた。少しホッとし、コの字型の座席を見回すと、その8人が、ニヤリと、あるいは怪訝そうな視線を私に送っていた。あわててちょこんと頭を下げた。 
 一人隣にいたMさんが「先生、ご苦労さんですよう。百姓 やってんの」と笑いかける。「栗をちょっと」と答えると「大変だんべ、鹿に食われて」と彼。
 議事の最後に、東地区生産組合の「大代表(すごい名称)」を選んだが、その大役に、中学時代「オオタカ」と呼ばれていたOさんが就いた。彼は51歳のはず。そしてOさんを筆頭にいろいろな係りに彼ら選ばれていった。彼らがこの地区の農業のリーダー的立場にいることが嬉しかった。自分の老齢を強く意識した。
 会が終わり駐車場を抜けようとしたらTさんが「先生、送って行くべえよう。中学時代、世話になったから」と言う。「歩いて3分だから」と固辞して、雨の中をけっこう弾んだ足取りで帰ってきた。 
 任期は2年、彼らと一緒に「イモチ病」や「鳥獣害」の調査、「共済の勧誘」もするらしい。新しい世界が私の前に広がりそうだ。

春霞
【No.355】 2005年03月21日

16日、我が家から眺めた丹沢の山並みは春霞、と思った。だが色合いが少しちがった。杉花粉が谷に沿って舞い上がっていたのだ。この日から、花粉症で重症。ここ三日間はじっと横になっている。P広報の講評の締め切りは間近だが気力なし。

マメ君のお母さん
【No.354】 2005年03月16日

 「箱根一泊」の同窓会を開いた。まもなく古希を迎える年齢、存命者101名のうち42名が出席。幹事としてはとても嬉しい人数だった。
 3時前、会場の天成園に着き、早速ロビーで受付の準備をはじめた。気分が高揚していたのか“幹事一同”にぎやか。まもなくきりりとしたブレザー姿の女性がにこやかに私に近づいてきた。「まずい 叱られる」と思った。 「武先生ですね。皆さんのお話の中に『武さん』というお名前をお聞きし、もしかしたらと思い、あちらでお姿を拝見させていただきました。やはり武先生でした。西中でお世話になりました鈴木隆の母でございます」
 鈴木隆という名前を聞きすぐに彼の顔が浮かんだ。「マメだ」。教室でいつも“小マメ”に動き回る小柄な子、野球でセカンドを守っていた―それで野球部の仲間が付けたあだ名が「マメ」。二十数年前の生徒だった。だが担任ではなかったので、「マメ」君のお母さんに出会った記憶は、私には全くない。それなのに私に気づき、わざわざ挨拶をしてくれた。 
 同級生が言った。「武 教師冥利に尽きるだろう」。   
 当時の西中は生徒2000名というマンモス学校。私にとって鈴木君は2000分の1なのだが、鈴木君(そのお母さんも)にとって、私は1対1の関係・対象だったのだ。その自覚が私にはあったのだろうか。 
 ここで経理の仕事をしている鈴木さん。翌朝 忙しい中、私を見送ってくださった。私の手にはいただいた温泉マンジュウがあった。
 隆さんは、今、私をはるかに抜く背丈になり、I市でラーメン店を経営している。

“春”の到来
【No.353】 2005年03月09日

 ここ二、三日は「春本番」というところか。現金なもので、こんな気候になるとからだを動かしたくなる。それで車を洗うことに。 
 軽トラはなんと1年半ぶりの洗車。要するに買ってから初めて、ということ。「軽トラのピカピカは軽トラではない」などと聞かされ、生来の“不精”と相まって、全く車の手入れをしていない。既にあちこちに青ごけが発生していた。がんばってピカピカにした。乗用車の方も1カ月点検の連絡がきていたので手洗い。2台で1時間半も費やした。それが元で眼がクシャクシャ。いよいよ、私にも“春”の到来。
 タウンニュースのMさん来訪。今月いっぱいで転勤とのこと。来年の秦野大会をバックアップしてもらいたかったのに。とてもお世話になった。
 教え子の恭子さんが「実家に帰る途中」と言って寄ってくれた。そしてお手製の「雛の吊るし飾り」をプレゼントしてくれた。「3日に間に合えばよかったのですが」と言う。寺山のひな祭りは4月なので、そう話したらとても喜んだ。早速吊るす。華やいだ部屋になった。
 くしゃみを連発しながら、郵便局に行き送金、コンビニでコピー。それをも使って『エコー』の1ページが完成。中井町でのPTA広報講座が決まる。 

3月5日 全国学校新聞コンクールの表彰式
【No.352】 2005年03月06日

 きのう、全国学校新聞コンクールの表彰式で毎日新聞社に出かけた。駅で買った毎日新聞の1面にライブドアの堀江社長のインタビューの記事が出ていた。その見出しの一つが「既存ジャーナリズムは不要」だった。この見出しにかかわる部分の堀江氏の発言は「(調査報道や不正の追求など)皆さんの考えるジャーナリズムはもう必要ない」。新聞や広報が果たす役割を説いてきた私にとって、かなり“刺激的”な言葉である。
 「新聞が情報を取捨選択をすることが必要なのか。読者が判断する時代だ。今は判断できる時代だ」と言う。インターネットを通じて個人がたくさんの情報を得られる。そこで個人が判断すればよいということのようだ。そして氏はまたこう言う「メディアを持ったらコントロールはしない。純粋な媒介者であるべきだ」と。「インターネットは全能」という論理。なんだか、とても《危うい》と思ってしまった。私は“既存”の世代なのだろうが…。

 この表彰式では「新聞の表彰式」らしく、式のさなかに速報作りが行われる。今年は、秦野東中の野中麻未さんと阿南陽子さんが東京・石川台中と清新第一中の広報委員と一緒に速報づくりをした。北は北海道、南は九州から上京したきた入賞校の広報委員に取材し、記事にまとめる。取材は12時からの1時間。野中さん、阿南さんの読み上げる記事をそのままパソコンに入力してしまうのは石川台中2年の女生徒。その指使いにただただ感心。こうして、B4・2Pのパソコン新聞が3時からの祝賀パーティーの会場で配られた。

如月から弥生へ
【No.351】 2005年03月02日

2月27日 テレビで「黄落、その後」を見た。ウチの話かと思うほど。小林桂樹の姿に私を重ねた。ラストシーンの「今度は私たちの番ね」というセリフにたじろぐ。
2月28日 東婦人会の会報の編集会議を私の部屋で。記事は完成していた。見出しも使える。記事の重要度からレイアウトを考えるように話した。25日に刷り上るはずの『ECHO』がきょうの夕方になった。少しばかり不満だ。読者に申し訳ない。

3月1日 注文しておいた日本語源大辞典が届く。この辞典は楽しそうだ。枕元に置いて好きなときに広げよう。
3月2日 電話が鳴る「武社長さんでいらっしゃいますか」。商品取引の勧誘だ。「秦野市の優良企業でありますエコー教育広報相談室さんですから、電話を取らせてもらいました」とのたまい、言葉が続く。「教育広報相談ってどんなことをしていらっしゃるのですが」。
 「電話を取らせてもらう」というのは、電話が鳴ったから取るという謙譲語だと思う。自ら電話をかけていて「取らせてもらう」などという言い方はない。
 東小のP広報委員さん二人が刷り上ったばかりの広報を持ってみえる。年度最終号だと、普通は「ご挨拶と卒業記念」の紙面になるのだが、1面全面が「インターネットを使うために」という特集で組まれている。最後まで全力投球のようだった。一年間の感想を尋ねた。「楽しかったです」。二人の笑顔がよかった。

予報は晴れなのに
【No.350】 2005年02月26日

 きょうの予報は晴れなのに、10時ごろから雪が舞い始め、今(4時半)も降り続いている。寺山は海抜170メートルほどだから、昼間は積もることはない。だが気温は低いので今夜の道路はアイスバーンになる。飲み会はパス、ウチで飲む。
 裏の畑と我が家との境界に10数本の梅が植えられている。樹齢は30年くらいか。ほとんど手入れがされていないので、毎年たくさんの花をつける。その梅がきょうの雪水をたっぷり吸ったためだろう、一挙に花を開かせた。梅にメジロ、そして舞い散る雪、背景にけぶる大山、眺めて飽きない景色。
 西隣の小学校のグランドでは、一日中少年野球の練習。子どもたちの嬉々とした声が聞こえてくる。風邪をひかなければいいなあ。
 9時に出かけて行った妻が、また傘を一本増やした。

ことしは9紙入賞  全国学校新聞コンクール
【No.349】 2005年02月25日

 きょう今年度の全国学校新聞コンクールの結果が発表されました。
私のHPの「リンク集」から全国新聞教育研究協議会にアクセスしてください。学校・学級・PTA・学習新聞の全入賞紙が掲示されています。 
 秦野は今年も9新聞が入賞しています。東中の3年生の学級新聞は全クラスが入りました。すごいことです。

『春一番』が吹いた今日
【No.348】 2005年02月23日

 20日の「寺山ウオーク」が終わったのでホッとしたのか、その夜からカゼ気味。私の健康のバロメーターは晩酌のビールの甘さ。もちろん量もそうだが。缶二つで終わりだった。21日は起きてはいたが、グタグタとした生活。それでも妻が仕事で留守だったので、バアちゃんの昼・夜の食事を作った。と言っても、温かいものを食べさせただけのこと。
 昨日は一日かかってHPに「学校講話集」というページをアップ。 
 今日は未明から風、待っていた『春一番』。『春一番』とは、恐ろしい春の嵐のことなのに。春を待つ心のような魅力があるネーミングだ。キャンディーズの歌もあるし。その『春一番』がもたらした不思議な気象現象。8時過ぎ丹沢の山並みをバックに虹がかかった。登校途中の女子中学生が歓声を上げていた。予約している『街道をゆく・6』を取りに行く。ついでに花粉症対策の目薬を買った。食堂から見える杉山は真っ赤。その色にこれからが思いやられる。ここ数日の体調不良は花粉のせいかもしれない。あるいは、昨年は病気で一日も寝込むことはなかったので、その反動が表れ始めたのか。
 昨日高校の入試が終わった。中三の子たちにもうすぐ春が来る。『春一番』の吹いた今日。

きょうも一つ学んだ
【No.347】 2005年02月21日

 寺山自治会が主催する『寺山ものがたりを歩く』が昨日行われた。あいにくの悪天候で参加者は8名。群馬出身の女性が一人参加された。他は全員寺山生まれ、寺山育ち。私よりいろいろなことを知っている人ばかり。それで、今回は民俗についての説明を中心に案内した。
 庚申搭、巳待ち搭、金精神、稲荷社を屋敷神として祀っているT家と鹿島神社の祭神・タケミカヅチノカミの話に時間をかけた。T家の屋敷神は庭より一段高いところに石垣で囲まれて祀られている。鹿島神社でのタケミカヅチノカミの話は、古事記の「国生み」から始めた。
 最後に「あずま荘」でお茶を飲みながらもう一話。その後質問の時間。Eさんから「屋根に千木があるは男神、ないのは女神のお宮だと、この前ある先生から説明を受けた。タケミカヅチノカミは男神。たげと鹿島神社に千木はついていない」。そんな説は知らなかった。帰って検索。そうしたらこんなことが分かった。
 「千木の先端が垂直に切られている場合は、男神を祀っていることを示し、水平に切られている場合は、女神を祀っていることを示すと一般的にいわれている。」寺山の鹿島神社は権現造りだから千木はもともと使わない造りの社であることも知った。
 きょうも一つ学んだ。

卓話
【No.346】 2005年02月19日

 「企業の経営者あるいは管理職として<私たちの生活の基を作ってくださり、また社会奉仕を通して地域を支えていらっしゃる国際ソロプチミストの皆さんにお話を聴いていただけることはとても光栄です。でも全員が女性であるというこで、少しナーバスになっています。一生懸命話をさせていただきます。」 
 昨18日午後1時15分、こんな出だしで国際ソロプチミスト秦野の例会で卓話をさせてもらった。テーマは「まほら・秦野 秦野の地名について」。注目の南セントレア市(愛知)の話の部分はけっこう受けた。惜しまれつつ? 降壇。“がんばり過ぎ”か、声がすこしかれた。
 2月10日の朝日川柳に「思い出も伝統も消すカタカナ市」という一句が掲載されていた。地名は私たちのはるかな先人たちの生活、そして風土や地形などを伝えてくれる文化遺産だと思う。

高齢者訪問
【No.345】 2005年02月14日

 交通指導の服装の警官が突然訪ねてきた。他に二人が付いている。聞いてみたら、高齢者の交通安全指導で回っているとのこと。同伴者は安全協会の地区の委員さんと緑のおばさんとらしい。「誕生会に出られましたか。そこでもお話したのだが」とお巡りさん。「いいえ、車椅子の生活だから」と答えた私。「高齢者の交通事故が多い。特に自転車の事故が」と言い、突然「クルマは運転しますか」と聞くので、すると答えた。そうしたら「気をつけてください」と言う。そして「散歩をされるとき着けてください」と蛍光チップのついた真っ黄色の軍手を手渡す。「奥さんはにも」と真っ赤なものを。この説明の間に写真も撮られた。
 5分ほどの訪問だった。三人が去った後、ようやく気づいた「高齢者訪問」は私たち夫婦が対象だったのだ。すっかりバアちゃんのことだと思っていた。「考えたら、96のバアちゃんのことで『運転しますか』などとは聞かないよね」と妻。そう、65歳からは高齢者なのだ。そういえば、二、三日前、原の道を真っ黄色の手袋をはめて大きく手を振って歩いている人がいたっけ。
  もらった赤と黄色の手袋は、今私のパソコンの横に置いてある。何時使おうか思案中である。

西伊豆 戸田村にて
【No.344】 2005年02月10日

 「高足ガニと夕映え」の西伊豆戸田は、人口4000人強の小さな山漁村。宿は「ときわや」での中心部にあった。部屋の窓から登校する子どもの姿を見た。小学生の男の子、そして中学生がそれぞれ一人ずつ。宿の人と話をした。高校生はほとんどこの村にはいないらしい。静岡や三島、沼津で下宿生活をするのがふつうだそうだ。母子で沼津に部屋を借り、有名な私学小学校に通わせている家庭もあるらしい。沼津まで高速フェリーで30分、車で1時間半。バスは修善寺経由。
 東北の山間部の中学校の先生から「『ウチの子には地元の高校に行くように説得してくれ』と親から頼まれる。子どもを地元に残すようにするのが進路指導」という話を聞いた。戸田はまもなく沼津と合併する。


「第54回全国小・中学校・PTA新聞コンクール」の一次審査の結果
【No.343】 2005年02月07日

 日記とはほど遠い内容ですが…

「第54回全国小・中学校・PTA新聞コンクール」の一次審査の結果
            【主催】毎日新聞社・全国新聞教育研究協議会

 審査は第一次審査、第二次審査、最終審査と行われます。このうち、小学校学校新聞の部、小学校学級新聞の部、中学校学校新聞の部、中学校学級新聞の部については第一次審査通過作品の発表を行っています。(学習新聞の部、PTA広報の部の一次審査通過作品の発表は行っていません)

一次審査通過作品

◆小学校学校新聞の部
岩手県
盛岡市立羽場小「翼」 山田町立大沢小「海よ光れ」 久慈市立枝成沢小「あすなろ」  田野畑村立沼袋小「ぬまっこ」  山形村立日野沢小「わいわい」
山形県
藤島町立東栄小「東小新聞」 藤島町立藤島小「藤小新聞」 鶴岡市立朝暘第三小「朝三新聞」 鶴岡市立朝暘第四小「四小新聞」 鶴岡市立朝暘第五小「朝五新聞」  鶴岡市立朝暘第六小「朝六小新聞」 鶴岡市立西郷小「すなやま新聞」  鶴岡市立黄金小「こがね」 鶴岡市立大泉小「大泉仲よし新聞」  鶴岡市立大山小「たかだて新聞」  酒田市立松陵小「万里」  羽黒町立第三小「羽三小新聞」
群馬県
桐生市立東小「東っ子」  桐生市立天沼小「ジャンプ」  太田市立毛里田小「杜の光」
千葉県
柏市立柏第七小「レインボータイムズ」  柏市立柏第一小「柏一小タイムズ」  柏市立柏第五小「柏五小ナイススクープ」 市川市立福栄小「ふくえい」 船橋市立行田東小「けやき」
東京都
練馬区立大泉第二小「大二小子ども新聞」 足立区立栗原北小「くりきた」 東久留米市立第九小「九小タイムス」
神奈川県
横須賀市立鴨居小「かもいっ子」 横須賀市立望洋小「望洋ビュー」
愛知県
豊橋市立つつじが丘小「フレンド」
大阪府
大阪市立南港光小「ひかり」
福岡県
北九州市立守恒小「守恒新聞」 北九州市立曽根東小「曽根東kids」 北九州市立西門司小「西門司新聞」 北九州市立大谷小「大谷キッズ」


◆小学校学級新聞の部
北海道
苫小牧市立明野小「流星」 苫小牧市立泉野小(6年3組)「PEACE」 鵡川町立鵡川中央小(5年1組)「たんぽぽ」
岩手県
岩手大学教育学部附属小(5,6年かつら組) 「おちゃっこタイムス」 盛岡市立羽場小(3年2組) 「スタート」釜石市立唐丹小(4年)「10さいなかま」
山形県
鶴岡市立朝暘第三小(第5学年)「スマイル」 鶴岡市立朝暘第四小(5年2組)「なかま2」 酒田市立新堀小(3年1組)「あおぞら」 遊佐町立高瀬小(第3学年)「たんぽぽ」
群馬県
桐生市立東小(4年1組)「なかま」 桐生市立境野小(4年1組)「4年1組」など
千葉県
市川市立八幡小(6年2組)「HOTフレンド」など 柏市立柏第五小(3年1組)「かがやき」
東京都
練馬区立南が丘小(5年2組)「地球新聞」 練馬区立大泉第一小(6年2組)「つばさ」 練馬区立大泉第二小(6年1組)「はばたき」 日野市立日野第二小(6年2組)「明日へ」 西東京市立泉小(6年1組)「天までとどけ」 東久留米市立第九小(6年1・2・3組)「つばさ」
神奈川県
横須賀市立鴨居小(4年1組)「みんなの世界」
愛知県
豊橋市立牛川小(6年2組)「ハッピーライフ」 豊橋市立津田小(5年い組)「ワンダフルバンド」 豊橋市立津田小(第6学年)「ダンデライオン」 音羽町立長沢小(第6学年)「ガッツ」 岡崎市立福岡小(5組)「5くみでGO!」
大阪府
河南町立白木小学校(2年1組)「花火」
兵庫県
姫路市立大津茂小(4年1組)「ダッシュ」「スマイル」


◆中学校学校新聞の部
北海道
白老町立白老中「潮騒」 帯広市立帯広第一中「一中タイムス」 鹿追町立鹿追中「生徒会新聞 飛翔」 帯広市立川西中「川西タイムス」
岩手県
大東町立興田中「興中新聞」 釜石市立唐丹中「唐中健児」
秋田県
山本町立山本中「いぶき」
山形県
鶴岡市立鶴岡第一中「飛翔」 鶴岡市立鶴岡第二中「緑窓」 鶴岡市立鶴岡第四中「青流」 櫛引町立櫛引中「櫛中新聞」 酒田市立第二中「酒田二中新聞」 酒田市立平田中「平中タイムス」 余目町立余目中「余中新聞」 八幡町立八幡中「八幡中学新聞」
茨城県
常陸大宮市立第一中「TRY」
栃木県
足利市立協和中「協和新聞」
群馬県
尾島町立尾島中「尾中新聞」 太田市立城西中「躍進」 桐生市立相生中「Smiley」など
埼玉県
さいたま市立常盤中「常盤中学新聞」 朝霞市立朝霞第二中「双葉」 飯能市立名栗中「挑戦」
東京都
荒川区立諏訪台中「諏訪台」 葛飾区立中川中「中川タイムズ」 江戸川区立清新第一中「清春の泉」 世田谷区立烏山中「激烏いちょう新聞」 大田区立羽田中「翼」
神奈川県
相模原市立大野北中「北中新聞」 相模原市立谷口中「谷口中新聞」 秦野市立大根中「大中新聞」 秦野市立東中「東中新聞」 横浜市立港中「港タイムス」 横浜市立中和田中「COLORS」
福井県
今立町立南越中「スクール瓦版」
静岡県
磐田市立向陽中「ボランティアこうよう」 磐田市立磐田第一中「磐田一中タイムズ」 磐田市立城山中「しろやま」
愛知県
豊橋市立中部中「清流」
兵庫県
高砂市立竜山中「竜の子」 加古川市立加古川中「夢未来」
福岡県
北九州市立松ヶ江中「松中新聞」 北九州市立門司中「ALIVE」
大分県
姫島村立姫島中「やはず」 安岐町立安岐中「暁雲」
宮崎県
宮崎市立東大宮中「東大宮」
鹿児島県
山川町立山川中「山川新聞」


◆中学校学級新聞の部
北海道
苫小牧市立明倫中(2年1組)「昇竜」 苫小牧市立明倫中(2年5組)「飛翔」 苫小牧市立勇払中(1年A組)「個人新聞」など 登別市立緑陽中(2年C組)「太陽」 登別市立緑陽中(2年B組)「夢々」 白老町立白老中(1年C組)「星雲」 帯広市立帯広第八中(2年6組)「夢咲」 帯広市立川西中(3年A組)「源流」
岩手県
釜石市立釜石第二中(3年2組)「群青」
宮城県
仙台市立南小泉中(2年3組)「熱血!松浦組」 仙台市立郡山中(1年1組)「あおぞら」 仙台市立折立中(3年1組)「三の一伝説」
山形県
鶴岡市立鶴岡第四中(2年1組)「We are 2−1」 酒田市立第四中(1年5組)「ハツラツ」 余目町立余目中(3年3組)「春秋」
茨城県
常陸大宮市立第一中(2年1組)「NEWS・J(ニュース・ジャポン)」
栃木県
足利市立協和中(3年1組)「虎りもん」
群馬県
太田市立東中(1年1組)「G中新鮮組」
埼玉県
幸手市立幸手中「大谷っ久」 春日部市立谷原中(1年1組)「ONEピース」 行田市立行田中(3年1組)「朋友」
東京都
港区立六本木中(1年3組)「太陽の広場」 港区立赤坂中(2年A組)「なんでもいい2」 足立区立第九中(3年3組)「燦燦」 大田区立出雲中(3年生徒委員会)「燃えろ原始人」 大田区区立石川台中(第2学年)「Newspaper Men」 世田谷区立烏山中(3年C組)「辛口カレー」 立川市立立川第七中(3年新聞係)「HOPE」
神奈川県
川崎市立大師中(1年A組)「ハナビラ」 川崎市立宮前平中「げんき玉」 川崎市立井田中(2年3組)「オロナミン3」 川崎市立井田中(3年4組)「ビーストズ」 相模原市立大野北中(3年5組)「MEISTER」 相模原市立大野北中(2年6組)「すご6」 秦野市立東中(3年3組)「41個のコロッケ」 秦野市立東中(3年1組)「MITAKEX」 秦野市立東中(3年2組)「みっこの豪邸」 秦野市立鶴巻中(1年4組)「青空」 秦野市立西中(2年3組)「Take it easy」
兵庫県
高砂市立竜山中(1年2組)「虹色」 高砂市立竜山中(2年1組)「百人力」 加古川市立加古川中(3年8組)「やまさKID’S」

最終審査の結果発表は2月中旬です

 全国新聞教育研究協議会のHPに発表されているものを転載しました。詳しくはそちらで。全国新聞教育研究協議会のHPには、私のリンクのページからアクセスできます。






一年のある一日
【No.342】 2005年02月06日

 2月5日、新聞コンクールの審査会で、一年ぶりに新聞教育研究所の大内先生と会う。 審査が始まるまでの間に「武さん、ちょっといいか。話を聞かせてよ」といつもの通りの大内さんとの勉強会。 
 この日は「新聞と弁論の違いについて武さんの考えを聞きたい」と大内先生。高校では弁論部がほとんど姿を消しているが、新聞は残っている。そして、一時期よりオピニオンリーダー性を持ち始めているのが高校の学校新聞らしい。
 「成人の日」を意識して行われていた「青年の主張」が「青春メッセージ」に代わり、そして今年その「青春メッセージ」もテレビから消えた。その消えた理由を私なりに挙げ、新聞との違いを話した。「うーん、まだ8割程度しか説得できていないな」と大内さん。
 「新聞で学校に風をおこせ」と全国を説いて回っている自称“新聞爺”の大内さんは70代半ば。時としてほとばしる激しい言葉に、大内さんの新聞教育への使命感を感じる。こうして私の「新聞への思い」を持ち直す一年のある一日。
 

200号のマスコット
【No.341】 2005年02月02日

 ある酒蔵から届いたたより
 「欧州でワインの消費が落ちている。生活が慌しくなり家族が揃って夕食を囲む習慣が失われたのが原因。社会学者達は“食卓の消失”が人々の心を荒ませると警告している。」
 幼児誘拐・衝動殺人・オレオレ詐欺・集団自殺など、ニュースが異常な事件を報じるたびに10年前に読んだこんな新聞記事が頭をよぎります。
 私見ながら、食卓が和やかであることは一個人または一家族が、ひいては社会全体が幸福になるための絶対条件です。質素でも作り手の愛情に満ちた料理で食卓を囲んでください。家族や友人と語らって心へ栄養を注いでください。一杯の美酒で大切な夕食時間を長引かせるお手伝いをさせてください。日本をこれ以上壊さないために。    2005年早春 蔵元敬白

 午前10時から西小PTA広報委員会に出かけた。200号記念号へのアドバイスを求められての出席。いたずら盛りの男の子も同席。私の言葉の真似をしたりして母親をあわてさせたりしたが、それがけっこう編集会議を和ませていた。3月中旬の発行まで、この子は編集委員会のマスコットになるだろう。200号とともに編集委員たちの、そして私の記憶にも残るだろうこの男の子。 

1月31日 「秦野の新聞教育」の初校
【No.340】 2005年02月01日

  教育研究所が2年かけて研究してきた「秦野の新聞教育」が集録の校正に入った。今日はその初校の日。
 研究員は小・中の現役の先生6人と研究所の指導主事。新聞教育について昔のことを知っているということで時々会に招かれていた。今日の校正にも
参加した。私の今日の仕事は全編の監修だった。
市内の小・中で発行された学校・学級・PTA新聞の記事を通して、戦後60年にわたる秦野の教育の動きを読み取ることもできる。6人の現場の先生は授業を持ちながら昔の新聞を発掘するなど大変な苦労をされた。総ページ数140超の研究集録は3月刊行の予定。その日が待たれる。

市制施行50周年の記念式典
【No.339】 2005年01月30日

 1月29日 秦野市の市制施行50周年の記念式典に参加した。発行した記念紙の「広報はだの」の編集委員として招待されていた。市長が式辞の中で「50年後を目指しての一歩を踏み出す年」と今年を位置づけた。 
 会場に集った人たちは私のような年齢層が圧倒的。その中に4人の中学生の姿があった。私たちの仲間「広報はだの」の編集委員だ。この4人だけが、これからの秦野の50年を見届け、100周年の記念式典に立ち会える。
 これからの50年間とは、とてつもない時間ではある。しかし今日から人々が営営と生活をつむぎ、織り上げていく。二宮市長は南秦野町の職員からスタートし、現在まで55年間、秦野の行政にかかわってきている。
 妻がこの式典の中で感謝状をいただいた。

「5000分の1」の強運
【No.338】 2005年01月28日

 住所が変わった人の年賀状の整理をした。長坂町のYさんの賀状には「清里も白州も…。そして県下最大面積の市となりました」とあった。住所は山梨県北杜市、「平成の大合併」で生まれた市だ。 
 今月のトップページに載せた『干支・鶏』をプレゼントしてくださった信楽町のKさんからの年賀状には「甲賀市に変わりました」と添え書き。信楽まちはタヌキの焼き物でつとに有名な焼き物の町。

お年玉付き年賀ハガキの話。
 95歳の母の兄姉妹はすべてこの世にいない。そして、いとこ達も代替わりの年代。だから今年母に届いた賀状は1通。その年賀状は、2カ月に一回、ショートステイでお世話になっている病院のケアマネージャーさんからのものだった。それが3等賞「地域の特産品小包」に当たった。下4桁の賞だから、5000本に1本の確率。まさに大当たり。妻と私が書いた年賀状はおおよそ700枚。二人への返信で当たったのは4等が14本。今年のバアちゃんは幸先が良い。宝くじを当ててもらおうか。賞品の「小包」は好物の「かに」にした。ご本人はまだこの強運は知らない。かにが届いたら知らせるつもり。

 『エコー』を発送している近くの郵便局は窓口二つの特定郵便局。局長さん以下すっかり顔なじみだ。きょう窓口のAさんに「かに」の手続きをしてもらった。手続きが終わった時「武さん、『タウンニュース』で武さんのこと読みました。私、伊勢原に住んでいるので『広報はだの』読んでないの。読ませてください」とAさん。「小泉さん、郵政民営化ってむずかしいね」。

小学校で総合学習の授業「まほら東」
【No.337】 2005年01月26日

 午後東小学校の6年生の総合学習の授業を行う。「まほら東」がタイトル。3クラス合同だから子どもたちは床に座って聞くことになる。これは私にも子どもたちにもたいへんなこと。出来るだけ板書をした。用意した話の半分で終了のチャイム。残りは次の機会に、ということになった。終わりに『作曲』を課題にした。
 東小学校の前身である東雲小学校は明治25年に開校している。そして大正時代に校歌が作られたようだ。その歌詞は発掘されたが曲は不明。
 その歌詞を板書し子どもたちに書き取らせた。期限なしの課題、誰かがいつか、この「東雲小学校」の校歌を復活してくれたら嬉しい。
 きのうと打って変わっての天候。未明から雪が舞った。寒い一日だった。学校から帰ってきたら、応接室の外にメジロが落ちていた(まさに“落ちている”といった状態)。拾い上げたら生きている。多分ガラス戸に当たってノウシントウを起こしたのだろう。手中でしばらく温める。なぜか私の薬指をしっかりと掴む。5分ほどしてモミジの小枝に移した。数分間の安静後、飛び立っていった。ムクドリが庭の桜の梢に群をなしている。寒そうだ。

寺山ウオーク
【No.336】 2005年01月26日

 昨日は公民館の「歴史探求講座」の日。テーマは「『寺山ものがたり』を歩こう」で参加者は30名。応募者はオーバーだったとか。昨年7月は座学の「寺山ものがたり」だったので、今回は寺山を一緒に歩いてもらった。
 天候に恵まれ、私としては楽しく歩けたのだが、参加者の感想はどうだったのか。
 このウォークの目玉はT家の屋敷内の石仏(とりあえず石仏とまとめて表す)。庚申搭(青面金剛と三猿の像)、巳待搭(弁天像)、稲荷神社(石祠)、そして金精神(石棒)がていねいに祀られている。この4つは、昨年「清水湧水池跡記念碑」を建てたとき、初めてT家の当主が「勝美さん、俺のところに弁天さんがいるけど見てくれない?」ということで初めて公になったもの。市教委の調査にも引っかからなかったもの。だから、きょうがその一般公開・お披露目でもあった。
 庚申搭は「長寿治病」、巳待搭は「福富健康・水神」、お稲荷さんは「五穀豊穣・商売繁盛」、そして金精神は「子孫繁栄」。人としての幸せのすべてのをこの屋敷の当事の家人たちは願って4つの神を祀ったのだ。一番新しいのはお稲荷さんで明治22年、これは棟札で判明。他はおそらく江戸時代の作だろう。江戸時代の人々の生活が分かる石仏だった。今の当主もまた、きれいに整えられた坪庭に祀っている。
 地元寺山からは4名、他地区からの参加者の一人が「寺山にはいろいろな文化財があるのですね」とうらやましがられた。「実はどこの地区にも湧水や石仏はあるのだから、それらにぜひ関心を持って欲しい」と話した。

きのうは「大寒」
【No.335】 2005年01月21日

 昨日は「大寒」だった。それなのに春のような日差し。1月も下旬になると、人々の生活は普通に戻るようだ。 
 今朝、Mさんが家族新聞を持ってきてくれた。しばらく「広報はだの」の話をする。1面の“人探し”が楽しかったらしい。思いがけない人を発見したと言う。
 千葉のSさんにも「広報」を読んでもらったのだが、その感想がメールで届いた。隅々まで読んでくれ、たくさんほめてもらった。17人にも読ませたい。
 視覚の不自由な方のために「広報はだの」を読んでいる録音ボランティアのKさんが、ダビングしたテープをもってきてくれた。早速聴いた。耳で聞く文は、しっかり書かないと意味が十分伝わらないことを教えられた。
 4面を見て、30年くらい前に同学年で学級新聞作りを指導したI先生から、そのころの思い出を綴ったはがきをいただいた。
 
 妻の「マフラーの展示会」が始まったので10日間ほど留守番。昼と夜の食事は私が作る。“一点豪華主義”の食事とうそぶいて、一品しか作らない。(作れない!)
 昨日今日で、3つの市町の次年度のPTA広報講座の話が決まった。

お隣のTOMOKOさん
【No.334】 2005年01月19日

 ニュージーランドに留学中のお隣のTOMOKOさんが、成人式への出席のもかねて二年ぶりに帰ってきている。昨夜、そのお隣から食事会に招かれた。
 「もう向こうに行きたくないでしょ」と聞くと「秦野に帰ることを決めたら、その日が待ち遠しくて、とても楽しみにしていた。でも、今は早く向こうに帰りたい」と笑う。そのわけは、日本の「時間通り」「時間に追われる」生活についていけない、疲れてしまった、と言うのだ。
 「バスでも電車でも、終点に近づくと一斉に出口に押し寄せる。あそこに立って待っているのと、止まってから立ち上がって降りてもそれほど時間の違いがないのに」といぶかる。もっとも高校生のころは何もそんなことは感じなかった、とも言った。
 ニュージーランドでの楽しみは「ラフティング」だそうだ。転覆するボートから放り出されるのがとてもおもしろいとか。
 「夜、屋外で星を見上げること」と「昼は小高い丘から下を走る列車を眺めること」も友達とよくするとも話してくれた。
 「お父さん、これじゃあ朋子さん 帰ってこないよ」と私。少しアルコールが入ったお父さんは、私から視線をそらす。彼女は、お父さんの肩に手を置き「帰ってこないと困るものね」とニヤニヤ。とたんにお父さんはニコニコ。お母さんは「返ってくるの 当たり前でしょ」。
 彼女の成長ぶりはきりっとした表情に表れていた。

今年の「トッケダンゴ」
【No.333】 2005年01月15日

 昨日はダンゴ焼き。今朝の新聞でもあちこちの小正月の行事が取り上げられていた。
 清水自治会のダンゴ焼きは、準備したお菓子35袋が足りなくなったくらいの盛況。大勢の子どもたちが来てくれた。道祖神は子どもたちが中心になる祭り。11日に門松や注連飾りなどを集めて回り、自分たちで刷り上げた道祖神のお札を配るのが子どもたちの役目。
 14日の当日は、自治会の役員が中心になって火床をつくり、子どもたちがダンゴを焼きに来るのを待つ。「長老」と持ち上げられている私たち年配者数人が火の番人をする。私はここ数年、すっかり「ダンゴヤキの長老」になりきっている。 
 今年は平日だから、子どもたちが集まってきたのは4時近く。付き添いのお母さんたちは若い。「どこの嫁さんだんべな、ありゃあ」「わかんねえなあ、原の方の人かな」「来てくれりゃあだれでもよかんべえよ」「そうなあ、今年ゃけっこうにぎやかだなあ」。缶ビールを手にこんな会話を交わす長老たち。
 近頃は針金に串刺しのダンゴをアルミホイルに包んで焼くのが普通。熾きになったところに竹竿に結わえたダンゴを置く。それで安心しておしゃべりに興じているお母さんたち。  
 「そろそろよかんべえよぉ」の声でダンゴを拾し、子どもと食べようとアルミ箔をはがすと、我が家のではないダンゴが出てくる。
 「あれ、ちがっちゃった。ゴメン、だれの、このオダンゴ、キレイな色」。銀色のアルミ箔の上に赤、白、桃色、緑、黄と色とりどりのかわいいダンゴが並んでいる。「あっ、それウチの。一個食べていいよ」「そう、じゃあいただく。ウチのも食べて」
 『トッケ・ダンゴ(取替えダンゴが秦野言葉でトッケ・ダンゴ)』だった。
 若やいだ声が消え去っても、長老たちは最後まで火燃しをする。「そろそろしまうべえか」と自治会長さんの声で穴を掘り、そこに燃えカスを埋める。そして「ご苦労はんでしたよう(ご苦労さまでした)」で解散。 
 帰り道、もう西の空に細い月がかかっていた。

今夜はダンゴ作り
【No.332】 2005年01月13日

  去年5月に「新聞の読み方」の授業をした中学校の生徒からメールで「講演を聞いて総合で新聞を調べているんですけど、質問してもいいですか? 今でも銅版を使って印刷していますか? 写真版とは、どのようなもので、どのようにつくられるのですか」という質問が来た。横浜にある新聞博物館を紹介した。折り返し返事が来て「行ってみます」。こういう行動力が若さだと思った。それで「帰りに中華街も研究してきたら」と激励した。
 明日は14日、「道祖神まつり」。それで朝のうちにダンゴをさすコナラの枝を取りに行く。今夜はダンゴを作り、飾る。

グランドフィナーレ
【No.331】 2005年01月09日

『広報はだの』が完成。昨夜、その反省会を開いた。反省会といっても事実上は解散会。一人ひとりが編集委員としての思いを発表した。誰の言葉も成就感を感じさせた。
 「市制100周年記念の『広報はだの』を作りたい」と中学生たちが言ってくれた。30代の委員も「100周年記念号にはがんばって編集顧問で参加したい」と笑いながら話してくれた。現実味のある話。私も「あと50年後、このメンバーで『広報はだの』の記念号を作りたい。それまで秦野をもっと好きになるように『まちづくり』をしよう」と話した。
 二次会はカラオケ。中学生たちがうまかった。彼女たちが歌った曲は、
“Forever memories” “No way to say” “sign” “Moments”“VALENTI” “雪の華” “真夏の夜の夢” “真夏の果実”
 まだあったけど取材しきれなかった。
 私は、私のテーマソング「よせばいいのに」。「『新聞づくり、もうよせばいいのに』と周りの人に言われているのに」です。そして「また逢う日まで」でグランドフィナーレ。

七草がゆ
【No.330】 2005年01月07日

 昨日久しぶりに本屋に行った。なぜか辞書が買いたくなったからだ。それでそのコーナーに行ったら、全面改訂の第六版の国語辞典が目に入った。奥付を見たら2005年1月10日第1刷発行になっている。ちよっと嬉しくなった。それで買ってしまった。記者に「夢」を聞かれて答えられなかった私。この買い物が「夢」につながればいい。。『野仏の見方』も買う。 
 「タウンニュース」紙の『人物風土記』、もったいないくらいていねいな記事。礼状を書いた。
 7日、今朝は「七草がゆ」。三が日の雑煮の餅、そして今朝の七草粥の中の鏡餅。餅が好きなバアちゃん、家族の心配をよそに完食。
 春のような暖かさ。私の畑の食用の菜花、背丈は低いのに、もう黄色い花を咲かせている。

普通の生活が始まった
【No.329】 2005年01月04日

2日 お年始。それぞれの家庭で子どもたちが独立していくので来客は5人。それでもいつもの通り太巻き寿司を1升巻く。Sさんが車を置いてきたので少し飲んだ。ゼネコン勤務のSさんは「3回目のリストラがまもなく始まる。今回は危ないかな」と笑う。3時過ぎ、一斉に引き上げていく。宴の後は寂しい。

3日 いつもの通り教え子のMさんが来てくれる。「主人と下の二人の子は駅伝の応援。長女は今日から予備校」とMさん。ヘルパーの仕事をしている彼女の言。「先生 元気で死ななければダメ」。ほんとうにそう思う。
夜「五木寛之と五木ひろし」のテレビを観る。五木寛之が五木ひろしの名付け親とか。番組の終わりに五木寛之が、今の自分が在るのは本当にたくさんの人に助けられたからだと話した。。「一人で生きてきた」みたいに尊大な武勝美には、身にしみる言葉だった

4日 今朝から味噌汁が飲める生活に戻った。バアちゃんの入浴が終わってから、25日の『「寺山ものがたり」を歩こう』の説明ポイントの現状を見に行く。荒れた竹やぶの中「こんなところを案内しても」と思うが、大事な場所だからやはり見てもらうことにする。準備した年賀状が切れたので、午後郵便局に行った。混んでる。普通の生活が始まった。暖かい一日だった。

何となく今年は良いことあるごとし
【No.328】 2005年01月01日

 昨夜は3時間ほどかけて夕食。ビール2本と冷酒を3合ほど飲んだ。「『曙』かわいそうだね。相撲は格闘技じゃないのが分からないのかネエ」なんて話しかけながら飲んでいるから、みんなに嫌われる。

 「紅白」、もう私が観るプログラムではない。歌謡曲・演歌と共にそれぞれの時代を生きてきた私、それは遠い過去になった。「アカシヤの雨がやむとき…」は60年安保。「息で曇る窓のガラス拭いてみたけど…」と石川さゆりが歌っていたころ、教組の役員で主任制の闘争をしていた。

 足元が悪かった、危なかったので初参りには出かけなかった。

 今朝は快晴。だが胃は不快。初日の出を二階から拝む。9時ごろからHP用の原稿を急いで書く。10時半にアップ。年賀状が届いた。十数人が『広報はだの』のことを書いてきてくれた。午後、返事を書き始める。30通ほど書き、あとは夜に。4時過ぎ、ちらちらと小雪が舞い始めた。南の空に雪雲。そしてまもなく西は青空が広がった。昨日の朝から今日の夕方までの天候の変わりようが、今年一年の予感とならなければよいのだが。

 何となく今年は良いことあるごとし元日の朝晴れて風なし  石川啄木

明日からお正月の仕度
【No.327】 2004年12月27日

 昨日の日曜日、高校駅伝をテレビで観戦。母校・秦野高校が女子で15年ぶり、三回目の出場。結果は26位だったが、1、2年生のチームだから「大健闘」と言えよう。今日秦野の商店街を通ったら「秦野高校女子陸上部 感動をありがとう」という手作りの看板が立っていた。

 今日は9時から教育研究所で開かれる研究員会議に参加した。2年かけて研究が進められてきた『秦野の新聞教育』が、明年3月に出版される。その出稿が年明けということで、最後の助言をする会議。

 太平洋戦争が終わった直後の1947年に、秦野の中学校にも学校新聞が誕生している。この研究は、そのころの新聞を見つけ出すことからスタートした。研究員は現役の先生、全員年齢は50歳未満、新聞教育に深い思いを抱いていらっしゃるわけでもない。まさに“試行錯誤”でここまでたどり着いたようだ。そのご苦労は察して余りある。
 2004年の12月に発行されたPTA広報まで、おおよそ60年間に発行された新聞が集められた。「学校新聞も又、時代を反映している」ことがわかる貴重な資料である。
 まもなく冊子になるこの研究収録は、新聞教育にかかわってきた私にとってもったいない、嬉しい贈り物になる。

 今日のこの会議で今年の私の活動は終わり。明日からはお正月の準備。例年ほど寒くないので、今のところ体調は良好。まずはお雑煮に使う里芋掘り。

出張校正 
【No.326】 2004年12月23日

12月22日

 『広報はだの』の出張校正で小田原へ。「出張校正」という懐かしい言葉、そしてその仕事。広聴室のIさんの案内で5人で出向く。

 新聞の出張校正に初めて行ったのは沼津の日興印刷という会社だった。「東中新聞」の校正で昭和39年だった。東海道線に乗り、丹那トンネルを抜けて沼津まで出かけた。。先輩の井沢先生と一緒だったので、なんとなく旅行気分だった。活字を一本一本拾って組版をする時代だった。担当の加藤さんがとても親切だったので、そのころはここに印刷を頼む学校が神奈川県でも多かった。それだけ学校新聞づくりが盛んだったともいえる。伊東市の東海美術印刷にも校正で出かけたこともあった。
 小田原のS社に印刷を頼んだ年、担当のTさんと意気投合し、午前2時まで飲み歩いて帰ったら、「今、警察に捜索願を出そうと思っていた」と真顔の妻が玄関に仁王立ち。「更生施設」に送られるところだった。

 今日は10時から5時までで、4回見ることができた。カラー印刷なので色校正は後日に。4ページ、レイアウトは見事に収まった。空き行は一つもなし。今日の段階では「満点」。17人の力の結集の結果だ。市の車での往復。車体に記されている文字は「秦野市議会」。

ユズ
【No.325】 2004年12月21日

 火曜日はバアちゃんの入浴の日。「もし差し障りなければユズを使いたいが」とお世話してくれる人に聞いてみた。「どうぞ、どうぞ。私たちもユズの入浴剤を今日はもってきましたので」。それでバアちゃんはきのうもらったユズを握り、ユズの香りの風呂に入った。入っている時間がいつもより長かった。たぶん、介護の皆さんが気を使ってくれたのだろう。 
 今日は冬至・ユズ湯。午後、湯河原から届いたみかんの箱にユズが入っていた。「今夜のお風呂に間に合うように」という手紙が添えられていた。

もらひたる柚にも峡の日のぬくみ  木下夕爾
【No.324】 2004年12月20日

  食卓の私の定位置から隣の畑のユズの実が見えていた。12月に入ったころからその黄色く輝く実は、濃い緑の葉影から浮かびあがってくる。今日の昼食のとき、テーブルに着こうとしていつものように窓の外に視線を送った。多分数十はあっただろうユズがすべて消えていた。黄色の背景を作っていた緑が煤けたような色に見えた。
  ほどなくして玄関のチャイムが鳴った。出てみるとユズの木の持ち主のMさんだった。「こっちのほうはユズ湯に。それと、これは落としちゃったので、よかったら食べてみてよ」。割れたユズの香りがたちまち家中に広がった。暦を見たら明日は冬至。
  「煮大根にユズを添える」とこの間の新聞に出ていた。それで畑から大根を一本引き抜いてきた。今夜は「熱燗」にしよう。

今年の冬
【No.323】 2004年12月13日

  私の中ある秦野の季節感が、この冬にはまったく当てはまらない。庭に出ると水仙の香りが強く流れてくる。もう我が家の水仙は満開。庭続きの畑に蒔いた絹サヤが今年は元気がよい。例年なら今頃から霜にいじめられ、成長が止まってしまうのに、生き生きとした緑の葉をもう数枚つけている。まだ里芋は掘りあげなくてもよさそうだ。タカフチ山の色合いも黄や茶色など暖色のまま。きょうは一日かけて柿の木の剪定をした。この作業も例年なら鼻水を垂らして、なのだが。その柿の木、一年経っても幹が太っとは感じないが、背丈は確実に伸びている。脚立に乗っかる姿勢が危なっかしくなっている。
  二学期末になった。この秋に発行されたPTA広報が続々送られてくる。きょうまでに17校。数年前までは二学期号は、運動会や文化祭の写真特集が多かった。今届いている広報は『子どもの安全』『PTA祭りってなんのためにやるの』『親子で読書を』『他にないの委員の選出方法』など、かなり骨っぽい特集が組まれている。頼もしい。

すごい一日
【No.322】 2004年12月08日

 12月7日の私の生活 
  9:00 バアちゃんの入浴サービスが始まる。
  9:15 私の歯の治療。
 10:00前 Mさん家族新聞を持ってみえる。
 11:00 バアちゃんの歯の治療(往診)
 13:00過ぎ 「エコー」を届けに南公民館と東公民館へ。
 15:30ころ T議員突然の来訪、1時間ほど学校教育の論議。(お願いした写真を届けにM先生、加えて教え子のTさんも来訪。T議員と重なってしまい、二人には申し訳ないことになってしまった。)
 18:00過ぎ 学校からの帰りにO先生「エコー」の原稿を持ってきてくださる。

 ・茨城から名産が送られてきた。すぐに礼状を書く。
 ・研究所のSさんから「明日会いたい」との電話。
 ・旅行の請求書がファックスで来る。明細を植木さんに電話し、支払いの準備をしてもらう。
 ・M先生と「広報はだの」の写真の件で打ち合わせの電話。 

そんなに気にしたって、あなた
【No.321】 2004年12月06日

『広報はだの』12月1日号の反響。
その1、鶴巻中時代の教え子からメールが届いた。
その2、同じく鶴巻中時代のPTA広報委員さんからもメール。
「相変わらず頑張っておられますね☆ 髪がちょっと…? 他は少しも変わらずとても懐かしかったです! 私も元気にしています。切り取っておきます。これからもお元気でご活躍下さい(^o^)/~」 そう、自分でも紙面を見て「もう少し整えておけばよかった…」。そんな反省をしていたら、12月4日の朝日新聞の夕刊に「見た目 そんなに気にしたって、あなた」という山口文憲さんのエッセイに出会う。けっこう納得! このページの他のエッセイ「焼酎」、「ほろ苦」、「二枚目」、そして「法政学館」もおもしろかった。エッセイといえば神奈川新聞日曜日の「風ひかる」欄の馬場あき子さんのエッセイも好きだ。

秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は養老渓谷でした
【No.320】 2004年12月04日

所属する秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は12月2・3日に行われた。今年房総の養老渓谷の紅葉がメイン。1日目、筑波宇宙センターを見学する予定が渋滞に巻き込まれやむなくパス。というのは那珂湊港で握りずしの昼食が待っているから。午後は鹿島神宮で今年の納めの参拝をする。午後3時近かったので境内は森閑としていた。奥宮に続く参道が気に入った。泊まりは犬吠埼。二日目は灯台に登り地球の丸いのを確認。銚子市内の見学をして九十九里沿いに下る。一宮で太平洋を眺めながらの魚三昧の昼食。刺身がとろけるように甘い。昨日今日と、かなりのボリュームの昼食だが、キレイに平らげる自分に驚く。周りに釣られてかもしれないが、とにかくおいしいから食べられるのだ。腹ごなしに養老渓谷では川沿いに約3キロメートルを歩く。例年のごとくサロンバスを使った。全員オーバー・シックスティだが、よく飲み、よくしゃべり、よく食べ、元気よく歩いた研修。 
 夜の懇親会の席で、会長から「会員が死亡したときには花輪で弔意を表したい」と提案。多分この提案が励みになって(?)、ますます元気に会になることだろう。大拍手で承認。会員22名のうち16名の参加は過去4回の旅行と比べ最高。来年はどこで紅葉狩りが出来るのだろうか。

 『マンスリーエッセイ』のページに写真をアップしています。

イノ・シカ・チョウとの戦い
【No.319】 2004年12月01日

「丹沢大山総合調査」を神奈川県から委嘱されている日本大学の日暮先生にお会いした。「秦野地方は『水と生活』が調査のテーマになる」ということで会いたいとのこと。それで湧水についての資料を提供することになった。
 東田原の横掘り井戸、寺山・西の久保の天水場、清水湧水池跡記念碑、横畑の松下家のわさび田を案内して回った。 
 松下家では運良く当主の雅雄さんに会えた。農学が専門の日暮先生と「JAはだの」組合長である松下さんとの会話では農業に話が行き着くのは当然。その内容は大変興味深いものだった。
 「農家は今、イノ・シカ・チョウの戦いわしてる。チョウは蝶じゃなく、鳥害だけど」と笑う松下さん。松下家は屋敷続きに竹やぶがあるのに、この春は一本も竹の子を取ることができなかった。竹の子がまだ地中にあるときに猪に食べられてしまうのからだ。
 「鹿も鳥も同じ、実る前にすべて食べてしまう。堆肥を撒いて土を肥やし、野菜を作っても、種を蒔いた時点で畑はすべてひっくり返されてししまう。地中のミミスを食べるからだ。有機野菜など作れない。最初はネットを張り巡らして防いだ。次は匂いの強い化学肥料を撒いた。人声を聞かせるのがよいと教えられラジオを畑で鳴らすことも試みた。すぐに慣れられてしまった。爆竹も使った。カーバイトを使った脅し銃も鳴らしたが、どれもその瞬間だけ。最後の手段として、建築工事の現場を囲う鉄板、2メートルもある高さの、を張り巡らした。さすがに猪も鹿も越えてられない。今は朝、穏やかな気分で家の周囲を歩ける」と松下さん。奥さんが話を継ぐ。「朝、荒らされてしまった畑や藪を見ると、辛くて。悔しいより、寂しい。このお百姓の心が分かりますか。今はほんとにホッとしている」。そして「いつまで“勝って”いられるのか。それと工事費を考えると…。でも畑や山は荒らせない…」

歯の治療 あの音
【No.318】 2004年11月24日

 バアちゃんの唯一の楽しみである食事、その食事のとき顔がゆがむ。入れ歯が合わなくなったらしい。私のかかり付けのSさんに往診を頼んだ。
 きょうで4回目、本格的に治療ということで入れ歯を削ることになった。
入れ歯だから削るにしても外せばいいわけだが、年齢が年齢、そして耳が遠いのだから治療はたいへん。立ち会っていなければいけないので、あのグラインダーの音を側で聞くはめになった。自分の治療ではないのに、歯が浮き、神経がうずく。
 ベッドに横たわっているバアちゃん、聞こえるはずはないのに、この音は聞こえるのだろうか。それとも響いて伝わるのだるうか。それとも、30数年前の治療を思い浮かべているのか、作業中のお医者さんに顔を向ける。まもなく呼吸が荒くなり、目じりに涙が…。入れたり外したりの動作中も涙。こうして、1時間かけ治療が終わった。
 昼食を摂る様子を眺めていたら落ち着いていた。だが、歯の治療はそんなにたやすく終わるものではない。生きてることはたいへん。

新米届く
【No.317】 2004年11月22日

 きのうの午後、宅配便のお兄さんが元気よく我が家に入ってきた。福島から新米が届いたのだった。送り主は教え子のTさん。
 玄関に置かれたその箱を持ち上げようとしたが、そう簡単には動かなかった。なんと30キロのお米。

 今朝、食事の前に目を通していた朝刊の俳句欄に
 「ずつしりと新米届き動かせぬ 渡辺あや子」
 という一句を見つけた。
 長谷川櫂の選評「新米というと軽やかな感じがするが、実際には水分が多いので重い。軽やかにして重たい新米の喜び」
 今朝、その新米は、甘く、しっとりと炊き上がった。 
 きょうは「小雪」とか。この冬は、身も心も温まるご飯を毎朝いただける。

11月18日 満ち足りた一日
【No.316】 2004年11月19日

 もうお正月の準備だ。お隣に植木屋さんが入った。それで庭での枯葉焚きを午前中は遠慮した。
 小さな耕運機(ホントは管理機というのだ)で畑を耕し、そのあとに玉ねぎの苗200本を植えた。昼食を食べていたらポツポツと雨。あわてて庭に飛び出し、桜の落ち葉の山に火をつけた。真っ白な煙が小学校の校庭の方に流れるのを気にしながら、絹さやエンドウを蒔く。雨脚が強くなったが、雨樋の掃除もした。これできょう予定していたことは全部終わった。満ち足りた心。
 夕方、留守電を入れておいた谷津さんから電話。『広報はだの』の4ページを制作するこれからの手順を話し合った。中学生の手書きによる紙面なので、出稿してしまったら校正はほとんど不可能。出稿までが勝負。22日の作業の後、谷津さんが原稿を届けてくれることになった。夜10時近く、4面のリーダーの鎮西さんから電話。22日に集まって本格的に作業を始めるとの報告。谷津さんが出向くから、と伝えたら喜んだ。

市民が作る『広報はだの』 最後の編集会議
【No.315】 2004年11月18日

 市制50周年記念の『広報はだの』の編集会議は昨夜で最終回。担当した面の取材や編集会議を含めれば、各人が10数回がんばったことになる。
11月末には出稿。今夜は各記事を全員で読み、記事を完成させるのだが、取材担当者は、自分の記事に対する思い入れもあるようで、なかなか訂正に応じない。自分らしさを記事の中に表したいようだが、「市の広報」という枠があることで納得してもらう。編集の責任者として、一人でも多くの市民に読んでもらう紙面づくりを再度お願いした。小学生でも読める平易な文、魅力的な見出し、この二つの作業に集中してもらった。
 4面は中学生の手書きのページ。その中に4コママンガが入ることになっている。担当は中1のUさん。今までに10回以上描き直してもらっている。吹きだしの中の言葉にもかなりダメを出した。だがUさんはめげない、ふてくさらない、ひるまない。彼女の若さ、しなやかさがうらやましい。

桐生好幸君
【No.314】 2004年11月17日

 11月6日に開かれた同窓会に出席していた桐生好幸君が、交通事故に遭い、亡くなってしまった。15日の朝、信号待ちしていた彼の車に大型トラックが突っ込んだ。前の二台も大型車だった。
 同窓会の夜、私が席に着くとすぐに声をかけてきたのが桐生君だった。「お久しぶりです。お元気ですか」と彼。「なんとか元気。やせたんじゃない? 元気なの」「この通り、大丈夫です。けっこう仕事が忙しいんです」。こんな言葉を交わしたことを思い出す。
 49歳、4人の子の父。彼の霊に捧げる言葉が見つからない。

県学校新聞コンクール
【No.313】 2004年11月09日

 第54回神奈川県中学校・高等学校新聞コンクールの結果が今朝発表になった。中学校・学校新聞の部では最優秀賞が秦野・大根中学校で、これは4年連続の栄冠の快挙。ほかに秦野市からの入賞は優良賞・東中学校、佳作・北中学校、努力賞・鶴巻中学校だった。学級新聞は川崎市が圧倒。最優秀から佳作まで7つを独占。秦野は努力賞に鶴巻中の1年生のクラスが入った。 応募数や入賞校の地域をみると、中学校が新聞づくりが出来る環境でなくなってきているように思える。こんな今だからこそ、新聞が果たす役割を先生たちに理解して欲しいのだが。 
 今年の新聞週間の「新聞広告を広告する」コンテストのキャッチコピーは『世界を前より平和にしたぜ』だった。新聞広告だけでなく、新聞そのものがこんな自信をもってくれたら、学校での新聞づくりも復興すると思う。


今年は都大路を走る秦野高校
【No.312】 2004年11月08日

 駅伝のシーズンになった。暮に京都で行われる全国高校駅伝、新春の箱根駅伝、そして同じく京都を走る都道府県対抗女子駅伝と楽しみが続く。
 その高校駅伝の県の予選会が6日に行われた。そしてなんと女子の部で秦野高校が15年ぶりに優勝した。5連覇中の白鴎女子にわずか1秒の差で勝った。見事というしかない。男子の部でも秦野高校は6位、こっちも7着の横浜高校と同タイム。上位6校は関東大会に出場できるのだから、横浜とは天国と地獄の差。秦野高校の陸上部から1500bの石井隆士選手、女子マラソンの小幡選手が出ている。
 その秦野高校の全校マラソンは私の在学のころから行われていた。当時は土屋橋往復の1万メートル。まだはるか彼方が折り返し点というところで、トップ集団の陸上部の海老茶色のランニングシャツに出会う三年間だった。

小田原経由鶴巻・陣屋行き
【No.311】 2004年11月07日

 昨日午後、小田原駅前の八小堂書店で「『夢の本』フェア」を開いている夢工房の片桐さんを訪ねた。秦野で小さな出版社を15年前に興した片桐さん。丹沢山麓や箱根、小田原などの生活文化や自然に力点を置いた出版活動を続けているのが「夢工房」の特色。今までに400冊も刊行してきている。私の本も4冊並べられていた。そして鶴巻中がお願いした創立10周年誌と研究集録も置かれていた。 
 そして5時から鶴巻・陣屋での同窓会に出席。ちょうど50歳になった彼ら。小惑星を6個発見した天文家、今話題の品川・Pホテルの調理部の課長、前田夕暮研究をしている大学の先生、ゴルフ場の支配人、歯科医、幼稚園長、消防署員、学校の先生、介護士、JA勤務、農業、教員など顔ぶれは多彩。そろそろ親の介護が始まる年代、何人かの女性からそんな話をきかされた。男性は「リストラ年代」を強く意識している。子どもが外国で学んでいるという報告が二人からあった。そんな時代でもあるが今。
 余興の餅つきに興じた。小室さんと私をまぜて41名全員が二次会に出た。11時過ぎまで飲んだがカラオケは回ってこなかった。

過去の日記へ12345678910111213141516|17|181920212223   [管理]


-- トップページに戻る --