- 寺 山 だ よ り -

ハワイじゃないが、まっ、イイか
【No.450】 2006年02月08日

 昨日の朝日新聞『青鉛筆』欄に、お年玉付き年賀はがきの1等が二本当たった主婦が紹介されていた。確率は《100万分の1》だとか。
 この主婦が受け取った年賀はがきは18枚。その中の2通が当たったのだ。その人、賞品の「ペアでハワイ」の旅行券を二つ選んだ、とあった。昨年まで、「お年玉付き」の4等の下二桁当選は三つあった。それが今年から二つに減り、代わりに1等の本数が増えたのだそうだ。私のささやかな楽しみは一層小さくなっていたのに、この主婦はなんと《強運》。
 と、ひがんでいたら、今日ビール会社から私宛に封書が届いた。開けてみたら、「当選おめでとうございます。産地直送新潟コシヒカリを5kgさしあげます」という文書。酒のディスカウント店でビールを買った時、応募した懸賞の当選通知だ。
 「ハワイじゃないが、まっ、イイか(○○インの社長の言葉みたい!)」と、とたんに気分良くなった。そう、昨年は回転寿司に行った折、応募したらコシヒカリが2キロ当たったっけ。もっとも、両方とも応募したのは妻。

きょうもノウシントウ
【No.449】 2006年02月06日

 お医者さんに行き、3時半ころ帰ってきた。茶の間から入ろうとしたら、濡れ縁にメジロが横たわっていた。目は動くが、体は動かない。右手で、そっと握る。温かかった。ガラス戸に衝突してのノウシントウ。この間はヒヨドリが“落ち”ていた。
 茶の間には大きな素通しのガラス戸が入っている。けっこうキレイにしてあるので、庭の常緑樹がそのまま映る。それで鳥は間違えて飛び込むのだ。
ガラス戸が鏡の働きをしてしまうらしい。 妻にも見せ、数分掌の中に置いた。二階の窓を開け、そっと掌を開く。メジロは数秒間、私の人差し指をしっかりつかんでいたが、元気に飛んで行った。そして、まだほとんどつぼみになっていない梅の木に止まった。

立春
【No.448】 2006年02月05日

 立春の昨日、東京に出かけた。“打ち上げ”でちょっぴりビールを飲み、帰りの電車に乗ったのは8時少し前。車中では同行の二人と新聞作りの話に花が咲いた。Yさんが鶴巻で降りるとき、初めて車外が銀世界であることに気づいた。
 駅前で蓑毛行きバスの最終・9時37分発を待っていた。わずかに行き来する人がバリバリと雪を踏んで行く。 
 バス発着所のすぐ背後に居酒屋がある。そこから10人ほどの中年の女性が元気よく出てきた。その女性たちの輪から聞こえた声「次 どこに行く?」。

 今朝「立春の雪」を撮リ、ホームページに載せた。

節分
【No.447】 2006年02月03日

午後、本町公民館で新聞の話をさせてもらった。(詳しくはHPで)
久しぶりに肉声でしゃべったので声が枯れかけた。それに、相対したのは県下の指導主事の先生方だったのでペースを作るのも難しかった。
 帰りにジャスコの食料品売り場を通ったら、お母さんたちが人垣を作っている。覗いてみたら「恵方巻き」だった。今朝の「朝ズバ」で、みのもんたが食べていた。どうやら今年は大《ブレイク》らしい。今夜の夕食は無言で太巻きをほおばる家庭が多そうだ。江戸時代の米屋の販売作戦だとか。だから丸々一本食べなければいけないらしい。
 節分は「豆まき」のほうが私には自然なのだが、HPのトップが戸田からの「恵方巻き」のとおり、私も乗せられている。

二月のはじめの日
【No.446】 2006年02月02日

2月1日
 例年通りの「お棚納め」。6時に神棚や仏壇に灯明を上げ、温かい白いご飯を供える。朝食の後、家の中、屋敷内のすべてのお飾りを下げる。これで正月行事は終了。
 それにしても、今年の正月のこの国の混乱ぶり。マスコミの騒々しさの中から、その混乱の源を私なりに特定できたのだが。今日から二月、それらはすべて今月に持ち込まれ、事態はさらに悪しき方向に広がっていく。

 Tさんから、清水基吉監修の俳句集『愛といのちの十七文字』が送られてきた。句集だが、歳時記的にも使える。
 子規、逍遥、露伴、四迷、漱石、利一などの文人、加えて国語の教科書に登場する芭蕉から現代の俳人までと、その名を追うだけで楽しい。なにより面白いのは、今の「まち」の俳人の作品が大家と並んで掲載されていることだ。 
 前記のTさんは加藤楸邨の隣りにいる。このページには臼田亜浪、上田五千石、次ページには細見綾子、瀬戸内寂聴という具合。
 巻頭のページ次の五句
 麗しき春の七曜またはじまる     山口誓子
 七草を過ぎ何やらを過ぎ春となる   桂 信子
 一病を得て息災や老いの春      景山筍吉
 生くることようやく楽し老いの春   富安風生
 あたら春を死にぞこなうてしまひけり 坪内逍遥

 清水基吉の選びそうな、ここに並べそうな句だ。

きんつば
【No.445】 2006年01月27日

 飯田のまちから私の好きな《きんつば》が届いた。その箱に記されていた詩。騒然たるかの国を思い、しみじみと、詩ときんつばをほうばった。

 飯田の町に寄す  
            岸田国士

 飯田 美しき町 
 山ちかく水にのぞみ
 空あかるく風にほやかなる町

 飯田 静かなる町
 人みな言葉やはらかに
 物音ちまたにたゝず
 粛然として古城の如く丘にたつ町
 
 飯田 ゆかしき町
 家々みな奥深きものをつゝみ
 ひとびと礼にあつく
 軒さび甍ふり
 壁しろじろと小鳥の影うつす町

 飯田 ゆたかなる町
 財に貧富あれども
 身に貴賎ありとおぼえず
 一什一器かりそめになく
 老若男女みなそれぞれの詩と哲学とをもつ町

 飯田 天竜と明石の娘
 おんみさかしくみめよく育ちたれど
 今新しき時代に生きんとす
 よそほひはかたちにあらず

 美しく 静かに
 ゆかしく 豊かに
 おんみの心をこそ新しくよそほひたまへ

反響 NO3
【No.444】 2006年01月23日

編集委員になったような気持ちで読めました。

ここはこんなふうに歩いて聞き調べ 文字の組み立てはこれでイイかな?  色使いを見たり、読みやすく出来たかな? ここは苦労した!
 写真はこれでいいかな? 読者は行ってみる気になったかな?

 レイアウトをして、発行を待ち 発行され 反応は? 編集委員さんはこんな気持ちだったろうな?と。

 私が参加することになったら体力は無いので、イラストやパソコンを使うことくらいかな。大変だったろうけど、達成感はすごいだろうな…。

 「オアシス」いいですね! 
 娘(春美が)が「武先生そっくり!」と似顔絵を見て言ってました。                                真由美

「広報はだの」の反響 NO2
【No.443】 2006年01月20日

 編集委員の初野さんに届いた「広報はだの」についての感想。
 「初野さんがつくられた『市民が作る広報はだの』ですが、冒頭の、人をまちをつなぐ言葉―オアシス(おはよう、ありがとう、信じてる、すてき)は面白いと思います。皆様で考え出されたのでしょうか。また、秦野の歴史を訪ねる―歩いてはだの再発見は、写真入で興味深く、健康のため私もこれから訪ねてみたいと思います。おいしい安い秦野の水は、改めて、天然の水に恵まれた環境に生活できることを感謝せねばと感じました。このような新聞は、出来上がるまでには大変な時間を要されたと伺いましたが、折に触れ報じていただければありがたいと思います。本当におつかれさまでした。そして、ありがとうございました。」

 次は私宛の手紙。
 「広報はだの」ほんとうにすばらしい新聞ができましたね。1ページ1ページ、しっかり読ませていただきました。森下先生の写真に、私も一度訪ねてみたくなりました。普段は、「読んでしまったら終わり」の広報ですが、1月15日号は「明るさいっぱいの新しい年」にぴったりの広報です。とても嬉しくなりました。(K)

50本の深紅のバラ
【No.442】 2006年01月16日

 10時半、『市民が作る広報はだの』が発行できたことの報告とお礼をいうため、編集委員4人で市長室を訪問。その際、知人のSさんから届いた今度の『広報』の読後感を市長に読んでもらった。市長は「嬉しいですね。こんなふうに読んでくれて。この人どんな人なの。専門家だね、鋭い。市民もこんな読み方をしてくれたらいいね」。「これを契機に60、70周年と発行するといい」と言う。
 市長は、秦野市が誕生してから50年間、市役所に勤務している。それで、50本の深紅のバラをお礼とお別れの思いを込め、市長に贈った。


『市民が作る広報はだの』の反響
【No.441】 2006年01月15日

 きょう発行の『市民が作る広報はだの』の反響。
 午後3時半過ぎ、編集委員のMさんが「広報の反応、何かあった?」と訪ねてきた。何もないと答えたら「今、そこで広報を持った人に会ったよ」とニコニコのMさん。
 いつもの散歩のコースの鹿嶋神社の境内を通っていったら、一人の男性が「今朝の広報に出ていた学校水道の水源地はどこか」と近所の人に尋ねていたという。それで、Mさんは案内をしてあげたらしい。現地で、その男性は「広報の地図、これでは分からない。もう少していねいな地図が欲しい。案内板を作ったらいい」といったとのこと。秦野に来て十数年、北矢名の住人とのことだった。
 こんなに早く反応があるとは思わなかった。編集委員としてはとても嬉しいことだ。

校正ミス 
【No.440】 2006年01月12日

 今朝の朝刊に折り込まれた『タウンニュース』が、1月15日発行の『市民が作る広報はだの』を紹介してくれた。それを喜んでいたら「校正ミスがあった」と広報広聴室の磯崎さんから電話。確認したら“間違いない”ミス。なぜこんなところを 見落としてしまったのか。編集は私たちなのだが、発行は広報広聴室。申し訳ないことをしてしまった。
 午前中は春のような暖かさ。それで、一日早いが14日の「だんご焼き」に使うコナラの枝を切りに向林に行く。昨春、間伐をしてもらった檜林がそれらしい林になってきている。この檜は父が30年ほど前に植えたもの。用材になる太さに成長するのを、私は見届けることはできないだろう。 
 普通の畑だったものをミカン畑に替えた。だがそのミカン畑も手が回らなくり、檜を植えた。この変遷は典型的な農業の衰退。間伐をしなければ山は荒れ、やがて土砂崩れを引き起こす。来たついでに2時間ほど下草刈りをした。今年初めての農作業(山の「仕事始め」は2日にしなければいけないのだが…)。久しぶりの汗。

きのうで60000
【No.439】 2006年01月09日

このホームページヘのアクセスが、昨日の午後6万になった。ここ数日は100台のアクセスが続いている。多ければいいというわけもはないが、カウンターが付いていると、その数字がとても気になる。  
 たぶん集客力があるページは「ライブカメラ」だろう。私としては『秦野の新聞』と『寺山ものがたり』が看板だと思っているが、どちらもローカルでマイナー。だからこそ、この二つページに力を注がなくてはいけないと思っている。
 庭の給餌台のミカンを食べにくるヒヨドリが、時々この部屋のガラス戸に衝突する。昨日の午後も一羽、激しい勢いでガラス戸にぶつかった。外に出てみたらノウシントウを起こしていた。

『市民が作る広報はだの』の打ち上げ
【No.438】 2006年01月07日

1月6日
 1月15日に発行する『市民が作る広報はだの』の打ち上げ・ご苦労さん会を6時からレストランバーで開いた。集ったのは編集委員8人と市広報室の3人。この日に打ち上げをしたのは、私たちの広報が届く日だから。
 ビールで乾杯。苦労話も笑い声でできたのは、手にした広報の出来映えに満足だから。今回はていねいな取材をした。よく言われる「足で書いた記事」ばかり。全ページカラー印刷。私たちは自信を持ってこの号を 市民に手渡すことができる。

 各紙面の見出しで内容の紹介をすると、
1面のメインテーマは「人をまちをつなぐ言葉・オアシス」「おはようで始まる一日を」「With youありがとう」「辛抱から信頼へ」と、キイワードの『オ・ア・シ・ス』で紙面を作っている。
2・3面は見開きのレイアウトで『歩いてはだの再発見』の特集。「風の通い道そぞろ歩き・矢倉沢往還から蓑毛道」「大山道をめぐる水の物語」「本町地区の歴史的建物とくらし」。それに「第1回秦野丹沢水無川マラソン」に参加した委員のレポート、さらに実朝祭りの流鏑馬神事も紹介している。
4面は「おいしい安い秦野の水」「金目川の源流・髭僧の滝を訪ねて」「歴史ろまん波多野氏物語」で秦野の良さを再発見している。

私は「満足顔」です
【No.437】 2006年01月05日

 昨日の神奈川新聞が「市民が編集、広報紙発行へ」「秦野再発見、提案も」という二本見出しで、この15日に出る『市民が作る広報はだの』の紹介をしてくれた。三段見出し、記事は56行で写真付きの扱い。ほんとうにありがたいこと。たぶん大勢の人が15日を待っていてくれるだろう。私が「満足顔」と書かれているが、この記事の大きさはまさにその通り。
 編集委員の一人Cさんが年賀状でこんなことを書いてきた。
 「もうすぐ広報が出ますね。とても楽しみです。今回はあまりお手伝いできませんでしたが、とても楽しかったです。ほんとうにいろいろとよい体験をさせてもらいました。感謝しています。5キロマラソンは、久しぶりに清々しい心で走れました。今年は教育実習をします。《夢》が近づいて来ているように感じるお正月です。今年も頑張ります!!」
 Cさんがこんなことを感じてくれただけでも、この広報づくりは良かったと思う。
 8時前から雪になった。初雪、2センチくらいは積もったろうか。昼過ぎ、陽が指し始めた。

Sさんの年末年始
【No.436】 2006年01月04日

2日 例年のごとくお年始の太巻き寿司づくりを午前9時から始める。炊き上げた米は1升。酢の味加減も自分でやる。昔は、オボロ、高菜、卵焼きなども使い、本格的な太巻きに挑戦したが、ここ数年はやっていない。海苔巻きだけで、芯はカンピョウ、キュウリ、それにたくわん。2時間ほどで鉄砲巻きと太巻きを10数本巻いた。「上手になったわね」と女性陣にほめられる。腕前は確かに上がり、きれいに巻きけるようになった。でも、立ちっぱなしハ疲れる。
 11時半ころから『お年始』。今年はS家は喪中のため来ないので、少し寂しい。そのS家の主(義弟に当たるが)元旦を休むだけで勤務に就いている。 
 年末に来たときの話。配管工事が専門のSさんは、ある製造会社の工場の電気系統の配管を、その工場の正月休みの間(12月29日から1月9日まで)を使って工事をするのだという。その現場事務所を預かるSさんは、当然この期間中出勤なのだ。元旦が偶然日曜日ということで、「その日は何が何でも休む。現場で働く人がかわいそうだ」と言っていた。
 交通機関の関係者、サービス産業で働く人などは正月休みなど関係ない。そのことを承知で就いた仕事だ。Sさんは準大手の土木建築会社の社員である。毎年、正月休みノ楽しみはわが家の「お年始」とはゴルフだった。Sさんにとっては経験したことのない今回の暮れと正月。今日も現場の事務室で、建設業界の厳しい環境を身にしみて感じているのだろう。
  

大晦日から元旦へ 
【No.435】 2006年01月01日

12月31日
 6時起床。6時50分から食事。8時過ぎから昨日の続きで正月を迎える準備。先ず電灯の掃除、これがけっこう大変で個数でいえば67。10時になったのでバアちゃんに陽当たりのいい縁側に移ってもらい、バアちゃんの部屋のお正月の飾りつけをする。掛け軸を「双鶴」に架け替え、干支の焼き物を《犬》を先頭に並べ変える。ここまでで昼食。
 家中の「電灯」がキレイになったのは午後2時過ぎ。次にトイレと浴室の掃除。終わってお寺に一年のご挨拶、そしてお墓に注連飾り。帰りに延沢川で《ひとがた》を流した。
 4時半から「年越しそば」を茹で、そばつゆを作る。5時15分から神棚仏壇など5カ所に灯明を点け、お神酒とそばを上げる。バアちゃんを交えてのわが家の年越しの夕食は6時少し前から。長男とビールを少々。テレビは「第九」、月並みの表現だが、大晦日の「第九」はその気で聴くことができる。その後は6、8チャンネルを交互に観る。途中、バアちゃんの就寝前の歯磨きの手伝い。「紅白」は今年は全く覗かなかった。もう私が楽しめるな歌はほとんどない。「行く年来る年」で薬師寺、延暦寺など懐かしく観た。 0時15分、鹿嶋神社と円通寺に初詣。帰って「初湯」。床に就いたのは1時半過ぎ。これで大晦日が終わった。

2006年1月1日
 午前6時15分起床。《あきの方》の茶の間のガラス戸を開ける。冷気が新年の厳粛とも感じられた。この後、灯明を点け、お雑煮を神棚など5カ所にあげる。食卓の屠蘇の準備もする。これ等はみんな年男が三が日する仕事。7時半に祝い膳に着く。食事か終わると神棚に供えた雑煮を下げ、今度は鏡餅を上げる。豪華な?元旦の新聞を広げるころ、年賀状が届いた。

 「なぜこんなことを」などと思うことは全くない。続けられる気持ちと体力がある限り、続けよう。

注連飾り
【No.434】 2005年12月30日

 8時半ころから注連飾りの準備。先ずは神棚の宮形を庭に出し、はたきと雑巾できれいにする。次に神棚の掃除。そして宮形の中の御札の入れ替え。今の段階では伊勢神宮、阿夫利神社、笠間稲荷の三社。日本は八百万の紙の国、わが家二降臨される神も多くなる。寺山の氏神、鹿嶋神社のお札は元旦にいただく。 
 穏やかな天気だったので庭にゴザを広げ座リ込み、輪飾りを作っていた。すると、通りからここちらを見ている少年がいた。「何か…」と声を掛けたら、「注連縄を飾るんですが、太いほうがどちらか分からなくて、近所を見て歩いているんですが」。
 まだ15、6歳くらい。聞けば隣りの宝ケ谷戸自治会のM家の子どもさん。わが家から100メートルほど離れている。「付いていた説明書を今朝ゴミとして出しちゃったので」と言う。この間の植木屋さんの話では、家の中に注連飾りをする家は寺山でも数えるほどしかないとのこと。 
 M家は10年くらい前にこの寺山に住まいを持った。その家が、しかもどう見ても高校1,2年生くらいの少年が、お正月の注連飾りの手伝い、イヤもしかしたら家族に頼まれて一人で注連飾りをするなんて…、驚きだし、それよりなぜか嬉しかった私。茶の間の恵比寿大黒の神棚にも注連縄が張ってあるので、それを見せ帰ってもらった。「左が太いほうですね。ありがとうございました」と言って帰っていった少年。
 彼が帰ってから急に不安になった。ウチの飾り方が正しいのだろうか。インターネットで調べた。左が太いのは出雲大社の注連縄、ということを知りホッとした。だが、おおよそ8割の神社はその逆(右が太い)。夕方、M家の電話番号を探し、右・左があることを伝えた。電話の向こうでお父さんがとても恐縮していた。これも日本の正月の一シーン。

神奈川新聞の論壇に共感
【No.433】 2005年12月28日

12月26日 
今朝の神奈川新聞の論壇のページ。『辛口時評』で森島昭夫氏が「株取引の常識とは」と題して次のように書いている。
 「この株取引の顛末は東証ITシステムの欠陥問題などもからんで連日マスコミが取り上げ、証券業界を大きく揺るがしている。
 ところで、これに似たようなことがわれわれの日常生活の中で起きたらどうなるだろうか。八百屋さんが千円のメロンに間違って隣の三十円のリンゴの値札を付けていたとしたら、買い物に来た主婦は、メロンは普段は千円だが今日は三十円の値札がついているのだから、三十円しか支払わないと言い張るだろうか。多分『おじさん、値札が隣のと間違っているよ』と八百屋さんに注意するであろう。」
 次は同じ面の白石真澄氏の「小さな政府 誰が担う地域社会」の一部である。
 「奥田碩・日本経団連会長は十二月初めの記者会見で『日本全体が金目当ての国になりつつある』と懸念を示したが、私には日本列島を覆い始めた《競争》の大波が人びとのこころのありさまを少しずつ変え始めているようにみえる。
 私はここ数年、PTA活動を通じ地域とかかわってきたが、現在の家庭や地域社会は、私が子どもだったころと明らかに違う。何が違うか。どの家庭もやたらに忙しいのだ。背景はさまざまだが、共働きや残業など、「社会の生産活動」に携わる時間がここ数年ですさまじく増えているように思う。
 PTAの役員に名乗りをあげる人はまず見つからない。子どもが小学校に入ると母親たちはパートに出始め、共働き世帯数は夫だけが働く世帯数を上回り、母親たちは昼間、地域に不在となる。多くの父親たちも休日出勤やサービス残業で依然として家庭を顧みる余裕はない。
 大人たちの時間と意識が地域社会の外に向き、昼間の住宅地や通学路で子どもたちを見守る目は減少する。家庭の集合体である地域社会は、生産現場への人材拠出によって自治機能を失いつつある。企業だけでなく、家庭や個人も『効率』や『競争』を強く意識するようになったのだ。無駄なもの、利益に寄与しないものを『民』の競争原理によって省いていく。その過程で、同時にそぎ落とされる大事なものを私たちは見落としていないだろか。」
 二氏の意見に共感。

12月27日
広報広聴室、そして母がお世話になっているライフプラザに今年一年のご挨拶をしに行く。午後2時、来夏の新聞大会について事務局の先生たちと二時間ほど話し合う。「秦野で開くのだから」を基本に、研究分科会の持つ方について意見の交換。話が進むにつれ、構想は膨らんでいくのだが、現実にはスタッフを集めるのに苦労しそう。一月中に大会のアウトラインを決めて欲しい。
 きょうある団体から手紙が来た。その文面に「今年は屈指の寒さで…」とあった。「《屈指の寒さ》という表現、いいのかなあ」。
 年賀はがき投函。自治会の配り物の配布。退職教職員の会の会報も12軒に届ける。

全国高校駅伝
【No.432】 2005年12月26日

12月25日
 8時から畑の隅で焚き火。「焚き火」と書くと体裁いいが、植木屋さんの残した小枝が中心だから、もうもうたる煙。「これは環境破壊!」と気になって、見回すとあちこちから白い煙が立ち昇っている。風か全く無いので煙は流れていかない。なるべく小さな火にして…。そんなことしたって結果は同じ。年に一度、許してもらう。
 10時からテレビの前に座る。こんな時間にテレビを観るのはまったく珍しいこと。最近、夜もほとんどテレビは観ない。イヤ、観ていられない。気力が無いのだ。だが今日は違う。京都での高校駅伝の中継。昨年に引き続き、母校の秦野高校の女子が走る。今回で三度目。第1回大会に出場した時の放送は覚えている。出場校の紹介に、その学校の選手を一人映した。秦野高校は木村選手だった。
 昨年、県予選で1秒差の勝利、15年ぶりの復活。そして今年と二年連続。高校総体に出場した選手はいたが、入賞するというような強い選手はいないチーム。ところが、解説者が何度も「秦野は大健闘ですね」というように堂々の12位。見事な走りだった。身が引き締まるような喜びを感じた。

 「宝塚記念」を観た。武豊でディープインパクト、勝てなかった。

きょう 冬至 二学期の終わり
【No.431】 2005年12月22日

 一昨日から植木屋さんに入ってもらっている。それで10時と3時の「お茶」のお相伴をする。二人とも寺山の人、しかも長いお付き合いなので話が弾む。3時の「お茶」では、葉たばこの納付の時の検査の裏話。
 きょうは朝9時からバアちゃんは入浴。そして10時のお茶。その片付けが済むころはバアちゃんの食事の準備が始まる。
 昼休みの間にスーパーに冬至のユズを買いに行く。
 1時過ぎ、西小の広報委員二人が刷り上ったばかりの広報を持ってくる。「二カ所誤植が見つかった」とかなりショックの様子。子ども連れ、そう、今年は今日で二学期は終わりなのだ。ミカンを二個あげたら、女の子がそのミカンでお手玉を始めた。
 「市民が作る広報はだの」の編集委員に立候補してくれた5人の学生を『青少年のよい行いをほめたたえる運動』の褒賞者に推薦しておいた。その結果が届いた。被褒賞者に選ばれた。よかった。
 ユズの話に戻る。徳島産のパック入りのユズ。香りがいいのでパックを開けてみた。そうしたらユズを湯船に浮かべる袋が付いていた。思わず「ヘエー」、去年までウチではハンカチに包んで浮かべていた。

出張校正
【No.430】 2005年12月21日

12月19日 
 「広報はだの」の出張校正で小田原へ。
 広報広聴室が発行する1月1日号の校正のために広報室から3名。1月15日号の「市民が作る」のほうは私たち4名。
 同じ部屋で10時前から始めた。私たちの「市民が」は、見出しの文字の大きさや色を考える程度。隣りのテーブルの1日号は、とりあえず送り込んだ原稿をその場で書き直すなどという大変な作業をしている。携帯と部屋の電話をフルに使い、覗き込んだ紙面は《真っ赤》。
 私たちのほうと掛け持ちのチーフのIさんは「今夜は多分11時」とにっこり? 4面にかなり時間と手をかけた。4校まで行い、5時半ごろ失礼させてもらった。私たちとしては満足な紙面。
 
 出張校正の思い出。私が秦野で学校新聞を指導していたころ(昭和40年代)は、沼津の日興印刷、小田原の神静民報、伊東の東海美術印刷に出かけていた。旅費も時間ももらえた出張、申し訳ないが旅行気分だった。

 この日記を書いていたら 広報広聴室のIさんから電話。一つの記事に校正ミスが二つもあった。相変わらずの私! でも、他の3人も目を通したのに。先入観は怖い。

夕刊の記事二つ
【No.429】 2005年12月14日

12月13日
 学期末はPTA広報の発行時期。PTA広報5紙の講評を書いた。厳しい家庭経済のため仕事に出るお母さんの増加、活動のマンネリ化などからPTA活動への関心は著しく退化している。そのためか、特に高校のPTAは広報発行にお金をかける。だからオールカラーの豪華な広報ができる。その流れがそのまま小・中学校のPTAに来ていて、カラー印刷の広報が多くなった。「なぜカラーなのか」などあまり話し合われず、「きれいだから、他校も作っているから」ということで写真集のような広報が作られている。そんなことを混ぜた、ちょっぴり辛口の感想を書いて送った。
 「再度印刷をし直しました」という広報も届いた。付けられた手紙で「校正をしなかった箇所が印刷所によって変えられるなど思いもしませんでした。それに気づかず配布してしまった」と自分たちの不注意をわびている。訂正版と初版のを読み比べてみたら、学校への質問のコーナーで、学校からの回答の文が改訂版では20文字ほど増えている。ここが《刷り直し》された遠因ともみえた。
 「初校が出るので見て欲しい」とB小に頼まれていたので、委員長さんの来訪を待っていた。夕方5時半ごろみえた。「印刷屋さんがレイアウトどおりに段組みをしてくれない」と困っている。見る限りでは、印刷屋さんの「面倒なことはイヤ」という仕事振りと思えた。PTA広報はあまり商売にはならない仕事だが、紙面を作る記事を読めば、広報を作るお母さんたちの願い、そしてPTA広報が果たす役割は理解してもらえると思うのだが。このB紙の特集は「家庭・学校・地域で守る子どもの安全」で「知らない人からの声かけ81件」というトップ見出しをつけ、3ヘージで組まれている。A紙が取り組んだテーマも「大切な子どもを守るため 今できることを」。

☆夕刊の記事二つ
 その1「他証券が利益『美しくない』―与謝野金融相」。誤った売りと
分かっているのに、大手の同業者が大量の株を購入した。その行為は「商売だから、まして《株》だから」とは思うが、《武士の情け》みたいなものはないのだろうか…。もっとも外国の証券会社が中心の買いだったが。
 その2「道を聞かれたらすぐ逃げなさい」「人を信じたら身を守れない」警察官が小学校の防犯講話の中で使った言葉だという。今の日本の現実はこの言葉の通りかもしれない。だが、この言葉を子どもたちが信じ、行動したら学校はどうなるのだろう。先生にお願い、この言葉のフォローを心を込めてして欲しい。そうでないと、子どもたちがかわいそう過ぎる。

凍て雲
【No.428】 2005年12月13日

12月12日 
 ウチの近くの県道の交通情報板に、「ヤビツ峠より先チェーン必要」と出ている。数日前降った雪が残っているのだろう。昨日の朝、陽光があったのにしばらく粉雪が舞った。というわけで、ようやく部屋の模様替え。電気カーペットにした。
 7時から『市民が作る広報はだの』の編集会議。自宅で行った校正を持ち寄り、まとめる作業。情報を正しく伝えるためには、読みやすい、分かりやすい記事でなくてはならない。「『湧く』『汲む』』という漢字は使えるかどうか」などというような検討に時間を要した。今度の号にも清水や地下水二関係する表現がたくさん出る。『名水百選』の地・秦野だから当然なのだが、もっと新しい視点も持てる秦野でありたいとも思う。
 題字の担当はNさん、市の花の山茶花、撫子、紫陽花、辛夷をあしらったかわいらしい題字をその場で描き上げた。9時半まで頑張る。次は15日、市長さんも加わリ最終の編集会議。
 山茶花を「サザンカ」と発音するなら「茶山花」が正しい表現。誰がまちがえたのかなあ。

初校 始まる
【No.427】 2005年12月08日

 『市民が作る広報はだの』の初校が届いた。全ページを一通り眺めた。この号での私たちの主張は4ペーシを通して一貫していると思った。紙面もスッキリとしている。各面のチーフもホッとしているだろう。
 12日の編集会議で検討することは『見出し』。ゴシック体のものが多い。明朝体とのバランスを取ってもらうつもり。小見出しを含め、全体的に大き過ぎる。余白が少ないと読んでいて苦しい。その参考になるように、新聞や雑誌からさまざまな書体の見出しを切り抜いた。オールカラーなので、色のバランスが難しいが、編集委員の中に美大を出たYさんがいるので心強い。そして最後の砦は広報室のIさん。
 もう一つ50周年事業で私が関わった『秦野の景観の選定』は、明年1月末に発刊される予定の冊子の編集作業の追い込みに入っている。昨日、分担の原稿をまちづくり課に渡した。こちらも完成が楽しみ。
 
 今日は12月8日だ。 

編集委員二人も参加 第1回はだの丹沢水無川マラソン
【No.426】 2005年12月04日

 市制50周年の記念事業の「第1回はだの丹沢水無川マラソン」が今日開かれた。北は北海道、南は福岡から4200人のランナーが集まった大きな大会になった。
 『市民が作る広報はだの』の編集委員会は、取材を兼ねて大学生のCさん、中学生のAさんの二人の女性ランナーを参加させた。「歩いて秦野再発見」の続編として、マラソンコースを走りながら秦野らしさを発見する、という取材のためである。
 今度の号の最後の取材ということで、カメラを持ってスタート地点に行った。Cさんは高校時代ハンドボール部に所属。Aさんはこの夏までバスケ部だった。だが二人とも今は全く走っていない。それだけに不安そうだった。「歩いて帰ってきてもいいんだから。新しく設けられたマラソンコースから、秦野らしいものを見つけるために走るのだから」と言う私に、Aさんは「周りなど見ている余裕なんてありません」。二人が参加した5キロの部には800人ほどが登録されていた。 
 二人の結果は、なんとCさんが部門別て10番台、Aさんm20番台でゴールした。「スゴイ!」。二人はさわやかな笑顔で完走賞を私に見せてくれた。
 これで『市民が作る広報はだの』の取材もさわやかに“完走”。

きょうは「市民が作る広報はだの」の出稿日
【No.425】 2005年11月30日

28日に『広報はだの』の最終編集会議を持った。Nさんの手描きの題字も出てきた。市の花をテーマにした題字だったが、「山茶花」と「コブシ」が十分表現されていないので、もう一度描いてもらうことにした。S先生に頼んだ編集委員の似顔絵はけっこう楽しい作品。話題になるかもしれない。
この日の2時間で、全てが整理できるはずはなかった。「29、30日は自宅に詰めているから」と言い、各面の責任者に記事、写真、レイアウトなどを持ち帰ってもらった。  
 この二日間で10回、原稿が私とHさんとの間を行き来した。メールというもののお陰。今日の5時に出稿することになっている。  
 委員の皆さんには大変ご苦労をかけた。この号は『歩いて秦野再発見』を主題にしたので、ほとんどの委員が今まで足を踏み入れたことのない地や、歩いていても気が付かなかったことに目をやることができたようだ。苦しいこともあったが、《役得》ともいえる幸せなことと思っている。
 私も市内の大山道・矢倉沢往還を3度検分して歩き、新たな発見もできたた。旧善波峠を訪れたのは何十年ぶりだったろう。本町地区の歴史的建物も2度見て歩いた。建物が持つ歴史を学んだ。所有者の悩みも聞かされた。
 来週の5日に初校が上がってくる。12日は二宮市長を交えて記事の最終確認。二宮市長さんが『広報はだの』の編集会議に加わるのは、私たちのこの広報が最後になるのだろう。そして、平成18年1月15日が発行日。
 その前に、最後の取材が控えている。12月4日は第1回丹沢水無川マラソンの日。その取材ということで、編集委員の高橋さん(15)と鎮西さん(19)の二人の女性が出場する。 
 『市民が作る広報はだの』の編集に参加してきた委員の積極性の象徴が、この二人のマラソン参加だと思う。精一杯応援をするつもり。 

第5回湯河原文学賞
【No.424】 2005年11月29日

11月26日
 東京で全国新聞教育研究協議会の全国理事会に出席。会場は虎ノ門の霞山会館。隣にあった国立教育会館は消えていた。後で知ったが、文部科学省も建て直しがすすめられているとか。
 理事会には北海道、山形、群馬、茨城、千葉、東京、神奈川、静岡、大阪などから37名が出席。神奈川は川崎の西川先生と秦野の谷津先生と私。
 秦野は第49回全国新聞教育研究大会を来年8月3、4日に開くことになっている。その準備の様子を谷津先生が報告した。この全国大会は「神奈川・秦野大会」と銘打ってあるように、全新研と秦野市中学校教育研究会が企画運営をする。具体的には秦野の中学校の新聞研究部会がその中心になる。
 過去に48回の大会が開かれてきたが、今回の秦野大会のように9中学校という規模の組織が大会を開催したことはない。これは新聞作りが盛んな秦野だから可能なのだと誇らしく思う。12月から準備が本格化するらしい。できる限りの応援をしなくては、と思っている。


11月27日
 午後、電車で湯河原町へ。「第5回湯河原文学賞・俳句の部」の表彰式に招かれていたから。 
 「入賞」という連絡だけだったので「もしかしたら」と変な期待を持っていた。だが結果は「佳作」。考えれば当然過ぎるほど当然。俳句は鑑賞するが、作句は全くしていない。それなのに今回応募したは、湯河原町から応募用紙が届けられたので、「それでは」というような失礼な態度の私。 
 平成15年に始めて応募して入賞。選者の黛まどか先生に会いたい一心で応募。幸運なことに選んでいただいた。
 今回の応募総数は4222で入賞は最優秀1、優秀9、佳作20の計30句。「まぐれ」にしてもスゴイ! まどか先生に再会。
 第5回のテーマは「山」で有季、定型

 山を負ふ軒にふくれて干布団   武 勝美

11月25日の神奈川新聞
【No.423】 2005年11月26日

 朝6時(この時間はかななり正確!)、新聞を読むことで一日が始まる。先ず地方紙を広げる。昨日は特集ページが組まれていて県学校新聞コンクールの最優秀新聞が縮小版で載っていた。この日がコンクールの表彰式だからだ。
 秦野東中の『東中新聞』も掲載されていた。広報委員会の子どもたちの写真も付いている。その写真でHさんを探した。Hさんは広報委員長でわが家の前の道が通学路だから、顔はよく分かっている。「あれ?いない」。「T先生は」と探すがこちらも写っていない。改めてその集合写真を見たら制服が違う。東中の女子はボウタイを結ぶのだ。エエ?と思い、紙面のもう一枚の写真に目をやると、そこに見覚えのある背景の前にHさんとT先生たちのの姿があった。川崎・宮前平中学校と東中学校の写真が入れ替わっている!
 6時半になったので神奈川新聞社に電話をした。この時間の受付は警備室らしい。専門家ではないようなので、どのように伝わるのか気にはなったのだが、姓と電話番号も告げ、電話した主旨を話した。
 7時半ころS記者から電話が入った。ガセネタを恐れての確認だが、私のフルネームの確認もされた。こんな時間に訂正を持ち込むということは嫌がらせとも取れる。あるいは“功名心そのもの男”ととられた…。 
 こんな行動をとった理由。過去の例で言えば、今日の表彰式の会場でこの紙面は出席者に配られる。子どもたちにとって新聞に載るということはとても感激のはず。それなのに訂正、しかも写真の間違いでは、子どもたちは悲しいし失望感さえ持つ。新聞のへの信頼感も揺らぐ。せめて会場にで配られるものは刷り直しをして欲しい。6時半に「写真の間違い」を連絡したのは、この時間からならもしかしたら刷り直しが合うかもしれないと思ったからだ。《刷り直し》は子どもたちにも新聞社にも次善の策だと思ったからだ

 こんなことをするのは、はやっぱりオセッカイなのだろうか。
 昨日のこのできごとがどう決着したのか知らない。今朝「写真は逆」という訂正が紙面でされた。

写真撮影
【No.422】 2005年11月23日

 秦野市東田原には源実朝公の御首塚がある。今日はその「実朝祭り」の日。まちづくり・地域興しの事業として東地区の自治会が始め、今年で第18回。特に今年は秦野市制施行50周年ということで「流鏑馬」が実朝公に奉納された。 
 神奈川県の無形民俗文化財に指定されている山北町室生神社流の流鏑馬保存会が招かれた。山北町の流鏑馬は河村氏が奉納したものだが、その河村氏は波多野氏一族。言うならば波多野家の分家である。流鏑馬を見学するのは初めて。 
 紅葉の山々が遠くに眺められる田んぼの真ん中に、350メートルの直線の馬場が仮設された。そこを鎧兜を着飾った射手が白馬を繰って駆け抜けた。放たれた矢は三本の矢は見事に的を射く。駆け抜ける人馬から2メートルほどのところに立ってカメラを構えた私。だが、馬の速さにカメラのシャッターが合ったかどうか。馬は速い!
 その写真撮影のこと。私の横に『撮影』という腕章を巻いたカメラマン(多分アマチュア)が3人いた。その中の一人が囲われたロープの外に出て三脚を立てカメラすえつけていた。この『撮影』のグループに、5メートルほどはなれたところに陣取ったカメラグループから声がかがった。「こっちのカメラにあなたたちが入ってしまう。内側に入ってよ」。「こっちは市から頼まれてるんだ」と小声でつぶやき無視する腕章グループ。
 やがて主催者の一人が腕章グループに所定の位置に入るように話をしにきた。「私たちは市から頼まれているんですよ」と腕章グループ。すると「市から頼まれたからといってルール違反をしていいの」と声が飛ぶ。
 やがて腕章グループの一人が声の主のカメラを覗きに行き「やっぱりそこに立ってはダメ。全然見えない。側溝に腰を下ろせば邪魔にならない」。ということで一件落着。
 実は今日私も『報道』という腕章を広報広聴室から借りて持っていた。『市民が作る広報はだの』の写真取材をするためだった。借りるとき広報広聴室のIさんが笑いながら「先生、その腕章をつけていたって『邪魔だ』といわれますから」言ったことを思い出した。

原稿整理
【No.421】 2005年11月21日

 東公民館で「市民が作る広報はだの」の編集会議を9時半から始めた。来週28日が最終の編集会議なので、その前に出来上がっている原稿を各面の担当責任者6人で原稿のチェック。
 秦野市が発行した来年のカレンダーに「1月15日『市民が作る広報はだの』発行」と書かれていることを、昨日水野さんから知らされた。それを力に「今日の仕事を頑張りましょう」と皆さんに話す。
 今号のテーマは「歩いて秦野 再発見」と「まちを人をつなぐ言葉」の二つ。「歩いて…」は、大山道(矢倉沢往還)の道標を探し歩きながら往時の波多野庄の人々の生活二思いを馳せるという内容。「まちを…」は「お早う」が響くまちづくりを呼びかける企画。自治体の発行する広報としては“異色”と自負している私たち。
 「ゆったりとした紙面」づくりも心がけ、見る広報という編集姿勢もとっているつもり。
 さて、きょうの原稿整理。懸命に書いた記事に《朱》を入れるのは心苦しいことで辛かった。それでもかなり書き直しをお願いした。これが最後ということで、快く受け入れてもらい有難かった。
 昼食をとるタイミングを失し、2時まで一気に作業を続けてしまった。申し訳けなかった。 
 今回の取材で、知らない秦野のあちこちを訪ねることができたのは良かった。これは《役得》。
 
 
 

波多野氏物語
【No.420】 2005年11月20日

 秦野市制施行50周年の記念事業である『歴史浪漫・波多野氏物語』が文化会館を中心に展開されている。昨日はそのメインである「波多野氏ゆかりの市町シンポジュウム」が開かれた。
 この地、波多野庄を出自とする波多野氏は、承久の乱、南北朝の乱に関する資料でその名を散見できる。そして、波多野氏の一族は全国27地方に領地を得ていたようだ。 
 それらの領地を現在抱えている7つの市町の専門家がこのシンポのために秦野に来てくれた。その7市町は、新潟・荒川町、愛知・御津町、福井・永平寺町、富山・南砺市、三重・亀山市、島根・安来市、島根・益田市。それぞれの波多野氏にまつわる話は面白かった。
 波多野庄の分家である御津町には波多野姓を名乗る家が数十あるとのこと。それに比して、本家である秦野では波多野氏に関する墓や寺など史実的なものは一つも存在しないという現実は興味深い。御津町の波多野姓は「はだの」と読むという。これはこの地秦野「はだの」と同じ音。この話を聞き、御津町にとり親しみを覚えた。
 このシンポ、あまりに時間が短かった。パネラーが一度しか発言できなかったのだから。わざわざ来秦していただいたのに、ほんとうに申し訳ないと思った。
 さて、23日には実朝公御首塚の前で「流鏑馬」が行われる。「広報はだの」の取材もあるので天候を気にしている。

3日まとめて
【No.419】 2005年11月15日

11月12日
 東公民館祭りの日。秦野園芸愛好会に加わって7年目。今年も会が『菊花展』で参加するので、私も出品。自分としてはしっかりしたものが出来たと思って持ち込んだのだが、他の会員の作品を見て「持ち帰ろうか」と思った。出展し始めてからずっと同じ思いになる日。
 「菊は大変でしょう」と聞かれるたびに「そんなことないですよ」と答えている私。「大変なこと」をしていないから、この程度の花しか咲かせられないのだ。
 秦野園芸愛好会は元教員の会で現在24名。会のメインイベントは、“行灯作り”のアサガオの展示会と、この公民館祭りでの菊花展。それに研修旅行。
 この研修担当が私のこの会での役割。今日その研修旅行への参加者数の確認。17名の参加で過去最大。今回は『鮟鱇鍋を訪ねて』という企画。袋田の滝を見て、西山荘も見学。テレビの黄門さんの“格さん”役の合田雅吏さんは秦野市寺山生まれ。会員の森下さんは隣組なのだから、参加者は増えるはず。
 午後6時から同窓会に出席。今年50歳を迎えた子たちが40名くらいか。職場で家庭で力強く生きている顔がまぶしかった。招かれた教師は80歳代の石井朝子先生、“かくしゃくたる”という表現がぴったりの挨拶をされた。続く私はしどろもどろ。初めて参加の61歳の高橋利夫先生は同級生と見間違えられるほど若々しかった。 

11月13日 
 昨夜帰ってきたのは11時。「私 バカよね」と歌ったとおり、歳も省みずはしゃいだ罰でどうやら風邪を引いたらしい。  
 朝メールを開けたら、全新研の吉成勝好先生から『東京・練馬の大山道』というメールが届いていた。西東京市を通る大山道の写真と資料をいただいた。こんなふうに『エコー』を読んでもらえるととても嬉しい。

11月14日
 『市P連だより』の次号の編集者3名来訪。企画を一緒に考えた。『子どもが危ない』を基本テーマにすることに。途中、知人から電話が入ったが、私の声があまりに違うので戸惑っていた。そんなひどい声で、大山阿夫利神社の豊年講の献上米を集めに回る。これは生産組合長の仕事。


卓話
【No.418】 2005年11月11日

 秦野中ロータリークラブに招かれて卓話をした。タイトルは『秦野の地名ものがたり』。会場は源実朝公の御首塚の隣りの「田原ふるさと伝承館」。手打ちそばと古代米のご飯を会員の皆さんといただいた。40分の持ち時間では無理なことは分かっているが、次のようなレジュメを作った。
 
◇秦野の地名ものがたり・レジュメ◇
1 地名・秦野の由来
2 秦野市内の地名
 鶴巻 平沢 渋沢 千村 曽屋 蓑毛 
3 地名と付会
  田原と御門(藤原秀郷こと田原藤太と平将門)
  落幡(善波太郎重氏)
4 地名から知る秦野の人々のくらし
 @金目川(大口、奥笹川、轟、落合、大槻、欠ノ上、飯島)
 A舞ケ久保(寺山) 踊場(堀西) 踊宮(戸川) 舞台(鶴巻) 菩提
 B上宿・下宿
5 地名は大地に刻まれた歴史の碑文
 @南セントレア市(愛知・美浜町と南知多町)の顛末
  centrair(セントレア) centralと airportからの造語
 ※太平洋市(山武町・成東町・松尾町・蓮沼村)、中央アルプス市(駒ヶ根市・飯塚町・中川村)もご破算 黒潮市(須崎市・中土佐町)は誕生
 A長野県豊科町(鳥羽・吉野・新田・成相村)
 B韮崎市清哲町水上・青木・折居・樋口(清哲村は水上・青木・折居・樋口村が合併、明治の大合併で)
 C遠い先人の暮らしや風土、自然の地形を知ることができる大切な遺産
 D清水湧水池跡記念碑

資料
(1)「平成の大合併」と地名
 @明治の大合併(1888−1889年)
  1889年・明治22年 秦野町、東秦野、西秦野 南秦野、北秦野、上秦野の各村の誕生
 A昭和の大合併(1953−1961年)
  1955年・昭和30年 秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村が合併し秦野市誕生
 B平成の大合併(2003−2006年3月31日)
   平成15年 9月1日  678市  1951町   552村
   平成17年11月7日  754市  1124町   271村
   平成18年3月31日  772市   868町   205村
(2)誕生したひらがな・カタカナの自治体
うるま市(沖縄) いちき串木野市(鹿児島) 南さつま市(鹿児島) さつま町(鹿児島) あさぎり町(熊本) みやき町(佐賀) みやこ町(福岡) うきは市(福岡) いの町(高知) 東みよし市(徳島) つるぎ町(徳島) さぬき市(香川) まんのう市(香川) 東かがわ市(香川) たつの市(兵庫) 南あわじ市(兵庫) かつらぎ町(和歌山) みなべ市(和歌山) あわら市(福井) おおい町(福井) かほく市(石川) 南アルプス市(山梨) いすみ市(千葉) さいたま市(埼玉) ふじみ野市(埼玉) ときがわ町(埼玉) かすみがうら市(茨城) つくばみらい市(茨城) さくら市(栃木) みどり市(群馬) みなかみ町(群馬) にかほ市(秋田) おいらせ町(青森) つがる市(青森) せたな市(北海道) むかわ町(北海道) 新ひだか町(北海道)

 

学校新聞コンクール14連勝
【No.417】 2005年11月09日

神奈川県の高等学校・中学校学校新聞コンクールの結果が発表になった。秦野の中学は今年も頑張り良い結果を得た。
・学校新聞の部 ◇最優秀賞 東中学校 ◇優良賞 鶴巻中学校 ◇佳作 本町中学校
・学級新聞の部 □佳作 渋沢中学校3−1  □努力賞 東中学校3−2
 学校新聞の部では、秦野市の中学校(大根、東、渋沢、鶴巻)が14年連続で最優秀賞受賞。

夕方の電話
【No.416】 2005年11月08日

 昨日の夕方、回転寿司屋から妻に電話が入った。「こんな時間に、新規開店の案内」と思い、切ろうとしたら「おめでとうございます。当選です」。 「新米が当たったんだって。慌てて切らなくてよかった」と妻。ひと月くらい前、246沿いの店に行ったことがあった。そのときレジで応募を勧められたらしい。それが見事当選。何キロもらえるのだろうか。
 今年1月、バアちゃんに三等の年賀はがきが舞い込んだ。7月、私がJAの福引きで1等を引き当てた。そして今度は妻にお米。このままでは“車に当たりそう”なので、「年末ジャンボ」で“大当たり”を先に取ってしまおう。

ホームページを少しいじる
【No.415】 2005年10月31日

☆『広報はだの』の仕事を10時から。
 編集委員5人で本町地区の古い建物の写真を撮りに歩いた。記事を担当した中3の女生徒の二人の取材風景を、という狙いだったが、街中なので自由な構図で撮れない。この取材で歩いた歩数7000余歩。
 11月1日には矢倉沢往還の写真を撮りに行くことになっている。カメラの森下先生にはご苦労をかけっぱなし。

☆午後、ホームページを少しいじった。
 この4月まで小学校の先生だった原田さん(今フィリピンで生活している)からのメールに応えて、原田さんのページを私のページにリンクした。
 私が原田さんに“応えた”理由は11月1日更新の『最新』のページ二書きます。
 ついでに『ライブカメラ』のページに「丹沢連峰」を加えた。これは秦野市提供の定点カメラ。大山、岳ノ台 二ノ塔、三ノ塔などの今がパノラマで見られる。

同窓会
【No.414】 2005年10月29日

 同窓会でのこと。Kが私の席に来て「先生、35年ぶりです。どうぞ。」と酒を勧めなら、「先生。先生は卒業式の日の学活で、私たちに話されたことを覚えていますか」とたずねた。
 突然の質問に「何を話したかな、覚えていないよ」と私。「先生は“断じて行なわず”という言葉ばを私たちに贈ってくださいました。周りの人が全員同じことをしても、自分の判断で『それは自分には出来ないことだ』と思ったなら、たとえたった一人でも、それはやらない−そういう心の強さを持てという話でした。高校に行ってから、友だちから『吸えよ』とタバコを勧められた時、結局断りきれませんでした。今、もう50半ば近くになったのですが“断じて行なわず”ということのむずかしさを一層感じています。」
 「Kさん、みんな同じだよ。私だって、周囲の人のようすをうかがって、その人たちに合わせて70年近くも生きてきちゃったんだよ。そんなカッコイイことを話したのかと思うと、はずかしいよ。」

480字の作文
【No.413】 2005年10月25日

 「作文がきらい、書くのは苦手という子どもたちに、楽しく文が書ける方法を教えてほしい」とS市のPTA広報から原稿の依頼。しかも「480字で」。第28代アメリカ大統領、ウイルソンは「15分の講演には12時間の準備がほしい。2時間のスピーチなら今からでも良い」と言ったそうだ。スピーチのプロでさえ(プロろだからかもしれないが)短く話すことは難しいということ。まして私の文章で『楽しく文を書く方法』を説くのは至難の業。でも、断ったらお困りだろうと、苦しみながら書き上げた。 
 「広報委員が楽しんで作らなければ読んでもらえない」と話してきた私が、苦しみぬいてようやく書き上げた文。これでは読んでもらえない。

 H小のP広報から電話相談。座談会を開くについてのアドバイスを、とのこと。1、座談会を開く目的を主催者として確認する  2、司会者はそれに沿ったシナリオを持つ  3、発言は出来る限り均等に の三つを伝えた。

 先週の水曜日ごろから首筋に湿疹。多分、農薬のせいだろう。お医者さんは「銀杏を拾わなかったか」と聞いた。そう、そんなシーズンなのだ。今日は、首の周りから、のど、顔、手と広がってきている。前回より強い薬が出された。当分、畑仕事はダメ。

きのう きょう
【No.412】 2005年10月23日

 昨日、53歳の人たちの同窓会に招かれた。108名の学年で50名の出席。よく集まったと思う。集まった人数を眺めS君が言う「先週の土曜日、高校の同窓会があった。学年には400名以上いたのに集まったのは16人。先生や同窓会の会長など来てくれたのに、わずか16人。幹事ではなかったが恥ずかしかった。」 幼・小・中と、共に生活してきた幼馴染の集まりに参加者が多いことはうなづける。
 11時半の開会。同僚だった井沢さんの「来月トレッキングでヒマラヤに出かける」との挨拶に、会場から歓声。ビンゴゲームで登山・ウオーキング用の杖をもらった。井沢さんにあやかって…と思うが、私には他の用途のほうが固いかもしれない。
 二次会を7時まで付き合った。お礼とお別れの挨拶に替えて『また逢う日まで』を歌った。野球部だった7人が私を囲んで歌ってくれた。「三次会の終了は午後11時」と幹事が参加者を募っていた。

 昨日と打って変わり秋晴れの空。今日は参議院の補選の投票日。8時半過ぎ投票に歩いていった。駐車場になっている校庭には車は1台しかいない。9.11と比べなんという違い。
 その校庭から周囲の山々を眺めた。北の尾根にもう雪を置いている富士。大山に連なる里山の色にもわずかな変化が見える。大公孫樹が銀杏をテニスコートに降らせていた。心が洗われる寺山の景色。
 投票を済ませ、校庭の西側の道をゆっくり歩いた。城址二続く畑にコスモスが咲いていた。気が付くと、足元に波多野城址の道標が二つに折れ、倒れていた。

こうして 助けられて 生きていく
【No.411】 2005年10月19日

 予算の編成時期になった。もう来年の5月のPTA広報講座の予約が入った。2会場が決まる。その日までは元気でいなければ、と思う。こんなふうに、他の人に、世の中に助けられて、一日ずつ生きていく私。

 『秦野の景観』の選定の仕事をする。既に72の候補は発表されているが、さらに市民から推薦されてきた28候補を正式候補に加えるかどうかを決めなければいけない。この28の候補の中に、秦野で68年も生活しているのに私の知らない地名、景色がいくつかあった。2つを追加候補として選んだ。この仕事をさせてもらい、あらためて秦野の良さを確かめることができ、さらに、新たに秦野を知ることができた。
 11月3日『市民の日』に「秦野の景観」は発表される。

今夜は「十三夜」  お月見とススキ
【No.410】 2005年10月15日

 古代、熊野地方では刈った稲を田んぼに積んでおく(これを「穂積」という)風習があった。その積まれた稲束の中に一本の木を立てる。すると、この木に神様が降りてきて稲魂を宿す。それが翌年の種籾になり、豊作をもたらすと人々は思っていた。この稲の山に立つ神聖な木は「すすき」と呼ばれていた。この木にあやかり、熊野大社の宮司は穂積姓から「鈴木」に姓を替えた。
 
《これからは私見》
 今夜は「十三夜」のお月見。お月さんにおまんじゅうや掘ったばかりの里芋などを供えるのは今年の豊作の感謝を表している。そして、来年の豊作を祈るためにススキを飾るのだと思う。「十五夜」「十三夜」にススキを飾るのは、熊野の人たちが立てた「すすき」を引き継いでいると思いたい。

 昼前、栗畑にススキを取りに行った。帰り道、農業のAさんに会った。ススキを手にしている私に「今夜、曇っちゃいそうだね。せっかく、お月さんにまんじゅうをあげるのにねえ。晴れてほしいねえ」と言う。農にたずさわる人の“お月見”観を知った。
 いま午後4時半。どうやら寺山では今夜は月は見えないようだ。

齢 50
【No.409】 2005年10月12日

エコーの読者二人の来訪。改まってた相談ではないが、二人とも家族に対しての思いや仕事のことをたくさん話し、帰っていった。
 Iさんは一年をかけて大病を克服。来年4月から保育の仕事に着くことが決まっているとのこと。「齢50、12月から本格的に職探しをする。自分の限界をしりたい」「与えられたことをするだけの今の仕事。初めは『楽でイイや、バンザーイ』と思ったけど、働くってこんなことではないと感じて」とNさん。二人とも50歳になったばかり。そんな話を聞かせてくる二人がまぶしい。
 8日の「ふるさと秦野の景観見て歩き」で話したことを文にした。10日のこの欄に書いたように、冬晴れの日にゆっくり歩いてみたい。
 菊のつぼみに色が着き始めた。昨年よりいい花が咲きそうだ。この部屋に座布団を出した。明日は畑仕事をしよう。

東地区 景観見て歩き
【No.408】 2005年10月10日

10月8日
 明け方近くまで雨。だが出発のころは曇り。「蒸し暑い日」という予報なので半そでで出かける。参加者を見回したら半そでは私一人?
 握り飯、魔法瓶の紅茶、カメラ、それに資料の本、こんな中身のバッグを背負ったのは何年ぶりだろうか、重たい。
 大勢の神仏にお会いするのでお神酒を小瓶で持参。碑文を読むために片栗粉も準備した。そう、手には「大山」という文字が入っているヒメシャラの杖。
 きょうは『ふるさと秦野景観見て歩き』の東地区のガイド役。参加者は30人ほどか(数えなかった)。女性が7人。 
 東自治会連合会長の小泉さんは革靴で参加。清水庭から洋造さん、俊さんが来てくれた。心強かった。現役のころ、一緒に仕事をした相原昭枝さんと娘さんも一緒に歩いてくれた。これには感激。地区外からみえた方も数名。市のまちづくり課から古谷課長さん以下5人が付き添い。担当の草山さんがしゃれた解説書を作ってくれた。これも嬉しかった。
 全行程は7キロほど、そのうち7割くらいが登り。3時間半で歩いた。  そばの花が見ごろだったので民話「そばを作らぬ里」を聞いてもらった。横畑の松下雅雄さん宅で山葵田を見せてもらっが、奥さんが自家製のこんにゃくの煮付けを振舞ってくれた。甘辛の味がしみこんだ歯ごたえのあるものでお茶と一緒にいただいた。おいしかった。
 きょう受けた質問。1、地名「才戸」「菩提」の由来  2、神社の千木の種類 3、女性が左、男性は右

 このコースは今までに数回歩いているが、きょうがいちばん余裕を持って歩くことができた。
 古谷課長が「東地区が秦野の発祥地、文化の中心地だったんですね」と感想を述べてくれた。もうすっかり忘れられている『東秦野尋常学校の水道水源地』を、「今の東地区の児童・生徒に教えたい」と、同級生の加藤さんが言った。こんな言葉を聞くと、自分の主催で『東地区見て歩き』をやってみたい気になる。
 
 
  

サンパイ ジュンパラギ
【No.407】 2005年10月06日

 退職した年にMEMOという表紙のノートを作った。必要があってそのノートを読み直した。 
 MEMOとあるが、紙面は新聞の歌壇・俳壇からの秀作の転記で埋まっている。これは高名な歌人・俳人が選んだものをさらに私が選ぶということ。年間賞が発表されたとき、私の鑑賞力はともかく、私の嗜好がどの選者と同じであるかを確認するというような、とんでもないこともしている。
 このノート、短歌・俳句のほかに、欄外に走り書きで、いろいろなことが書き込まれている。それを読んでぞっとしたり、笑ってしまったりのきょう。

《走り書き》
 丸くとも一角あれや人心 あまりに丸きは転びやすきぞ  龍馬

 人としてやってはいけないこと
 1、人の心やからだ(すべてのいきもの)を傷つけること
 2、許されないウソをいうこと
 3、自分からの約束を破ること

 『有難う』・川端康成の短編 「時代の哀歓」がイイ

 →       ←
 ねくたいぜいたくね
 メモるときかきとるメモ

 インドネシア語 「サンパイ ジュンパラギ」 じゃあ またね

 今朝 暗がりの雨の中 ジョウビタキの声を聞く 「ヒッヒッ ヒッヒッ」 
 
 

10月は新聞週間の月
【No.406】 2005年10月04日

「なぜ」「どうして」もっと知りたい新聞で 第58回新聞週間の標語

 きのうK中に新聞罫のファックス用原稿用紙を届けた。夜、O中から同じく新聞罫用紙の問い合わせ。市内中学校の学級新聞コンクールが近づいたのだ。明日はN小のPTA広報委員会が当相談室で開かれる。金曜日は「広報はだの」の1面担当者と最終打ち合わせをする。 
 プリントメディア研究誌『理想』が届いた。その中に「新聞教育の原点は、新聞づくり」という新聞教育の先達・吉川昌英先生の提言が載っていた。現役時代と変わらぬ新聞づくりへの熱い思いを感じ、励まされた。『エコー』232号は明日投函する。10月は新聞週間の月。

国勢調査員でした
【No.405】 2005年10月03日

 断りきれず、国勢調査員を引き受けた。説明会に出て、その大変さがわかった。もちろん国勢調査の重要性も理解したが…。
 最初にしたことは、担当地区を見て周り、住宅の地図を描くこと。人が住んでいるかどうかわからない建物も記入する。これは18日に作った。   19日、その地図にしたがって「調査のお知らせ」を配る。20軒近くが留守。
 次が調査用紙の配布。世帯主の氏名とそこに住んでいる家族の人数を聞く。そして必要枚数の用紙を置く。そのときに、回収日をその家庭と決める。
 私は2つの区を担当。23日、1の区を回る。留守が7軒。25日は2の区。こちらはなんと一度で完了。その勢いで1の区の残りの家庭も回った。これで一山越えた。
 回収は10月2日からおこなってよいことになっている。それで、かなり強引と思ったが、回収を2日の9時半から正午までを目安にして決めてもらった。
 その回収日・昨日2日、9時半に家を出たが、先のことを思うと少々重たい気分だった。ところが、午前中に4家庭をのぞいて全部回収できた。そして午後5時に全て回収。ただただ感謝した。嬉しかった。この地区の皆さんの協力度は「日本一」だ。
 調査票の配布中に用紙を盗られたというニュースが流れた。昨日は偽調査員による用紙の回収事件も発生したとか。
 渡された「防犯ブザー」「自転車用の盗難防止ネット」、そして手首に巻く「反射テープ」を使うことはなかった。

 第4回 『広報はだの』の取材
【No.404】 2005年09月16日

『広報はだの』の取材で「大山道」の道標を見て歩く。今日は私がガイド。
 スタートを大山の麓・蓑毛とし、ゴールは秦野と川境の松田町神山。大山道・蓑毛通りから矢倉沢往還を歩くというコース。
 蓑毛の大日堂境内には『従是不動石尊道』という道標が立つ。そこから『御師の宿』のたたずまいを残す二階堂家を見学。才戸には市内最古の大山道の道標がある。東田原・清水で、道者の予言で掘り当てた横井戸を紹介。この話は私が大津アサさんから発掘したもの。 
 本町地区に入り、曽屋の念仏塚古墳に『扶桑山大神』の碑があるのを確認。『扶桑山』とは富士山の別称。 
 西地区・曲松の稲荷神社の境内に、高さ180センチ余の『大山道道標』と『浅間社石祠』がある。だが、両者とも、道路拡張で元の地からここに移されたもの。大山道もやがて忘れられてしまうのだろう。 
 千村を通り、川音川の東岸にある『大山道 天下泰平』の碑を目指したが、途中から生い茂った草で断念。往時の旅のたいへんさを少しばかり理解したつもり。今日の取材者は、森下、初野、横山、浦田、武。       

北小学校5年4組で授業
【No.403】 2005年09月14日

 5月に学級新聞づくりの指導に行った秦野・北小学校5年4組で、二回目の「新聞」の授業をした。
 このクラスが1学期間に発行した回数は11回。どの号もクラスの様子を生き生きと報じている。それはクラスの仲間たちの声をていねいに拾っているからだ。「新聞の記事は作文ではない。たくさんの声を集めて記事を作ろう」と教えたこことがきちんと生かされていた。担任のO先生の指導力を感じた。
 正味1時間をもらって全部の新聞の感想を述べた。「掛け値なし」、ほめるだけの私だった。
 その後、事前に届いていた子どもたちからの質問に答えた。
 その質問は次のようなものだった。     
 1 記事を見つけるポイントは何ですか。
 2 みんなに分かりやすい文を書くにはどうしたらよいですか。
 3 おもしろく分かりやすい見出しを書くにはどうしたらよいですか。
 4 記事を書いているとき、何を書くか分からなくなったらどうしますか。
 5 「がんばった人」はどんながんばっている人をのせたらいいですか。
 6 どうしたら下書きがすぐにかけるんですか。
 7 みんなが「おもしろそー」と思うようなイラストの描き方を教えてください。
 8 どうしたらうまくイラストを描くことが出来るんですか。
 9 武先生が新聞を作ってうれしかったことは何ですか。
 10 武先生が新聞を書くときこまっていることは何ですか。
 
 授業が終わって大勢の子が質問をしに来た。新聞づくりで学級が力をつけていると感じだ。
 お土産にメダカの子どもをもらった。


棟田選手の「おじぎ」
【No.402】 2005年09月12日

9月6日 午前・栗の収穫  夜・生産組合長会議
  7日 午前・栗の収穫  午後「続寺山ものがたり」の原稿の整理を始める。 
  8日 秦野市PTA広報クリニック(9:15〜16:30)
  9日 大井町教育委員会の広報クリニック(9:20〜11:40) 大井町のクリニックは幼・小・中のPTA広報・青少年指導員協議会・子供会育成会・ボランティア協議会・母親クラブの会報、図書館広報、地域ミニコミ紙などが対象。  午後・栗の収穫
 10日 午前・栗の収穫  午後・園芸愛好会の例会で「菊・福助作り」の研修。
 11日 午前・市内一斉清掃活動 選挙の投票  午後・生産組合員宅を訪問、その後菊の手入れ。

 カイロで行われている柔道の世界選手権の中継をずっと見ている。アテネ・オリンピックの成績と比べれば物足りない。だが、今回の総選挙の結果と同じように、人間のすることには必ず『揺り戻し』がくるもの。
 その試合そのものとは別に、とてもいいシーンを何度も見ることができた。それは棟田選手の「おじぎ」である。
 通路からマットに上がったとき、試合場に入ったとき、そして試合を始めるときと、棟田選手は三度の「おじぎ」をする。多くの選手は、ピョコッと頭を下げ、すぐに戦闘モードに入る。だが、棟田選手はまさに「おじき」をするのだ。 
 「世界一きれいななおじぎ」とアナウンサーが紹介していたが、「きれい」という言葉では表し切れないものがそこにある。彼のおじぎをする前の静止の姿勢、頭を下げる角度、そしてその時間、この三つの動作にえもいわれぬ品位があるのだ。柔道の心がそのおじぎの中に込められている。「おじぎ」に普段の生活が見える。その人の心が表れる。

大山道・坂本道を一緒に歩きませんか 
【No.401】 2005年09月06日

 秦野市の市制施行50周年の記念事業として、昨年から『ふるさと秦野見て歩き』が行われている。その『見て歩き』が10月8日(土)、東地区で行われる。見て歩くのは『大山道・坂本道と寺山の里』で案内人は私。 
 秦野市の東地区を紹介するとしたら「丹沢・大山」「実朝公御首塚」「大日堂の大日如来像」「波多野城址」などを取り上げるのが妥当なところ。だが、縄文中期から人々が生活してきた寺山には紹介したい場所や話がたくさんある。それれらを今回は見て歩くことにした。
 そばの花見も出来るかもしれない「寺山の秋」を、一緒に堪能してみませんか。

 ◇日 時   10月8日(土)9時出発(解散は午後1時ごろ) 
 ◇集合・解散場所 東公民館  
 ◇先着30名の受付(昼食持参) 
 ◇申し込み先 秦野市役所まちづくり推進課
       (Tel0463−82−5111 内線2566)
 

特別会員の私
【No.400】 2005年09月04日

 地元・東地区に住む50歳の教え子たちが、一泊で懇親会を開くとから参加しないかと誘ってくれた。会場は湯河原温泉のK荘。
 6時開会に10名がそろった。「特別会員だから乾杯の音頭を」と言われ、こんな話をした。「毎朝、新聞の『お悔やみ欄』に必ず目を通します。そして自分の年齢を意識します。そんな私を、50歳の会に加えてもらってとても嬉しいです。明日の『お悔やみ欄』に載っても悔いのないよう、今夜皆さんとこの会を楽しみたいと思います。」
 子育てもそろそろ終り、『夫婦』を考え始める年代であることを知った。経済は、彼らにとって身近なもの、仕事そのものに直結する話題であり、今行われている選挙のマニフェストにも話が及ぶ。現PTA会長もいたので、地域コミュニテイの脆弱さについても意見が飛び交った。 
 「それそれの生活・仕事を背負っての意見だから、そう簡単に意見の一致はみられないよ」と言うのがまとめ。自営業、会社員、獣医、JA、教員など、さまざまな分野の第一線で働いている彼らはまぶしかった。
 もちろん「先生、きょう、《樫の棒》は持ってこなかったの」という35年前の教室の“痛い思い出”も語られた。
 一人が「先生、俺、6年の時、不登校だったんだよ、いじめられてね。それで東京の親戚に預けられて。親戚の家の部屋でプラモデル作って…窓から東京タワー眺めて…そんな生活を毎日してたんだよ」
 私は、彼が中3の時担任だった。学校ではいつも明るく飛び回っていた彼に、そんな過去があったことを今夜初めて知った。
 私は12時にダウン。何人かは2時半、残りは最終は午前3時過ぎまでがんばったとか。飲んで、ちょっぴり歌って、午前8時には朝飯はすました10人。特別な目的もない会?だが、幼馴染が懐かしくなる年代。来年もこの時期、この会場で会うことを約束して解散。
 

9月1日 新聞づくり再開
【No.399】 2005年09月01日

「寺山の話を聞きたい」とタウンニュースのO記者が訪ねてきた。子どものころの遊びの話から「金目川」という名前の由来にまで話を広げてしまった。Oさん、かなり興味を示してくれたようだが、本当は迷惑だったのかもしれない。私は楽しかった。
 午後2時から『広報はだの』の1面の編集会議を、AさんCさんとわが家で開く。2時間半でラフ・レイアウトができ、それにあわせ企画も決定。企画のテーマ「まちを人をつなぐ言葉」は、具象的ではないので取材対象がなかなか定まらなかった。それで、きょうつかんだ情報を使うことにした。早速、電話で事前取材をする。天候相手の行事で締め切り間際の取材だから、ダメになった時の予備の記事も準備しなくてはいけない。だがもう動き出したのだから、このまま走るしかない。二人は「後は取材!」と元気よく帰って行った。
 大井町の広報クリニックの準備を始めた。

8月の終わりに
【No.398】 2005年08月29日

8/25
 松田町のPTA広報のクリニック。台風接近の報もある中、4校と3園の広報委員が参加してくれた。全紙「取材がよくされていてイイ出来」と感想を述べた。講座の後半は家族新聞づくり。時期としては少し遅いが「夏休みの宿題に家族新聞を作ったら」と提案。「参加できなかった人に新聞の用紙をもらっていきたい」との申し出があり、10人分ぐらい持ち帰ってくれた。

8/26
 台風一過、この辺はそれほど影響はな勝ったようだ。だが、隣の畑のカボチャはたくさん顔をみせてい。夜7時から「広報はだの」の第5回編集会議。各面の担当者(1面3人、2・3面4人、4面3人)にレイアウトに取り組んでもらった。2回目の発行、それにP広報の経験者がそれぞれの面にいるので、私は遠くから眺める、という感じ。仕事の進み具合はともかく、楽しそうな光景が見られた。

8/27
 誘われて『御師の里 蓑毛を訪ねる』という会に参加。江戸から昭和の始めにかけて「大山詣で」でにぎわった蓑毛も、今はひっそりとした集落になっている。最初に明治3年に建てられたという相原市兵先生のお宅を見せてもらった。先生がお元気出迎えてくださった。次に「御師の宿」二階堂家の見学。大山詣での信者を泊め、案内をする神職のことを御師という。数軒あった蓑毛のこの御師の宿、今その面影を色濃く残しているのはこの二階堂家だけである。最後に大日堂で五智如来像を拝観。茶湯殿で十王像,そして葬頭河の《婆》にも会う。『寺山ものがたり』を書くときに会った《婆》は修復されていた。この《婆》への私のイメージが少し変わった。

8/28
 市内一斉の防災訓練の日。東地区の避難所は中学校と小学校。この二か所の避難所の責任者がK君とT君と発表された。二人とも教え子。年齢はそろそろ50歳か。自分の年齢を改めて思う。そして『寺山ものがたり』の続編を書かなければ…、となぜか強く思った。 

校庭での映画会
【No.397】 2005年08月22日

 お隣の東小学校のPTAのお母さんが二人訪ねてきた。 
 今週土曜日・27日に校庭で映画会を開くとのこと。「ご迷惑掛けるかもしれませんが、お許しください」と事前に協力の挨拶しに近所を回っているのだ。ぜひ観に来てください、と誘ってもくれた。
 学校の校庭での映画会とは懐かしい。60年前の8月、戦争が終わり、アメリカの政策で『ナトコ』と呼ばれていた巡回映画が校庭で上映されたのを覚えている。校庭での映画会なんてそれ以来のことだろう。
 今年は戦後60年、その8月に野外映画会を企画するとは《イキ》なことをするPTAだ。 
 手渡されたチラシには「夕涼みシアター夏の映画会」と大きな見出し。上映されるフィルムは『ファイディングニモ』。「必ず大人同伴でご来場ください。いすはありません。シートをご持参ください」とある。校庭に座り込んで、映画を見ないで、星をみあげたっていい。当日晴れればいいなあ。
 
 このHPへのアクセス、どうやら今日中に5万に届きそうだ。(5万人目の方、よかったらご連絡ください。)

8月18日が誕生日の人
【No.396】 2005年08月17日

 1年は365日。40数億の人を365日に割り振れば、どの日にだって著名な人が数多く登場するのは何の不思議もないこと。試みに、明日8月18日生まれの人を挙げてみると次のような顔ぶれになる。この人たちの組み合わせはけっこう楽しい。 
最澄  ラッセル(英:首相)  伊藤左千夫(歌人)   尾崎放哉(俳人)   マルセル・カルネ(仏:映画監督『天井桟敷の人々』)   城山三郎(小説家)   牧阿佐美(バレエダンサー)  ロバート・レッドフォード(俳優)  柴田恭平(俳優)  名取裕子(俳優)  吉川晃司(歌手)  清原和博(野球選手)  中居正広(SMAP)

きょう終戦記念日
【No.395】 2005年08月15日

 ジャスコのレジに並んでいたら聞こえてきた会話。
 「きょうは込んでるわね」
 「お盆だから帰ってきてる人が多いんじゃない?」
 「秦野は田舎だからねえ…」。そうか、秦野を帰郷先にしている家族がたくさんあるのだ、と妙に感心した。
 小田急の車窓から大山・弘法山を眺め、才ケ分のトンネルを抜ける。そしてまもなく市街地の向こうに丹沢連峰を目の当たりにする。すると、なぜかホッとするという秦野人も多い。そういう意味では「秦野はいなか」だと思う。
 『ECHO』を郵送している方からいただいた残暑見舞いのハガキの文。   「『エコー』の封筒のロゴが替わりましたね。スッキリしています。そして《主張》が感じられます。《これから》という意気込みも。がんばってください」。嬉しかった。
 きょう終戦記念日。小泉さんがアジアを意識した談話を発表した。選挙がらみかもしれないが、いいことだ。

滴る汗
【No.394】 2005年08月11日

8月10日
 8時半から栗畑の草刈り。前日点検しておいたので草刈機は快調だった。葛葉藤に絡まれて停止してしまったので給油を兼ねて一休み。そして作業を再開しようとしたらエンジンがかからない。30分ほど始動を試みたがダメ。昨日、エンジンの混合油をつくった時「少しオイルが多いかな」と思った。それでエンジンが発火しにくいのだ、そう思った。
 機械を積み込み、帰って20:1の混合油を作り直す。そして午後1時から作業にかかる。だがあまり機械の具合はよくない。替え刃が重過ぎたのでエンジンが焼き切れたのかもしれない。こんなに悪戦苦闘したのは初めて。とうとう一日中、栗畑にいた。
 「絞るような汗」という表現があるが、首のタオルは、絞ればポタポタと汗が滴り落ちた。こんなに汗をかいたのは最近ではないこと。吹き出る汗は止まらない。呼吸もけっこう上がって「これは…」と思い、栗の木陰に座る。持っていったペットボトルのお茶に助けられ、とにかく一通りは終えた。 
 この畑は道路から見下ろせるので、隅々まできれいにしないと「勝美さんは、いい加減な仕事をすんなあ」と笑われる。もう一日出かけなければいけない。帰って鎌の刃を研いた。
 夜のビールは甘い。これは元気な証しだ。体重は2キロ減っていた。いい一日。

M家の『らんどせる』で「新聞づくり」の効用を確認
【No.393】 2005年08月09日

 今朝、M家の家族新聞『らんどせる』第52号が届いた。毎号、お母さんが届けにくる。そして子育ての難しさを少し愚痴って笑って帰っていく。
 4年前から月刊で発行されている『らんどせる』。毎号お母さんが「編集後記」を書いている。今月号は「なかなか手ごわい中学生チーム。毎日振り回されて、私の堪忍袋もはち切れそうだ。特にAの急成長にはお手上げ。打つ手が無いのは私の度量が狭いからか。But めげてはいけない!!。しっかり向き合わなくちゃ」。
 「中学生チーム」とは3年の男の子と1年の女の子のこと。他に小5の男の子もいる。
 『らんどせる』は「お手上げ!」と言っているお母さんと三人の子どもたちの手書きの新聞である。
 52号では、中3の男の子が中体連の野球大会で負けた悔しさを、中1のAさんは「木は私たちの命の源」という論説を、そして小5の男の子が「初めて優勝 ドッジボール大会」のトップ記事を書いている。
 お父さんは「お父さんにインタビュー」という連載もので「子どもの頃の夏の遊び」を得意げに話している。
 「新聞づくり」の効用をM家の『らんどせる』で確認する。

歩いて秦野再発見
【No.392】 2005年08月05日

 「広報はだの」の編集委員8人で本町地区の歴史的建物を見て回った。第2号は「歩いて秦野再発見」が特集の一つになる。築80年くらいの商家や民家を十数軒訪ねた。
 今の秦野・本町地区は江戸時代「十日市場」と呼ばれ、月に二日「市」が立った。その「市場神」がU商店の中庭に祀られていた。碑には梵字のようなものがうっすらと見えた。この商店の軒には魔よけのショウキさんが載っている。多分、秦野ではこの家だけだろう。
 F家やU洋品店は今は無人。江戸時代の土蔵を持っている茶舗は、土蔵の雨漏りの対処に悩んでいた。文化財的な建造物を保持することの大変さを少し理解した。
 きょうは取材の下見。この記事の担当は二人の中学生。どんなことを書いてくれるのか楽しみ。

【No.391】 2005年08月01日

 義理の姉の三回忌の法事の会食の席、稲城市に住む姪の中学生と隣り合わせに座った。稲城市の名物は何かと聞いたら「梨」とのこと。稲城市は川崎の隣り、多摩川沿いの地だから「梨」が名産でも不思議ではない。でも、知らなかった。 
 「他には」と聞く私に彼女は「蝉」。[蝉? どうして蝉なの」「自転車で走っていると顔に蝉がぶっかってくるんです」と笑って話す。梨畑に蝉がいっぱいいると言う。梨のおいしい年は蝉が多いらしい。今年は特に多いとか。
 「おばあちゃん ベランダに落ちている蝉を片付けてくれたんだけど…」と彼女、ポツリと。

過去の日記へ12345678910111213141516|17|18192021222324   [管理]


-- トップページに戻る --