- 寺 山 だ よ り -

今朝のタウンニュース
【No.210】 2004年01月17日

今朝の「タウンニュース」紙に、1月10日に私がふるさと伝承館で話した「だんご焼き」の話の感想が出ていた。

◇…コラム『取材メモから』…◇
 どんど焼きの取材で武氏が子どもたちに話したどんど焼きのいわれ。「写真だけ撮って」と思っていた取材が、話に引き込まれて、最後まで聞き入ってしまった。
 年を経るごとに廃れゆく「年中行事」世代を超えて伝わっていかないのは、行事自体がが時代にそぐわないことがある。生活様式が
変われば、意味が通じないものは伝わりづらいのも当然だ。また核家族化・少子化、希薄な近所付き合いなども理由であろう。一方で
「恵方巻き」のように「商売になる」とそれまで地方のみの行事が一躍全国区になるというのも面白い現象だ。
 仕事柄、市内で行われる年中行事は時期にあわせ取材し、その都度取り上げているつもりだが、それでも以前に比べれば多少減った
だろうか。ただ、その行事の意味を伝えていくことも忘れてはいけない仕事であると武氏の話を聞き終え、再確認した。 
 後日行われた成人式では参加者の一部がステージ前で騒ぎ、指導員にたしなめられるシーンもあったという。式には律儀に出席して、そこでわぎわぎ騒ぐというのも碓解しがたい行動だが、それでも成人の意味も伝えながらこれからも記事にしていこうと思う。(達)

耳鳴りが聞こえた日  『寺山ものがたり』の上梓
【No.209】 2004年01月16日

 起きたら耳鳴りがする。細い金属音。初めての経験。少しあわてた。ちょうど今日が鼻炎で病院に行く日でよかった。
 「鼻炎の治療は今日レントゲンを撮って終わりにしましょう。あれ、武さんはアレルギーがあるんだっけ。これから杉花粉が始まるから、そっちの薬を飲みますか。三週間分出しましょう」ということで通院続行になる。 
 耳鳴りを訴えたら「年齢相応じゃないかな。今まで無いのが珍しいくらい。でも聴覚検査をしましょう」とS医師。終わっての判定は「飲みすぎ、疲れやストレスが溜まると耳鳴りの症状が出る。飲みすぎは気ををつけたほうがいいですよ」。そう前夜、生ビールの中ジョッキを一杯、熱燗で二合、冷やで一合、を見抜かれた感した。疲れは校正の作業と「エコー」212号の編集。
 「高音がちょっと弱いかな。でも聴こえなくなることは無いでしょう」 という診断に少し安心。それで「耳鳴りが年齢相ということは老人になったこですね」と尋ねたら、笑いながら「まあそういうことでしょうか」と答えが返ってきた。今度は少しショックだった。このS先生、スッキリ、バッサリと話してくれるので私は好感を持っている。子連れの母親達は「怖い」と言うが…。それで、病状はといえば、今は耳鳴りは無い。これから晩酌をする。耳鳴りでなく海鳴りが聞こえるといいのだが。 
 『寺山ものがたり』が届いた。納得のいくできぐあい。うれしい。だから今夜も飲む。

きのう そして今日
【No.208】 2004年01月13日

昨日は東京へ。9時15分に毎日新聞社に着いた。全国から集まってきたPTA新聞を読んだ。その量は去年より多い。数が多かったのは東京、神奈川、福岡、山形と、新聞教育の盛んな都県。
 子どもたちの新聞を読んだ先生たちの感想「学校で新聞をつくることが困難になった。だから数は減少気味」「質は高くなっている」「パソコン全盛時代だが、手書き新聞が増えてきている」など。こちらもまた地域が特定されている。新聞づくりの指導が特別な技術のようになってしまったのか。新聞づくりは仲間づくり」だけなのに。

 きょうは妻の織物の展示会の初日。9時半に会場に行き飾りつけ。午後、だんごの木を取りに山へ。夜、先生(教え子)がスクラップ新聞を持ってくることになっている。勤務が終えて、ということで7時ごろ。そのあと、だんごづくり。

一足早く「道祖神まつり」
【No.207】 2004年01月10日

 11時半に「ふるさと伝承館」に行く。「そば処東雲」の企画で、道祖神祭りを今日行うのだが、それに招かれた。
 「だんごづくり」が終えた後、私が道祖神祭りの話を聞した。参加は親子合わせて17名。伝承館の大津さんの話では、五日制になってから土曜日に子どもたちの行事を持つのは難しくなったようだ。小学生も忙しいらしい。お稽古事や塾、スポーツクラブなどが、土曜日の子どもたちを奪い合っているからだ。今日のような地域の子ども向けの伝統行事は、親の関心がなければ成立しない。 
 子どもたちは『一つ目小僧』の話と『とっけだんご』の由来には興味を示してくれた。最後に拍手をもらった。教え子が一人、母親として参加していた。小学4年生の娘に「中学校のときの担任の先生」と、私を紹介してくれた。どこかのおばあちゃんが傍に来て、自分の故郷の道祖神祭りのことを私に聞かせてくれた。 
 参加させてもらってよかった。

甘い 苦い
【No.206】 2004年01月09日

新しい年が動き始めた。それは次年度の準備の始まりでもある。昨日、今日と16年度のPTA広報の講座の依頼が三つ入った。いずれも東京で、ある会場は午後7時スタート。「働いているお母さんもいるので」が主催者の言葉。そうだとしたら私も力を入れなければ。
 知人からパリのチョコレートをいただいた。ほとんどチョコレートは口にしない私だが、おいしくて何粒も食べた。甘みが抑えてあり、しっかりとした歯ごたえ。
 夕食に畑の菜花をゆでて食べた。苦味があった。去年と違い、もう花が咲き始めてしまった。これも暖冬のせいか。
 明日は田原の「ふるさと伝承館」の道祖神祭りで「トッケダンゴ」の話をする。もう一度ストーリーの確認をしなければ。

皓皓と照る月
【No.205】 2004年01月08日

◇日の出のころ
 タコーチヤマのなだらかな尾根をつくっていた落葉樹が裸木になり、今、稜線は鋭くなっている。樹間から透けて見える青空に、冬の清冽さを感じる。
◇昼
 行雲は北から南に速い。
◇午後7時20分
 今夜は満月。蕪村の句を思う。
「月天心貧しき町を通りけり」 蕪村の代表作といわれるこの句、季語からすれば秋。だが、私には今夜のような皓皓と照る冬の月の下、肩を寄せ合っている小さな家々の町並、そして足元には自分の影、そんな光景を思い描く。月がふさわしい季節は冬だろう。そんな月明かりの中、一条の飛行機雲が西に向かって今、走っている。


今週の朝日俳壇 1月5日

金子 兜太  三人目遇ひしも旅人冬籠       松崎  左
         極月や乗り継ぐたびに闇深み     工藤 たつ
川崎 展宏  裸木のあひ満月の昇りゆく      中村 果南
長谷川 櫂  金泥の一字を足して賀状とす     多田羅初美
稲畑 汀子  風となり光となりて群千鳥      永野由美子

 

【No.204】 2004年01月07日

4日 
 暮から三が日にかけて外泊をして、いよいよ帰るとき「帰るのはイヤ。家で治すから。帰らない」と泣くバアちゃん。バアちゅんの心境は、まさにの通りだと思う。94歳だが、91歳まで入院生活は一度も経験していなかった。それからの二年間に三度の病院生活。
 それでも「外泊だから」と車に乗せた。だが最後は『おりん』さんになってくれた。私は『辰平』にはなりきれなかった。車の中で春がきたら帰ることを決めた。「リハビリ がんばる」と強いバアちゃんに戻った。今年のわが家の目標が一つできた。この「外泊」は良いことだった。

6日
 昨日、病院の帰りに七草を買いにスーパーに寄った。七草の鉢植えが置いてあった。2800円。鑑賞用らしいが売れるとは思わなかった。ところが、中年の女性が買っていった。馬鹿な私は「どうされるんですか」と聞いてしまった。“余計なお世話”といわんばかりの顔で「山野草でしょ、これ。育てるの!」。そうか、その手もあったんた、と妙に感心した私。わが家は398円のパックを買った。

年賀状
【No.203】 2004年01月05日

 今年もまた年賀状の「行き違い」がたくさん起こってしまった。まったく不思議なことだが、こちらが今年ご挨拶を送らないでいたら、その方から元旦に年賀状が届いたのだ。昨年、いただかなかったので今年ははずしておいた。そうしたらこちらが欠礼をしてしまうことになってしまった。返事を書けばいい、新年になって書くのが年賀状、という考えもあるが、挨拶だから、できれば元旦に挨拶をしたいと思っている。だから、いただいた賀状の束の中に、こちらが差し上げなかった人を発見すると、その人を裏切ったような気持ちになってしまう。
 このくらいの年齢になると、年賀状は「生存証明」みたいなものだ。「とにかく、生きていることを伝えればいいのだ」と横着を決め込み、今年もまた自分の文字など一つも書かない賀状を出してしまた。それに引き換え、若い人たちからもらう年賀状は生気に満ちている。はがき一面に色鮮やかなイラストが踊っているもの、びっしりと近況報告や新しい年を迎える心が書かれているものなど、今年の私のお守りにしたいような賀状を10数通もらった。メールの時代の今、自らの文字で決意表明をしているのは本当にすがすがしい。
 「昨年4月、体調を崩し入院をしてしまいました。それで一年多い大学生活を送っています。入院中にドクター、ナース、そして患者さんなど、だれもが懸命に生きている姿を見て「私も誰かの役に立てる人になりたい」という思いを強くいたしました。4月から、経済・金融を中心としたライター・編集の仕事をする予定です。多くの人の心に届く文が書けるようにがんばりたいと思っています。先生もお体を大切にされてステキな日々をお過ごしください。 由希子」

 壮年からの賀状
 『定年退職まであと三か月』という見出しがついた、新聞形式の年賀状が届きました。全国新聞教育研究協議会の会長さんの吉成先生からです。発行号数が「3096号」となっています。
 「新任のとき『かみなり通信』という学級通信を出して以来、ずっと通信を発行し続けてきました。このハガキ新聞で通算3096号」とコメントがついていまいた。

この一年 
【No.202】 2003年12月30日

2003年の私
 
 1月 全国学校新聞コンクールのお手伝い
 2月 「湯河原文学賞」に入選 黛まどか先生と記念写真
 3月 パソコンの買い替え
 5月 義姉急逝
 6月 義弟を亡くす
 7月 念願の「軽トラ」を購入 
 8月 母 三度目の入院 
 9月 「エコー」9月号休刊
10月 「エコー」10月号は12ページ建て
10月 秦野園芸愛好会の研修旅行で「高山祭り」へ
11月 7日「エコー」のホームページのアクセス20000に
12月 異業種研究会で講演
12月 プリンターとエアコンが故障で入れ替え
12月 デジカメを失くし買う
12月 「寺山ものがたり」校了(1月15日に刊行予定)
12月 母、年末年始は自宅で

○今年一年の活動
  新聞づくりの講座 26回
  家族新聞講座    4回
  子育ての講座    3回
  郷土巡りの講師   3回
  秦野教育懇談会の仕事
  児童生徒緊急サポートチームの仕事
 
☆特記事項
 ・鶴巻中の卒業生との出会いが多かった一年 
 ・日本経済の底上げに貢献した一年
  (パソコン、プリンター、デジカ、エアコン、そして軽トラと、こんな  に買った)
 ・7月〜11月 鼻炎で悩まされる(今も通院 歯科にも通年通院)
 ・野菜は不出来(努力は人を裏切らない) 

12月27日
【No.201】 2003年12月28日

 起きたら雪景色だった。12月の雪は何年ぶりだろう。
 朝から三校をおこなう。いくつかの記事を囲みにしてもらうことにする。アクセントをつけたいから。
 私の移り気な性格が突然現れ、校正の途中で排水溝の掃除がしたくなった。雪解け水が流れているのに、コンクリートの蓋を上げ、家の周りを20メートルほど掃除した。枯葉と泥が想像以上、悪戦苦闘。腰が痛くなった。
 11時過ぎに病院に向かう。食事の相手をしたが今日は「鬱」。食事が終わったので早々に「暮で忙しいから」と立ち上がったら、「お願いします」という返事。まだ家長のつもりだ。だからいいのかもしれない。
 遅い昼食は鍋焼きうどん。ダイエーでの買い物に付き合う。途中でいらいらしてくる。買い物の付き合いはいつもそうなる。そんなに歩いていないのに足が疲れてくる。土の上ならもっと長時間でも平気なのに。買い物はキライだ。
 帰って校正の続き。K先生が訪ねてくる。ちょっと雑談「あと2年で終わりです」という。改めて自分の歳を思う。
 5時過ぎにSEDAに持っていく。最後なのでていねいに指定の説明をさせてもらった。そうしたら29日に四校を出すという。校了は正月5日、発行は15日。
 HPのアップが気になる。西ノ久保の写真が必要。年賀状は手をつけていない。寝ながら「本の窓」1月号の旅の特集を読んだ。

暮のご挨拶
【No.200】 2003年12月26日

 「暮のご挨拶」ということで義兄と義姉の墓参りにでかけた。愛川町のメモリアルパークには義姉が眠っている。芝が敷かれている中に墓碑が埋め込まれている区画と角柱の墓石の区画がある。義姉は角柱の下に眠る。墓所から見える家並みは義姉が結婚して新しく生活を始めた町だという。
 角柱とプレート式について:私としては角柱。プレート式で、そこに「夢」とか「愛」とか刻まれている下ではどうも安眠できそうにない。「愛」はともかく「夢」はもう見る必要はないだろうから。
 小田原の下曽我にある瑞雲寺、義兄は自分でここに永眠の地を求めた。墓所に立つと富士が西北に見える。西南には真鶴岬、手前に小田原の海、さらに手前が梅林。
 墓所に登る入り口に「ご自由にお持ちください」とミカンが置かれていた。2個もらって義兄に供えた。一個は食べた。甘かった。このごろどこの墓所でも供物を上げるのが禁止されている。カラスが集まるからだ。この寺はそれは気にしていないようだ。境内に石仏が点在している。市の文化財に指定されているようだが、どの仏も表情が穏やかで温かさを感じる。本堂の裏に聳える公孫樹の幹が西日に照らされ白く光っていた。

「寺山ものがたり」の取材
【No.199】 2003年12月23日

 庭木の手入れに植木屋さんが入って今日で三日目。私も二人につられて労働をしている。そんな今朝の9時ごろ電話が入った。NHKの「青春メッセージ」の関東甲信越地区大会に子どもが出るから見て欲しい、とのこと。電話の主は教え子。そして今日出場するという彼の息子さんとは、秦野教育懇談会の委員としていろいろ意見を交わしてきた間柄。
 植木屋さんに少し気兼ねしながらテレビの前に座った。アフガンの難民キャンプを訪問した時のことを話していた。放送が終わって自宅に電話をしたら本人は在宅、電話に出てくれた。就職も決まったようだ。これから今日の発言を実践するとになる。彼の行動力を信じたい。
 「つられて労働をしている」と書いたが、屋外の仕事はできない。当てつけのようで植木屋さんに悪い。大掃除の真似事を三日間した。作業の時間帯は植木屋さん二人と同じ。休憩は午前・午後それぞれ一回、15分。一緒にお茶を飲み寺山の話をする。情報がたくさん入る。何よりうれしいのは『寺山ものがたり』の補完ができること。二人は寺山生まれ、寺山育ち。私と七歳違うだけでだが、寺山の昔についての話は私の知らないことばかり。このお茶の時間は絶好の取材時間だった。

塩分摂り過ぎ 食べ過ぎ
【No.198】 2003年12月20日

無言館の戦没画学生の手帳に書かれていた食べ物のリストを新聞で読んだ。私の好むものとほとんど同じ。「ゾーニ、ボタモチ、アベ川、洋カン、スキ焼き…」と延々と綴られている。それで昨日の夕食に食卓に並んだものを思い出してみた。
◇きのうの夕食 
 鯵のヒラキ、大根とマグロのフレークの煮物、きんぴら、白菜の漬物、タクアン、キュウリの漬物、大根と人参の浅漬け、昆布の佃煮、ユズの砂糖和え、金時豆、ブロッコリーとトマトのマヨネーズ和え、里芋のにっころがし、、キャラブキ、日本酒に甘納豆、そして米飯。食後にイチゴ一粒、りんご二切れ。自家栽培は大根、ブロッコリー、里芋、そしてキャラブキ。ユズは冬至用に夕方隣の畑からいただいたもの。いずれにしても、これだと塩分摂り過ぎ、食べ過ぎ。
 潟永家と松島家の家族新聞が届いた。両方とも7号。ここまでくれば続くだろう。
 『寺山ものがたり』のニ校が終わった。夕方の空は、強風に吹き飛ばされて雲ひとつなかった。今夜は冷えそうだ。湯豆腐かな。

卒論
【No.197】 2003年12月19日

 午前10時、鶴巻中の卒業生のIさんが訪ねてきた。卒論の資料として私の話を聞きたいということ。テーマは「学校と地域の連携」。国際学科に在籍しているのに、こんなテーマに首を突っ込んでしまって、と笑う。「担当の先生の『自分の地域のことを知らずに国際なんて語れない』という言葉に共感して」らしい。地域と学校とのかかわりを西表島と秦野で調べてきた。そして、今結論の部分に差し掛かっている。私が語れないテーマではなかったので2時間ほど対話。「西表島では公民館の存在が地域にとってもっとも大きな力になっている」とは、Iさんの体験の言葉。私は「地域のが存在しなくなった今だからこそ、学校が地域の教育情報センターになることが必要」と話した。
 就職も決まって後は卒論だけ、という彼女。「これから学校です。書けましたら持ってきます」といって帰っていった。
 
 東中学校で教えたUさんは、ロンドン大学で中国民俗学の研究している。この12日に卒論のテーマである『気』についての本を出版。私もその書物をいただいた。一生懸命読んだ。遠大なテーマでただ感じ入るばかり。同封されたたたよりでは、博士課程の最終の口頭試問も合格したという。これからも研究生活を続ける彼女。そのたくましさが私にはまぶしい。

異業種研究会での講演
【No.196】 2003年12月17日

 昨夜、商工会議所異業種研究会に招かれて講演をした。会場に着いて最初にいただいた名刺は東証一部上場の電子機器の取締役の方からだった。
 五月ころこの話をいただいたとき、いつものように軽く受けてしまった。2週間ほど前に会長さんと事前打ち合わせをしたとき、与えられたテーマは「人材育成」だった。若者とリストラされた中高年を企業人として育成しなければいけないのだが「学校は子どもを育てるところ」という経験からのアドバイスを、ということ。前夜一応ストーリーは組み立てたのだが不安だった。今日は朝から落ちつかなった。大試験を迎える学生のような心の状態。レジュメをきちっとしなければいけないのに、それを避けて「寺山ものがたり」の二校などをしている自分がいた。4時ごろになって胃のあたりがおかしくなってきた。それで枕元に未完成のレジュメを置き横になった。昼間日に当てた布団が気持ちよかった。少し落ち着いた。
 6時開会、開会のセレモニーがあって私の出番。参加は16名。秦野経済界の第一線で活躍していらしゃる企業家ばかり。「動かなければ出会えない」を演題にした。私が出会った子どもたち、親たちから学んだことを話した。7時半まで聞いてもらった。質問も出たので、肩の荷は少し下りた感がした。
 今日午後、昨夜出席されたFさんから電話が入った。今夜、ある会で「仲間づくり」の講演をするとのこと。「今、その準備をしているところだが、先生の声が聞きたくなったので」。それで、Fさんと仲間づくりの話をした。

  12月12日  こんな一日でした
【No.195】 2003年12月15日

 Aさん、人権擁護委員の仕事で横浜へ。病院に行き、午後、小室さんに菊の鉢を返しに行く。数百の花が咲いていたハウスの中はすっかり整理されていて、今度は挿し芽の鉢がきちんと並べなられている。傍らで今年使った土をフルイにかけていた。来年のために数千本は挿すとのこと。そして「これからクズ掻きで忙しくなる」と言う。二年先の堆肥を作る準備だ。全生活を菊づくりに懸けているともいえる。その情熱がうらやましい。しかし大変なことだと思った。帰りに「かない観音」の道標を撮りに渋沢地区を回った。見つからないと思ったら、意外にわりやすいところに立ったいた。道標だから当たり前! 『寺山ものがたり』に使う。
 帰ってから、カメラを持ったついでに来月のトップページにアップする干支の郷土玩具「猿」を撮ることにした。飾り棚から持ち出した信楽焼の猿、伏見土人形・馬乗り猿、日光の三猿、延岡・昇り猿、大分・魔が去る(猿)、猿ヶ京の酔ってござる(猿)、柴又帝釈天のはじき猿、ここまては判ったかあとの4つは判らない。どこで求めたのか思い出せないのだ。はるか昔のことでから仕方ないこと。
 Mさんが家族新聞『らんどせる』を待ってきて「少しめげています。長男が勝手にオレのことを書くな、と言いだしたのです」と明るかった。 
 夜『寺山ものがたり』の表紙の一校がSEDAからメールで届いた。色合いが少し上品に思えた。それを感想として送った。いろいろあった一日。

百人一首
【No.194】 2003年12月11日

 「村雨の」と読み上げると、「露もまだ干ぬ槇の葉に…」と上の句から一首が、よどみなくバアちゃんの口から流れ出る。言葉はたどたどしく、弱弱しいのだが正解だ。そして「それはやさしいよ。ムスメフサホセだもの」とにやり。百人一首の暗誦で知力の減退を防げるかどうかわからないが、バアちゃんの自信にはなるだろう。それに、百人一首の勉強はこの時期にふさわしい思っている。ただ、耳が遠いので、こっちも大な声で読まなければいけない。それで、昼ごはん前の時間を使っている。同室の三人は食堂に行っているで、少し気がらくだ。だがナースステーションが隣りなので、初めての“勉強会”のときには看護士さんがのぞきにきた。正解率は7割強。若いころ、闇雲に記憶したものは忘れないようだ。昨日は小学校時代のようすを聞いてみたが、建物などをふくめほとんど記憶に残っていない。先生の名前はようやく思い出せた。
 とくに子どもの頃、憶えようと努力したものは記憶に残ると思った。それともう一つ、バアちゃんが今も記憶にとどめている70首ほどの歌はリズム感のあるものが中心であるということ。私が口ずさむ百人一首もほとんどバアちゃんと重なっている。中学のとき暗誦させられた漢詩、高校のときの藤村や犀星の詩は今もよどみなく口から出る。カラオケなどない頃の宴会では詩の朗詠も余興だった。「声に出して読みたい日本語」という本が売れている。CDも出たようだ。中学生あたりが読んだらいいと思う。

12月8日 
【No.193】 2003年12月09日

 今日からようやく庭仕事にとりかかれた。枯れ菊の整理を始めたら、それこそ2メートルくらいのところまでジョウビタキが近づいてくる。作業をした後に虫が出てくるのを狙っているのだろう。人なっつこい鳥、人間に関心があるのかもしれない。去年もそうだった。ジョウビタキはジイちゃんの好きな鳥だった。もしかしたら私の仕事ぶりを見ているのかもしれない。天気は良かったし、とても楽しく働けた。庭仕事や農作業は無心になれるのがイイ。
 12月8日は太平洋戦争の開戦日、成道会、一つ目小僧が来る日、そして「八八会」の日。八八会は東地区生まれの校長の親睦会。49年前、8人でスタートした会でその日が8日だった。それで「八八会」。それから毎年2回、5月と12月の8日に開かれる。会長の片野先生は93歳。午前中、庭の木に登って剪定をしていたら虫に刺された、とホホを腫らしたまま見えた。家族に「落ちないでよ、みっともないから」といわれて「だいじょうぶ、上には落ちないから」と応えたのだそうな。「この間同窓会があって、泊まりで行ってきた。80歳の教え子たちよ」。顔色、言葉、行動、どれをとっても70代だ。「若い女性にお茶の指導をしているのがその源」とおっしゃる。
 こういう会の存続は難しい。多分会員は50名くらいはいるのだろうが、今夜の出席は6名。最年少が50代、世代の違いが大きすぎる。

全新研全国理事会/食卓に差し込む光
【No.192】 2003年12月07日

  昨日は東京で開かれた「全国新聞教育研究協議会」の全国理事会に出かけた。福岡、大阪、群馬、茨城、静岡、千葉、埼玉、神奈川、東京から30名の出席。北九州市からの先生は前日の上京だったそうだ。財政が厳しい会だから全員が自費参加。こういう先生たちによって、日本の新聞教育は進められている。茨城の儘田茂樹先生に十数年ぶりに会えた。1971年に盛岡で開かれた新聞研究大会で知り合った。来年、水戸で開かれる新聞の全国研究大会の実行委員長を務めてくださる。「来年が最後です。それでこの大会をやることにしました。“満を持して”です」とにこやかだった。水戸に行く約束をした。この理事会で来年度の役員の選出が行われた。事務局長に東京の田村俊雄就いた。田村さんは、秦野が新採用地で、私がいた西中に来た。学年は私の学年、それで学年便りをいっしょに作った。やがて故郷の東京に戻り、秦野で関心を持った新聞教育を東京で実践した。そして、全国の新聞教育をまとめる事務局長に抜擢。私も少しは喜んでいいのだろう。交流会は新橋の居酒屋。2時間ほど飲んで、しゃべって帰ってきた。新聞は私の元気の元だとつくづく思う。
 今朝、7時ちょっとすぎ。今年もこの日、この時が来た。 
 食卓に座っている私の目を激しい光か射る。東北に位置する山の山腹に建つゴルフ場のクラブハウスのガラス窓が鏡の役をして、昇ってくる朝日を反射させる。それが我が家の食堂に差し込む。太陽光線の入射角が私の座る席で反射角としてぴったり合うのだ。太陽の上る角度も関係するので一年でたった一日だけ、このことが起こる。この日が来るのを待ちながら、毎朝同じ席で食事をとっている。

12月5日  私を囲む会
【No.191】 2003年12月06日

夜 丹沢そば「石庄」で私を囲む会が開かれた。参加は石井貞男さん(石庄)、佐藤正二さん(佐藤広告社)、川口洋さん(旭屋洋品店)、関野恵雄さん(税理士)、高橋豊一さん(豆峰)、松本幸夫さん(秦野サービス社)。それぞれ働き盛りの経営者の皆さん。「エコー」を読んでもらっている。
 ワインを傾けながら、教育、政治、町づくりなど談論風発。現役の時にこんな話を聞くことができたら、もっと味わいのある教師になれたのに、とつくづく思った。「だれでも教育評論家になれる」と言われる。経営者・経済人の皆さんの教育観は、教育界に身を置く者のそれとは異なったものもだと思っていた。だが、そうではなかった。 
 心地よい数時間が過ごせた。これから年二回、集まることになった。気がついたら0時を回っていた。石井さんに迷惑をかけた。


プリンター デジカメ
【No.190】 2003年12月04日

 プリンターが壊れた。マニュアルを見ながらがんばった。サービスステーションに電話して、教えられたとおりに試みた。ダメ。相手はいとも簡単に「送ってください」。多分一カ月はかかるとのこと。それであきらめた。どうしようもないから、買い換えた。もう破れかぶれ、デジカメも一緒に買っやった! 当然のことだがグレードアップ。買わなきゃいいのに、そんなにきばらなくてもいいじゃん、と思う。だけど、ここまでパソコンを使ってきたとなると「イイ、もうやらない」と宣言はできない。「いったい何のために」と思うのだが、もう生活の中に組み込まれてしまっている。あの世にお金を持っていけるわけではないから、これでいいか。でも年末なのに、ネ。
 『寺山物語』の一回目の校正が終わる。校正というより「文の書き足し 書き換え」になってしまった。「出稿する前にしっかり読まないからこういうことになるんです。SEDAさんに悪いでしょう」と叱られた。「言われるとおり、その通り」なのだ。

新しいネクタイで
【No.189】 2003年12月01日

 昨日、11月30日、鶴巻中学校の教え子・Kさんの結婚披露宴に招かれた。まったく思いがけないお招き。教え子といっても、彼女にとっては遠い存在なはずの私、その私が招かれた。私が退職した年、彼女は1年生だった。退職の時、お別れの手紙をくれたことがきっかけで文通が始まった。進路の相談も書いてきたりした。 
 20歳と19歳のカップル、さわやかな新郎とキレイな花嫁さん。友人達が元気よく、でも落ち着いた雰囲気で二人の門出を祝った。私にも主賓としてスピーチの出番があった。「家庭をオアシスに」と話した。Kさんは、体をこちらに向け、私の顔を見詰め、大きく目を見開いて聞いてくれた。
 たぶん今日が教師として私が招かれる最後の結婚式だろうと思った。それで、新しく求めたネクタイを着けていった。教師としての幸せをかみしめた一日。

星屑の町・遠野
【No.188】 2003年11月29日

  作詞家の東條寿三郎さんが26日に亡くなった。三橋美智也が歌った「星屑の町」の詞を書いた人だ。フォーク調の曲なのに、アクセントがあって、それを高音で歌う三橋美智也は民謡出身。好きな歌だ、このごろ氷川きよしもレパートリーに加えている。
「両手を回して 帰ろう 揺れながら 涙の中を たった一人で やさしかった 夢にはぐれず 涙を拭いて 帰ろう 揺れながら 涙の中を たった一人で」
 数年前遠野を訪ねたとき、この歌詞の原風景が遠野であることを知った。星空のない都会から星屑の町・遠野に帰る、というそんなイメージなのか。夕方、遠野の町には「星屑の町」がチャイムで流れるとも聞いた。そんなことがあって、このごろカラオケで歌うようになった。昭和37年の歌、はるか昔の歌だ。東條さんが亡くなって、三橋美智也さんすでに他界していて。「星屑の町」で思い出すことはいくつもある。
 ついでに思ったこと。「雪の降る町を」は鶴岡市が故郷とか。遠野もそうだが、固有の地名を使わないでその地の歌が作られるのは、それなりの地域文化がある。

伝えることのむずかしさ。
【No.187】 2003年11月27日

  11月19日に行った東中1年生の「地域めぐり」の感想文が届いた。おおむね“好評”、ホッとした。だが、自分の思いや伝えたいことが、聞き手に正しく伝わらないことを改めて知った。内容が興味深ければ深いほど、その話は正しく受け止められないようだ。興味ある話だから一生懸命耳を傾けてくれる。そしてそれを他の人に伝えるとき(この場合は私へ感想文という形で伝えること)、自分の思いがそこに入りこんでしまうのだ。今回の私の話の中身も少し尾ひれがついて私に戻ってきた。教育の場では、正しい内容を、正しく伝える話術が欠かせない。
 東中新聞と学級新聞をはるかさんが持ってきてくれた。どちらも見事な出来。読み応えがある紙面。レイアウト、イラストやレタリングなど言うことなし。彼女が中心でがんばったようだ。高校でも新聞をつくりたいと言っている。はるかさんの思いを受け止めてくれる環境があれば、と願う。

今年も先きを越されたクリスマスカード
【No.186】 2003年11月26日

今年こそ、と思って(早めに準備したつもり)、今朝10 時にGraham家へクリスマスの挨拶を送った。そうしたら、なんと、昼前の郵便でグラハムさんからクリスマスカードが届いた。またしても先を越された。日本でも11月になればクリスマスツリーが目に入るのだから、本場では今頃はもうシーズン真っ只中なのだろう。来年こそは、と決意。Coventry市を紹介するカレンダーをもらった。懐かしい景色が少しずつ変わっているようだ。私が訪ねたのが15年前だから当然だが。たよりでは、夫妻もお元気のようでホッとした。何しろもう80歳は超えているだろうから。我が家のバアちゃんの健康を気遣ってくれている。ありがたいことだ。こっちから送ったものはオルゴール付きのクリスマスカード。これはいつもの通り。それに日本庭園のカレンダーと防寒着。
 午後、秦野退職公務員連合会主催の「秦野の歴史研究会」に参加した。「波多野氏のおこりとその一族について」という講義を聴いた。その中で「秦野・市」は「ハダノ・市」で「ハタノ・市」ではない、という根拠を教えてもらった。大雨の中、出席してよかった。20余名の参加だったが、私以外は会の役員。少し気が引けたが行ってよかった。得をした。

深まる秋に歳を感じて
【No.185】 2003年11月24日

峠越えで病院に行くので、里山の黄葉を撮ろうと思った。それで、デジカメをとりに部屋に入った。いつも置いてある場所にない。思いつくままに、家のあちこちを見てまわったがない。あわてた。出かける間際だったので、帰ってから捜せば見つかると思った。これが昨日のこと。今日一日捜しているが見つからない。カメラの存在の記憶をたどると、公民館祭りの日で途切れた。公民館に問い合わせたが、もちろんナイ。どうしようもない“老い”。これが“歳をとる”ということか。
 “歳”といえば、エアコンが壊れていた。数日前にスイッチを入れたが、音も出ない。電話の子機も壊れたようだ。要充電の警告も充電中の灯りも点らない。両方とも耐用年数を超えたのか。これらの出費は莫大なものになりそうだ。“秋”終わりを身にしみて感じる秋。
 『寺山物語』の校正の準備を始めた。第1話から大修正をすることになった。十分な検証をしないで書き始めたからこうなってしまった。編集者に申し訳ない。

不安
【No.184】 2003年11月21日

 秦野の壮年経営者がつくっている「異業種研究会」。会員はそれこそ、さまざまな職種の経営者・責任者で28名。この会の12月の研究会で話をすることになった。その打ち合わせを笠島会長さんとした。機械設計事務所を持っている笠島さんは、昨年タイにその仕事場を拡げた。月の半分はバンコクでの生活で、週明けにはまた出国とのこと。私の方が話を聞きたいくらいだ。
 要望されたテーマ。@人材育成へのアドバイス(学校教育の中での実践例で)Aリタイアしての生き方・考え方(高齢者の雇用のために)
 五月ごろ講演の依頼があった。軽い調子で受けてしまった。今は後悔。準備をしなければ。不安。

郷土めぐりの授業
【No.183】 2003年11月20日

 午後、東中の1年生を連れて「郷土めぐり」をした。この授業は地域の歴史や文化を見てまわり、最後にふるさと公園で「手打ちそば」の実習をするという楽しい内容。私の持ち時間は1時間30分しかないので、テーマを「水」にしぼった。
 ・訪れた地
 1東中学校校庭の大きなイチョウの木と武邸の井戸 縄文後期の遺跡(住居跡・祭礼場跡)
 2消えた湧水池・清水(小・中学校の校歌に歌われる清水)
 3西の久保の湧水と井戸掘り
 4金目川という名の由来
 5八幡清水の水源
 6そばについての民話(そばづくりに水は大切なもの)
 この子たちは昨年・6年の時「新聞づくり」で2度会っている。そして卒業期に音楽会にも招待された。中学に入って「新聞づくり」で1度。だが今回で5回目の顔合わせ。そんなこともあってか、よく話を聞いてくれた。  だが、授業のメインはなんといっても「そば打ち」の実習。6人1グループでコネから切るまで自分達で行う。そして食べる。私もお相伴にあずかった。子どもたちが苦闘をしたようすがそばの太さや長さに表れていた。今日歩いた歩数は往復で8千歩くらい。

挨拶
【No.182】 2003年11月17日


 今朝は少し寒かった。タコウチ山の秋の色が濃くなってきた。土曜日に注文した灯油が今日配達されることになっていた。それで朝からタンクの周りをきれいにしていた。掃除はキライではない。ついでに家の裏を掃き掃除していた。そのとき「おはようございます」と通りから挨拶の声。かがんでいた私の姿は門扉の陰で見えないはず。箒を使っている音は聞こえただろうが…、その音に挨拶をしてくれたのだ。びっくりして「おはよう。元気で挨拶してくれてうれしいよ」と変な返事をしてしまった。立ち上がって声の主を探した。そのときはもう数メートル先を歩いていた一人の女生徒。ジャージ姿だから朝錬に急いでいるようだった。
 通りすがりに、当たり前のように挨拶をしてくれたようだ。この前も男子生徒が「こんにちは」と声をかけてくれた。挨拶の言葉を発するにはちょっとした勇気が必要だったろう。でもその勇気が私の一日をを明るくしてくれた。これからはこっちから挨拶しよう。

年二回の飲み会
【No.181】 2003年11月16日

 家族新聞「ランドセル」をもってMさんが来る。「小学校のふれあい祭りに来たついで」ということ。B4版2ページ、カラーコピーでできている。「お父さんにインタビュー」のコーナーが“売り”の新聞。31号になった。一昨年の夏から始まって、月刊が守られている。「子どもに『そろそろタネ切れじゃない?』と言わてます。意地でがんばってます!」と笑っていたMさん。私のことを太った、と言う。後で体重計に乗ったら4キロオバーだった。
 夜、飲み会。年二回で、15年続いているPTAのOB会。会社経営者、地方議員、主婦、そして元教員の7人がメンバー。相変わらず議論する内容は若い。「教育委員の働き」など話す。雨だったので二次会には行かなかった。9時過ぎに返ったら驚かれた。
 今朝の朝日の教育のページに「教育委員会」のことが書いてあった。昨夜話したことと似た内容。“盗み聞き”されたか!

県学校新聞コンクール
【No.180】 2003年11月14日

 12日にY先生から電話をもらった。今年の県の第53回学校新聞コンクールの結果の報告だった。まだ私に知らせてくださる。うれしかった。
 秦野の成績は「学校新聞の部」では、大根中学校が「最優秀賞」、「東中学校」が優良賞、「北中学校」が努力賞。学級新聞は「鶴巻中学校3年2組」が努力賞だった。特に大根中は三年連続で最優秀。これはすごいこと。秦野の他の学校もがんばっている。そのがんばりぶりを、きのう横浜まで見に行ってきた。 
 17日まで横浜駅西口のダイヤモンド地下街に展示されています。“ついでに”でもでもいいです。行ってみてください。

雁風呂
【No.179】 2003年11月10日

  
きのうの続き

 「枯れ木供養」のことを日記に書いたら、Tさんからメールで「青森あたりの話ではないか」とのこと。それでインターネットで探したら「雁風呂・がんぶろ」という季語に行き着いた。私がうろ覚えにしていたものを、正しく説明してくれる季語の解説も歳時記にあった。ラジオの話の内容の印象から、どうやら「枯れ木供養」と記憶してしまったようだ。それにしても、里人の優しさ、俳句を作る人の心眼のやさしさ。

 今日は神奈川県警の少年相談保護センターに研修に出かけた。寒い一日。

季語・春
 「雁風呂(がんぶろ) 雁供養」
 青森県外ガ浜付近では、暮春のころ、海岸に落ち散らばった木片を拾って風呂を立て、人々に入浴させる風習がある。これは秋に渡って来る雁が、海上で翼を休めるためにくわえて来て、ここに来て捨てておき、翌春、北方へ帰るときに再びその木片をくわえて行くのだが、人に捕われ、または冬の間に死ぬ雁が多いために、木片が沢山残るので、里人が哀れんで、雁を供養する心で風呂を立てるのだという。もちろん、伝説にもとづいたもの。

雁風呂や海荒るゝ日は焚かぬなり 高浜虚子
                (俳句歳時記 角川書店編より)

枯れ木供養
【No.178】 2003年11月09日

流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫

 北から渡ってくる鳥は一本の枯れ枝をくわえているのだそうな。飛行の途中、疲れるとその枯れ枝につかまりしし波間を漂う。そして又旅を続ける。日本の岸にたどり着いた彼らは、口の枯れ枝を海岸に落とす。やがて秋、彼らは北に帰る。そのとき、自分がくわえてきた枯れ枝を海岸で拾い旅立つ。だが、彼らの中には日本にいる間に死を迎えたものもいる。それゆえ海岸には持ち主が現れない枯れ枝が残る。村人たちは、残された枯れ枝を集め、海岸で火をつける。これを「枯れ木供養」というのだそうな。
 この話、いつだったかラジオで聞いた。どこで行われている風習なのか定かではない。川村氏の一句に「枯れ木供養」を思い浮かべた。

キリ番はSさん
【No.177】 2003年11月07日

 キリ番はSさん。メールをいただきました。「菊がアップされるというのでアクセスしたら、なんとキリ番」とのこと。でもその菊はアップしてなかったのです。今日、4枚載せました。花の見事さに免じてください。と言っても、花はすべて小室さんの作品です。私の菊は1枚目の写真の隅のほうに見える乱菊です。「乱菊」などと言っていますが、一年間ほったらかしておいても菊は咲くのです。


朝日俳壇 11月3日

金子 兜太  流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫
川崎 展宏  行く秋や財布の中の古切符      飯村  弘
         新米やためつすがめつ水加減     堀江 重臣
長谷川 櫂  冷ややかに我が腑を探る内視鏡    岩城 鹿水
        柚子の香やふつふつと鯛の潮汁    小柳  満
         すがれ鳴く松青虫よまだ居たか   しもだたかし
稲畑 汀子  秋天へ達するほどに足場組み     鈴木 石水
         片付けてそして更なる夜長かな    高野 秀雄
         青空を一揺すりして秋時雨      井芹眞一郎
         一点は孤高の鷹となりゆける     和村ひろし

幌つきの軽トラで菊を運ぶ
【No.176】 2003年11月06日

 今週末の8,9日に開かれる東公民館祭りに、菊の花で参加しなければいけない。ところが今年は今までで最低の作。私の“実力”で最低だから、とても人様に見てもらえるものではない。夏の気象のせいにしているが、研究不足、努力不足の結果なのだ。  
 私たちの園芸愛好会の菊花展は、祭りの会場を華やかにする役割である。それで、他人の力で会員の責任を果たすことを思いついた。菊作りの大家・小室久司さんの作品を貸してもらおうとしたのだ。小室さんの長男を担任した年、学校の文化祭のクラス展示で「菊の福助つくり」を指導してもらった。それを頼りにあつかましくもお願いした。
小室家を訪ねたのは昭和57年の家庭訪問以来なので道に迷った。裏庭に菊を育てる小屋があった。「今年は600鉢くらい」との話。その数と花の見事さにただただ驚くだけ。もう菊花展のシーズンは終わりに近いらしい。明日は今年最後の寒川神社に出展のための、手入れで忙しそうだった。今年も近辺の菊花コンクールでの賞は“総なめ”だったようだ。来週になると、もう翌年の準備に入るのだそうだ。「残こりものばかり」と言うが、どれも鮮やかな大きな花ばかりだった。軽トラで来た、と言ったら「幌付きトラックでなけりゃ運べない。花弁が風でダメになる。ウチの車を使いなさい」ということになった。福助づくりを10鉢乗せて、幌つき軽トラを運転した。鉢を倒さないようにゆっくり走るので、後ろは車が詰まる。でも荷台に乗っているものを見れば許してくれただろう。この車はマニュアル車。道筋には踏み切りもあったのでとても緊張。

★ギャラリーに小室さんの菊をアップします。見てください。

☆『エコー』のHPへのアクセスは、今明日中に20000になりそうです。キリ番の方、よろしければメールをください。

11月3日 駅伝 ラグビー バレーボール
【No.175】 2003年11月04日

 バレーボールのワールドカップ大会をテレビで見た。日本対韓国。因縁、いや永遠のライバルの戦い、すごい試合だった。栗原選手の可憐さ、佐々木選手のクールな表情、吉原選手の瞳に見入った試合でもあった。執念の逆転勝ち、良かった。
会場の声援のボルテージが上がるのは当然だと思うが、試合か停止している間に放送施設を使って観客に声援を行わせているのはキイ局の演出なのか。ベンチにもどって作戦を練り上げているとき、怒声に近い応援は迷惑そのものでしかない。選手の集中力を失わせる。アウエイの試合とはいえ、韓国の選手たちの日本への感情も気になった。また、あのタレントたちのカメラに向けて見せる仕草はまったく緊迫した試合とは無関係と思えた。ここでもスポーツをバラエティ化してしまうところだった。  
 冷静に考えれば、韓国に勝ったからといってオリンピックに行かれるわけでもないのだから、どうということはないのだが、それでもああした接戦をモノにできた選手達を素直にスゴイと言いたい。
 昼は女子駅伝を観た。秦野高校出身の萩原選手と小幡選手が走った。夕方は大学ラグビーの慶明戦、ちょっと期待はずれ。NHKが放映しないのがわかったような気がした。
 テレビ観戦の一日。

新聞 新聞 新聞 そして新聞
【No.174】 2003年11月01日

潟永家の家族新聞が届いた。この新聞の特長、まさに特長だが、直筆のコーナーがある。紙面は原則としてパソコン仕上げでコピー印刷なのだが、受け取る人それぞれに,その人だけのコーナーが設けられている。少ない発行部数だからできること。今号は「春美 合格しました。やりたいことができる学校が見つかってよかったです。」と、娘さん合格の喜びの報告。
 『たいよう』の発行所(渡辺家)から家族新聞のレイアウト用紙が欲しいと連絡がきた。7月スタートで4号まで順調。毎号カラフルな紙面が作られている。
 202号の『であい』には白神山地のブナ林の黄葉のことが書かれていた。
 10月で29号を数えた『O』新聞はいつものように豊かな内容。いっしょにK高校の学校だより(正しく言えば、全職員よるエッセイのリレー)も送られてきた。発行を始めて9年目のこの10月に、1000号を迎えた。教職員集団のまとまりのすごさ、強さ。このたよりの名前は『スイミー』。

チューリップの球根を買う
【No.173】 2003年10月31日

 「エコー」を投函、そして病院へ。今日のバアちゃんはハイ! 毎日、その日の精神状態が言葉にはっきり表れる。
 帰りに文化会館で開かれている秦野市美術展に寄った。「エコー」の古い読者であるM.SさんとY.Mさんが出品している。M.Sさんは「無鑑査」。Y.Mさんは初応募で「市長賞」。すごい実力! そしてもう一人、園芸愛好会のY.Tさんも油彩の大作で入賞していた。奥さんも市展の書道の部で入賞されている。ご夫婦の同時入賞というのはまさに“快挙”。
 絵を見た帰り、チューリップの球根を50球買った。「友がみなわれよりえらく見ゆる日は…」。妻もいっしょだった。遅い昼食は「あしながソバ」。これでは「啄木」かもしれない。

ジヨウビタキ
【No.172】 2003年10月30日

「ヒッ ヒッ」という鳴き声が聞こえたのは早朝五時ごろ。ジョウビタキが帰ってきたのだ。中国の西部からサハリンあたりで繁殖して冬になると日本に渡って来る冬鳥。私の好きな鳥の一つ。植木屋さんが茂りすぎた庭木を手入れしてくれると、その姿がよく見えるようになる。もう少しでそういう季が来る。そして今、この日記を書いていたら「ヒッ ヒッ」の声。探したら前の長谷さんの屋根のてっぺんにその鳴き声の主の姿があった。
 4時半に東中のN先生がみえた。1年生の総合学習の「ふるさと巡り」の打ち合わせ。今年で5回目。私の資料は昨年のものより良くしたつもり。6年生の去年、学習新聞づくりの指導をした子たちとの再会でもある。楽しみ。
 昨夜、岩原さん親子と電話で話ができた。 

今朝の新聞
【No.171】 2003年10月27日

今朝の新聞からうれしいニュースを二つ。
 一つは朝日新聞の『声」の欄。寺尾恵仁さんの投書か載っていた。「総選挙特集」で「言葉の羅列のマニフェスト」というタイトル。このホームページの『にっきの木』の四月号で紹介した「高校生の創った演劇」の彼である。寺尾さんは「東中新聞」の指導が縁で、4年前からわが家に遊びにくるようになった。「エコー」の貴重な若い読者の一人。
 そして神奈川新聞のスポーツ欄を開いたら「岩原(秦野東中)が優勝」の4段見出し、さらに写真と囲みで7段の扱いで「自己流でフォーム確立」と出ている。きのう行われた陸上の第34回陸上ジュニアオリンピックのジャベリックスローで亮恵さんが優勝したのだ。岩原家も『エコー』の読者。朝日のスポーツ欄にも載っていた。

孫薬
【No.170】 2003年10月25日

病院のエレベーターの中で聞いた親子三人の会話。「おじいちゃん、わかったみたいでよかったね」「チカだけわかったみたい」「だから言ってたでしょ、絶対わかるからって。来てよかったね」。お母さんの声が弾んでいるように感じた。
 昔は「親薬」「子薬」といって、親の病気には子どもが、子どもの病気には親を会わせることが、薬より有効といわれていたそうだ。ところ、がわが家のように親子が共にある年齢にまでいってしまうと、感情の交流もそんなに新鮮ではなくなる。きょうのエレベーターの三人のように、高齢の病人には孫が特効薬になるのだろう。そういえば、バアちゃんにも「孫薬」が当てはまる。病院の松岡先生の本の中にも「小学生くらいまでのお孫さんが面会に見えたときは、明るさが増すようである」と書かれてる。
 

またまた読んでいる本
【No.169】 2003年10月24日

 向井敏の「文章読本」をまた広げている。もう4,5回になるか。時を置いて読むとまたまたおもしいのだ。文章の書き方を教える本だと思って買ったのが、その種のものではなかった。ハードカバーの本のとおり、ハードな内容なのだ。大作家の文だからといって、意味が通じなければ容赦なく腑分けしている。難癖をつけているみたいなものもあるが、言われてみれば「その通り」と思ってしまう。ある作品の二人の翻訳を並べて、訳者の文章感覚を比較している。そして「この二つの文章に差があるとしても、ほんの微差に過ぎないという人があるいはいるかもしれない。しかし、そのわずかな差を詰めることが途方もなくむずかしいのだ」とまとめている。わずかな差をつけられた訳者はたまらないだろう。
 ここまで書いてきて、「訳者による文章感覚の違い」について思い出したことがある。『図書の』の7月号に、三浦佑之先生が、古事記の中のイザナミの言った「然善」を訳者はどのように口語訳しているかについて書いていらっしゃる。

清水基吉選 「雨月集」
【No.168】 2003年10月23日

 俳句月刊誌『日矢』10月号が、今月もTさんから届いた。Tさんは清水基吉先生が主宰する「日矢」の会の会員で、手紙も添えられていた。
「先生と再会したのは五年前の9月でした。それから先生と先生のお父様の俳句に触発され、俳句らしきものを始めてめて四年になります。人の縁の不思議さを思います。そんな私に、清水先生は今月、ご褒美をくださったようです。」
 10月号の巻頭を飾る清水基吉選「雨月集」にTさんは登場していた。今月号に作品が載っているのは360名ほど。その中でので推挙である。
 その作品は

 子を迎ふ門火はたかく焚きにけり
 墓所に這う蛇は巳年の父かとも
 陰膳を供へてゐたり盆句会
 深爪に眉顰めをる残暑かな
 凌霄花散り急ぐ日や海荒るる
 夫婦茶碗揃へてゐたり子の帰省
 鎌倉の茅の輪潜りや世も潜り

 5年前の同窓会で35年ぶりで出会ったとき「近所の仲間と俳句を始めた」と話していた。俳句には少し関心があったので、彼女に俳句を作るように勧めた。そして4年、その精進が花開き始めている。
 
 ホームページの移動を終えた。
 新しいアドレスは
 http://park11.wakwak.com/~echo-shinbun 
 
 まだshinbunにしがみついている。 

これが10月20日の私
【No.167】 2003年10月20日

 朝8時過ぎ、新聞を読んでいたら、妻が「クリーニング代 いただきます。これ、見て!またやちゃったわね」。妻が手にしているのは洗濯が終わったばかりの私の作業ズボン。そのズボンの腰の部分が紫色に染まっている。
 「明日は雨だというので、急いで洗濯を始めたのがいけなかった。もう、大丈夫と思って、調べないで回したらこのとおりよ」。
 昨夜、私はこのズボンやサファリジャケットを洗濯機の中にほうりこんだ。ポケットを点検して入れるように、とは何度も言われてきた。
 今までに、お札、硬貨、万歩計、(洗っても乾けば動き出すことを知った)、ライター(これも使える)、ちり紙(これはタイヘン、すべてのものが花、いや紙吹雪を浴びてしまう)などなど、を一緒に洗濯してもらってきた。だがボールペンは初めて。こんなに被害が大きいとは…。すべての洗濯物が青紫の染められている。特に木綿がヒドイことが分かった。そして洗濯機のドラムまにもべったりと紫色が。
「あきれたわ。これで何度目?。ほんとにダメな人ね」「水性ならどうだったのかね。下着 買いに行ってくる」「ふざけないで」
 午前9時、S耳鼻科の先生の前で。
 私「先生、おかげで良くなりました。ありがとうございました。お世話になりました」
先生「武さん、まだ終わってないよ。私がイイというまで来なくちゃダメだよ」とあわてた声。先生に喜んでもらおうと「お世話になりました」と言ってしまった私。もちろん私だって完治したとは思っていないのだが…。これは“あわて者”というより、言葉の使い方ができていないということ。 治療が終わり薬局で薬をもらうとき、薬剤師のSさんが「先生がイイと言われるまで通ほうがいいよ」と言う。こに薬局は病院内にあるのではないのに、診察時の先生の言葉を聞いていたかのように言った。私は見抜かれている。 午後、『エコー』の原稿をプリントアウトし、切り張りの仕事をした。そのとき、不要になった紙といっしょに、必要な部分の切り抜きを丸めて屑篭へ。「しまった!」とゴミあさりをしていたら、妻が入ってきて「またヤッタのね」。
 PTA広報・6紙のクリニックをした。秦野が3、東京が2、大井町が1紙。久しぶりに硬派の広報にであった。こういう広報は批評もし甲斐がある。

大江健三郎作詞の来年のNHK合唱コンクール
【No.166】 2003年10月16日

 13日の午後、テレビで高校生の合唱の全国コンクールを聞いた。野球やサッカー、ラグビーなどスポーツ系ばかりがニュースになるが、この日ステージに立った高校生の何とすがすがしかったことか。歌っている表情になぜか涙がこぼれそうになった。司会をしていた錦織健さんが自分のことを「体育系くずれ」と言っていたが、その彼がこのコンクールへの参加がきっかけで、オペラ歌手になったのだ。どこかの学校紹介の映像の中で、男子生徒が「だれか“まともな人”入ってくれないかな」と言っていたが、みんな“マトモ”。
 このコンクールの中で、来年の課題曲の作詞・作曲者が発表された。小学校はたしか「ドリカム」だったと思うが…。中学は「谷川俊太郎」、そして高校は「大江健三郎」とアナウンスされたとき、会場は大きくざわめいた。「来年、大江健三郎の詩で歌える」との期待、そして喜び。わたしだってこの顔ぶれの課題曲が楽しみだ。NHKはきばった。今年の参加校は300校だった。来年はもっと増えてくれたらいい。高校の先生もがんばって欲しいな。来年のこのコンクールのテーマは「信じる」だって。

10月9.10.11日
【No.165】 2003年10月13日

 園芸愛好会の11名で高山祭りに出かけた。9日は汗ばむほどの好天。3時前に桜山八幡宮の表参道には入れたので、屋台の「曳き廻し」が見られた。この日は4台だった。鳳凰台という屋台は、11台あるうちで最大のものだそうだが、秋空の下、西日に輝く鳳凰は豪華で優美だった。参道には5台が曳き揃え」で並んでいた。屋台の上で女の子(小学校1.2年くらいか)が横笛を練習していた。宮川べりに夜店が並んでいた。裃と袴の衣装の男の子が二人、嬉々として店を覗き回っていた。
 10日、ロープウエイを使って西穂高口の展望台に立った。待ち時間を入れて1時間ほどで2156メートルの地点に立てるのだ。槍ヶ岳のあの頂は、大喰岳が面前なので、わずかに見えるだけだった。奥穂高岳、北穂高岳など、名前だけしか知らなかった3000メートル級の山々をすぐそこに見ることができた。南には焼岳もあった。ようやく色づき始めた落葉樹だった。第2ロープウエイ脇の桜紅葉の赤・オレンジはイイ色だった。

 11日、『丹沢そば石庄』主催の「そばの花見会」に出かけた。ソバの花は満開。1時半から2時間かけて「大山道・寺山の里ウオーク」をした。このネーミングは私。参加は70余名。交通整理と道案内を兼ねて、角谷戸の根倉市郎さんご夫妻に一緒に歩いてもらった。歩いた距離は2.5キロくらいか。10の地点で、地名の由来、言い伝えや歴史的な事実、そしてそばにまつわる民話を話した。聞いてもらうには、なおいっそう精選された話し方をしなければと、反省しきり。ウオークの最後のポイントで「大山道・市内最古の道標」の話をしたら、数名がその道標を確かめにその地点に行ってくれた。少し肩の荷が少し降りた感がした。

ホームページ開設三周年
【No.164】 2003年10月08日

2000年10月8日に開設したホームページが今日で3周年を迎えた。アクセス数は18560。どなたが読んでくださるのか判らない。月一回の更新はこのアクセス数を稼ぐためのものとも言える。どのページを見ても中途半端、反響がないのはその証拠。その中で「秦野のお話・寺山物語」は、自分としては一生懸命書いているつもり。それを2004年の正月を目安に小冊子にすることにした。“まとめる“ということでない。大それた思いだが“寺山を記録する”つもり。

ツルウメモドキ
【No.163】 2003年10月07日

 4日にお隣の小学校の運動会が終わり、裏の畑の中学生のサツマイモ畑もきのうで黒い土だけになった。きのうきょうの気温は11月中旬並。
 今朝、出勤前に「エコー」の読者のOさんが11月号の原稿を持ってきてくれた。「庭に咲いていたから」とコスモスの花を一緒に。そしてツルウメモドキの一枝もいただいた。皮のはじけた実はまだ数粒だけ。それでもその黄赤色の実は晩秋の近づきを感じさせる。
 6月の家族新聞づくりに参加したW家の「たいよう」の9月号が届いた。これで4号。電話でお礼と激励。「3号雑誌という言葉があるように、家族新聞も3号目がタイヘンになる。それを超えたのだから大丈夫。これからも続けてください。」父親の登場が少ないから、意識して記事にするようにアドバイス。
 夜、O高校の広報委員長のSさんからファックス。第1号の発行時に比べ、今は委員が積極的になったと喜びの声が書かれていた。

児童生徒緊急サポートチーム
【No.162】 2003年10月04日

 秦野市の教育委員会が設置した「児童生徒緊急サポートチーム」に加わっている。このチームは、新しく法整備がされた「出席停止の児童生徒」を助けることを目指している。構成員は児童相談所、保護監察官、臨床心理士、青少年相談員、それに退職教員である。
 きのうはその連絡会が西中学校でもたれた。西中が抱えている生徒指導の課題、特に授業放棄をしている子どもたちヘの対応を話し合った。授業もみせてもらった。私もこの西中に勤務したことがあったが、そのころと今の子どもたちの家庭環境がかなり違っていることに少しとまどった。 
 「教室に入らない子」ではなく、教室に「入れない」子という認識が、周囲の人たちに必要だと感じた。 
 校長先生の「学ぶ教師のみが教える権利がある」という教育理念を知り、教育への情熱を感じた。公教育がかなり苦しくなっている今だからこそ、この言葉に真剣さを感じる。頼もしく思う。
 授業見学の間に図書屋にも入った。そこで図書整理の仕事をしていた女性が「武先生ですね」と声を掛けてくれた。佐竹かおりさんで、15年前この棟で一緒に勉強した生徒だった。フラッシュカードの授業と新聞づくりのことをおぼえていてくれた。彼女は、今の子どもたちへの感想として「先生に恵まれ過ぎている」と言った。意味深長な言葉だった。

秋 好天の一日
【No.161】 2003年10月02日

 昨夜、K先生から「新聞のスクラップを授業で取り組んでいる」という報告があった。6月におこなったセミナーの実践である。
 寺山ウオークの下見としてコースを歩いてみた。汗ばむ好天の秋。歩きながら、寺山のよさをあらためて感じた。ついでにゴルフ場から富士を見た。こんな景色を見ながらゴルフができるのなら、やってもいいと思った。
 今度のウオークに助手をしてくれる寺山の人を探していたら、Nさんがやってもいいといってくれた。孫の中学生も一緒らしい。寺山の良さを知ってもらうウオークだから、地元の人が一人でも参加してくれることはうれしいこと。参加者の大半は京浜の人たちだから。
 
 キンモクセイの香りがただよっている。花言葉は「謙遜」だそうだが、なにか違うような香り。もっとも、数日ですべて咲ききってしまうのだから、謙遜でもいいか。

9月28日  秋です
【No.160】 2003年09月29日

 午後、隣組で昔からお付き合いがあったキヨ子ちゃんちが引越しの挨拶に見えた。一歳年上のキヨ子ちゃんは私の野菜作りの先生「わかんねえよ。でも私はこうやってんのよー」と言って、作物の作り方を教えてくれた。キヨ子ちゃんではなく、息子夫婦がお別れをしに来た。
 夜、煙草祭りの花火が権現山から上がるのを眺めた。秋の花火はきれいだ。東の風がかなり吹いているので硝煙が漂わない。上がった花火は、その風で西向き崩れるように開く。700発とか聞いたが、あっという間に終わった。時間にすれば20分。最後の花火は大きな枝垂れ柳だったが、これだけは光の余韻が長かった。いかにも最後という感じ。秋の花火だからこれでいい。中天に火星があった。

9月24日 年齢相応の一日
【No.159】 2003年09月25日

 8時30分に日赤病院に入る。鼻炎の治療。ほとんど変化なし。薬局の薬剤師さんが「もっと強い薬をもらったら」という。9時45分、予約の関歯科へ。毎週一回通っていて、もう一年半。関歯科は隣組、私の教え子。二人で週に一度、世間話を楽しんでいるようなもの。11時30分にバアちゃんのいる温泉病院に着く。昼食の相手をする。「もう病院の食べ物に慣れただろう」と聞くと、激しく首を振る、左右に、である。もっていったキャラブキで食べる。帰って3時40分に亀崎医院に。ここでは高血圧を抑える薬をもらう。善玉コレステロールを増やす食物のリストが付いていた。アサリ、ハマグリ、ホタテ、ズワイガニ、カキ、…、これじゃあ好物ばかりだ。軽トラとクラウンを乗り分けて動いた一日。疲れた。帰ってしばらく横になった。天気がすっきりしないからビールが甘くない。年齢相応の、凝縮した生活のきのう一日。


台風一過 明日は楽しみ
【No.158】 2003年09月23日

雨はそれほどでもなかったが風がひどかった今度の台風。木の葉が吹き溜まりに山のように積もっている。それを集めた。ほんとは燃やしたいのだが{
風が強いから」と止められた。それで、クロガネヤに行って野菜の種と苗を買った。今からでは遅いのかもしれないが、明日蒔くことにする。 
 このごろ、野菜作りの好きな人が多くなった。どなたも熱心だから、季節を先取りして「先に、先に」と栽培する。それで、本業の農家の人が、釣られて、同じように早く作付けするようになった。キャベツの苗を選んでいたら、Iさんが声をかけてきた。「これから」と言ったら「遅いよ」。
 たくさん作るわけでもない。太い大根も必要ではない。だから、遅れても自然に任せてつくることにした。有機栽培といっても、私の場合は手抜き栽培。
 すでに芽を出した大根や、植え付けしたキャベツや白菜の苗は、今度の台風で吹き飛ばされたようだ。「ウチはこれから」。これがもしかしたら正解かもしれない。台風の前日も耕した畑の土が、適度の雨でよい色になっている。土に向かっていると無心になれる。だから、出来具合など気にはならない。

三役人事
【No.157】 2003年09月21日

小泉総裁の党の三役人事、強気。策略家だね。幹事長に安倍、政調会長に額賀と、次の次くらいと目されている若手を持ってきた。高村、麻生、古賀らを飛び越して、次の次の世代に引き継ごうとしているのか。総務会長の堀内の留任は、ベテラン組に“ちょっぴり配慮”とも見えるが、これは論功行賞。(額賀もこれにちかい?)派閥の長たちはどのようにこの人事を受け止めたのだろう。明日の組閣が見もの。きょうの勢いがたもてるかどうか。 でも、人事だから、いろいろなしがらみが出てくるのだろう。
 外務大臣が誰になるのか気になる。小泉、安倍ラインでの外交は注意しなければいけないから。(敬称略)

 

熱々の焼き栗
【No.156】 2003年09月18日

 きょうで「今年の栗はお終い」と決めて、栗のイガを集め燃やした。数カ所に火をつけたから、かなりの煙、近所迷惑。でもお百姓の畑の煙は収穫のあった証、許してください。そんな火の中で、拾い残した栗の実が元気よくはねる。それを拾い出して食べた。 
 大きな栗の根元に腰を下ろし、手のひらの中を何度も転がしながら、熱々の栗の皮を剥く。ゆでたものと味はまったく違う。香ばしくて、甘い。秋の空を見上げながら、実りの秋を楽しんだ。けっこう幸せ感に浸れた。
 毎年のことだが、小さな実は、一本の栗の木の根元にまとめて置いておく。すると、たぶん鹿だろう、ある夜、この畑に現れて、きれいに食べて帰ってくれる。今年は、昨夜がそうだった。50粒ほどの実がきれいに食べられていた。噛み砕かれた栗の皮がわずかにそこにあった。 
 柿の実には「木守り」という風習がある。それを栗の実でやっているつもり。
 午後「エコー」208号を入稿。9月を休んだので、増ページ。

秋風や
【No.155】 2003年09月15日

 昨夜、Sさんからメールが入った。今朝の朝日新聞の俳壇に徳武先生の俳句が載る知らせだった。
今朝の新聞が待ち遠しかった。
 
金子兜太の選だった。
 秋風や君は筑紫へ彼は黄泉へ  徳武清助

 兜太氏の選評は「構えた措辞に哀別の情ひとしお」とあった。

 「彼は黄泉へ」は、徳武先生が新聞教育を一緒にやってきた園部先生、高木先生、町田先生、斉藤先生の四名への惜別の情である。この御四方は昨年秋から急に冥府へ旅立たれた。
 徳武先生は私がお世話になった全国新聞教育研究協議会の元会長。今は新聞教育に関わったOBの会「関東パピルス会」の会長を務めていらっしゃる。良い句に出会えた。先生にお祝いの電話を入れた。

きのうの日記
【No.154】 2003年09月12日

 午前8時30分に栗畑。小粒がたくさん落ちている。見張りをしてくれるTから缶2本の差し入れ。「ポックリ行きたいね」などと話す。10時に帰ってきて、庭続きの畑の草取り。荒れ放題で手を焼く。この仕事は昼飯まで。午後少し横になる。3時に温泉病院へ。担当の医師やケアマネージャーなど4人らこれからの治療の話を聞く。快方に向かっているとはいえない。帰りに栗を知人宅に届ける。「エコーが届かないので、先生に何かあったのではと心配していた」と言われた。続いてもう一箇所寄る。SEDAに「寺山物語」の原稿を渡す。12月までに完成の予定。私のいない間、Mさんが家族新聞NO29号を持ってきてくれた。5時過ぎ、Nさんも購読料をもて来てくれた。二人とも「エコー」の届かないことをいぶかっての来訪のようだ。申し訳ない。今夜のビールは甘かった。満月を寝床で眺めた。

 野中広務代議士が今期限りで引退すると発表した。古武士然とした風貌、そして話し方が好きだった。政治家とは、自分の理想、主義・主張のために生きなければならない。もちろん、国民のためにである。野中が、青木や村岡をナジったのは大人気ない、醜態と言う者もいる。しかし、小泉と別な政策を唱えながら、この期におよんで支持に回る、という実利主義者の方がもっと醜い。「政治はよりベターなものを追う」ことであるのも確か。だが、政治生命をかけて、小泉政治に対峙する野中に“潔さ”を感じる。野中は現憲法を擁護する姿勢があった。軍事大国ヘの道を取ろうとする、今の政治を危惧している政治家だった。
 10日の朝日の『素粒子』は「裏切りは政界の定法だろうに、いまさら『裏切られて』だの『悲しい』だとは、一代の策士のせりふとも思えない。野中広務氏敗北宣言。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。派閥政治の終焉である」と切手捨てた。そして11日、『素粒子』は言う「なぞなぞ3 いるはずだけど影も形も見えないひとだあれ。それは自民党橋本派会長」
 次は青木氏について何を書くのか。書くに足らずなのか。政界の定法だから解説不要か。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」でなかった野中氏を私は買う。77歳、彼は敗れ去るだろうが。

今朝の庭
【No.153】 2003年09月09日

朝6時、寝床から縁側越しに庭を眺めた。桜の梢から朝の秋の空が透けて見える。この夏の異常気象のせいかもしれない、葉の散り具合が早いようだ。温度計を見たら27度、それほど低くはないのだが、すっきりとした秋の朝を感じた。今朝も朝顔はまだ20ほど咲いているが、花はすっかり小さくなった。朝顔の季語は『秋』、案外こんな朝顔が本当の朝顔なのかもしれない。花にミツバチがもう来ている。エジプトの朝顔−苗をくれたMさんがそう呼んでいる−(本当の名前は分からない)は、夏と同じ勢いで今朝も濃い紫の花を二つつけている。椿の下にミョウガが繁っている。その根元に白っぽいものが見える。たぶん、ミョウガの花だ。もう呆けているのかもしれない。
 横になったままの視線・視角は、見慣れた庭でも新たなものを発見させてくれる。先週土曜日の朝日新聞be版で「病床六尺、これが我世界である」という正岡子規の東京・根岸での晩年の闘病日記が紹介されていた。 
 普段と違う、低い視線から周りを見ることはこまかい観察ができるのかもしれない。

日本蕎麦と油絵
【No.152】 2003年09月07日

9月6日
9時から菊の勉強会。見てもらうのも恥ずかしいくらいの貧弱な鉢もって出かけた。年毎に出来が悪くなっている。「勉強不足」このひと言、分かってます。庭続きの畑だって草ボウボウなのです。忙しいのです。 
 11時過ぎに病院へ。食事を待っているところだった。ウチの茹で栗を持っていったので、食べてもらった。喜んでくれた。1時半ころ、病院の前の蕎麦屋さんで昼食。ここのお嬢さんは、私が現職のころ模擬面接試験をしたことがある。印象に残っている子だった。食事の後お父さんにその話をしたら、大学で美術を専攻して、今は油絵の修行中とか。そういえば、店内に彼女の油の作品がたくさん飾られている。「日本蕎麦に油絵」だが、親の心が表れている。帰ってから栗畑へ。かなり汗をかいた。10キロくらい収穫。
 5時ごろ、守屋さんが今朝釣ったというカツオをさばいて(刺身)、わざわざ持ってきてくれた。感謝。リタイア1年目、生き生きとした表情。若返っている。
 タウンニュースに「ソバを蒔いている」記事が出た。一ヵ月後、この人たちを案内して『大山道・寺山の里』を歩く。その準備をしなければいけないことに気付く。

9月1日 の寺山物語
【No.151】 2003年09月02日

 昨日は9月1日、例年どおり栗畑に行った。この夏の気候、そして今年になって7本も枯れてしまったので、あまり期待はしていなかった。だが、軽トラで出かけた。私の“いでたち”と言えば、麦わら帽子、手甲、カーキ色の作業ズボン、そして首にはタオルと本格的である。
 植物とは律儀なもので、やはりもう実は落ちていた。だが小粒で数量も少ない。ところが、かがんで栗拾いをしている私に、上のほうからの視線があるのに気づいた。栗畑は道から数メートル下にある。見上げると、Tさんの奥さんが道端にしゃがみこみ、畑を覗き込んでいる。ときどき咳きばらいもしている。Tさん宅は栗畑を見下ろす位置にあって、畑の様子が良く見える。しばらくして、奥さんは家に戻り、私に聞こえるように、ご主人に大声で話しかけた。「あれは勝美ちゃんじゃないよ」「そうけえー」とご主人。どうやら、私は“栗盗人”と疑われているようだった。いまさら「勝美ちゃんですよー」とどなるわけにもいかない。今度はご夫婦で畑の私を見ている。お二人に“勝美ちゃん”だと知ってもらうには、と考え末、畑じゅうに落ちている栗の枯れ枝を拾い、一カ所に集める作業をすることにした。(これはまったく予定外の仕事。)そんな私の行動を見て、お二人は安心して家に戻っていかれた。
 市道で、通学路で、バス通りのすぐ下にある栗畑。ここには、この季節になると鹿や猿が姿を見せる。そして時に、この畑にまったく関係のない人も現れる。
 きょう2日、畑に行った帰りに“見張り”をして下さったお二人の家に寄った。そして「昨日は私だったから」とお礼を言った。「軽トラがあったから、はじめは勝美ちゃんじゃないと思ってよー」「でも、だまって拾っていく人はあんなに長く畑にいないから、勝美ちゃんだとわかって、安心したよ」  私の作戦は成功したのだった。

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