- 寺 山 だ よ り -

絵本のプレゼント
【No.50】 2002年12月28日

1月に「さをり織展」でご厄介になる『遊の丘』に挨拶に行った。
オーナーの小西さんが25日の朝日の記事の切り抜き保存してくださっていた。
ひとしきりその話。11時にライフプラザ鶴巻に。ご挨拶を兼ねて、今日リハビリに来ているバアちゃんの様子を見に行く。入浴中だったので会わずに帰る。そのまま車を走らせ義兄が眠る小田原の瑞雲寺に。西北に富士、南西に小田原の海、そしてそれぞれの前面に足柄平野が広がっている。今日の冬の光で、景色は鈍色。偶然、義姉と娘さんに出会う。
帰ったら絵本の贈り物が届いていた。「ふぶきのあした」木村裕一作・あべ弘士絵。狼ガブと山羊メイとの命をかけてもいい友情の物語。ストイックな愛の物語、かもしれない。16景と18景が絵・文ともにいい。絵本は大人にこそ必要、と思う。

灯油がダメなら金は
【No.49】 2002年12月27日

今日になっても電話によるセールスがくる。いや今だから彼らは頑張るのだろうが…。我が家への売り込みは、リタイア組と分かっているらしく利殖の話とお墓の売り込みが多い。
墓地の紹介の電話には「寺山の武姓に電話をしても営業は成り立ちませんよ」と教えてやる。
今日の電話はいささか腹立たしかった。東京の商品取引の会社から「灯油が値上がりする。いラクで戦争がおこるし、この冬は寒さがきびしいから」ということで、灯油の先物取引を勧める。関心はないので、と断る。そんなに冷淡に電話を切ることはしない。その話が終わって一時間ほどたったら、同じ会社からまた電話によるセールス。今度は人が変わって『金』の先物取引の話。驚き、不愉快になった。どこから私の名前を手に入れたのか、その出所を教えなさいと言った。この会社は社内のコミュニケーションもできていない。商品に対する信念もない。「一時間ほど前オタクの社から灯油の先物を勧められた。断ったら今度は『金』ですか。甘く見られたものだ」と私。とたんに電話の声は不機嫌になり「ウチの誰ですか。名前を言ってくれ」私は「名前など覚えていない。とにかく戦略的におかしいと思いませんか。私を社内でたらい回しにしている。あなたの会社は信用できない」と言った。これで電話は切れた。

クリスマスの贈り物
【No.48】 2002年12月26日

12月25日
今日クリスマスの日、私に朝から大きなプレゼント。朝日新聞が「エコー」のことを記事にしてくれた。取材をうけたのは11月26日。「200号の単なる紹介記事にはしない」と言っていた田玉記者。8人から「読んだ」という連絡があった。うれしかった。最初はメールで7時半。「これは先生から私へのクリスマスプレゼントです」と喜んでくれたTさん。mailが5人、FAXが2人,電話が1人。伝達手段が変わった、こういう時代になった、と思った。
今日で庭の手入れは終わり。引き締まった景色になった。

朝日俳壇・歌壇 12月23日から
【No.47】 2002年12月25日

朝日俳壇・歌壇 12月23日

兜太   鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん 
展宏   鮟こうに重力つよくはたらける      吉野佳一
      鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん 
櫂    若き日の天突体操冬木立         堀木すすむ
      鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん     
汀子   焚火の輪抜けて駆け出すランドセル    山崎萱草

老いてなお詩境澄みゆく詩人のごといちょうの老樹黄の色深し  青山詩帆

茶のみ話
【No.46】 2002年12月23日

きょうは暖かい日、庭木の手入れが始まった。もう20年近くEさんとKさんにお願いしている。二人とも寺山の住人だから、8時にはもう仕事を始める。昼食は自宅に帰るのがいい。午後の仕事も1時前から取り掛かる。
10時と3時に10分ほど休憩をとる。そのとき私も一緒にお茶を飲む。茶飲み話だがいろいろなニュースや情報が飛び出す。我が家の荒れた畑に鹿が出ていること。T家の孫・中学生がピンポンが上手くて将来有望らしいこと。Yさんが自分の土地に3人の子どもの家を建ててやったけど、贈与税などで戸建ちを買うのと同じくらいかかったらしいとか。
きょうの“収穫”は「いちょうの雌雄を葉で見分ける方法」−知らなかった。そして銀杏(ぎんなん)にも雌雄があるということ。また、両手一杯の銀杏があっても、雄の実は数個に過ぎないということも学んだ。来年調べてみよう。
植木鋏の音を聞きながら年賀状を書き始めた。

本降りの一日
【No.45】 2002年12月22日

2月21日
おとといまでの予報では、きょうの天気は「晴れ」だったのに、ころころ変わる天候。きょうから植木屋さんが入ったのだが、本降りになり1時間ほどで引き上げていった。
横浜の叔母の見舞いに行く。「『勝美ちゃんには会いたい』といっている。会ってやってください」と和雄さんから連絡をもらっていた。
私が誰であるかは分かったようだが、口は開かなかった。端正な顔立ちは変わっていないが、すっかりやせてしまった。一瞬視線を合わせて横顔を見せるだけだった。眼鏡の奥にキラッと光るものが。84年間生きてきたということをそう簡単に消してはいけない。



二学期の終り 年末 
【No.44】 2002年12月20日

二学期はあと一日で終り。半日で帰る中学生たちの声が明るく、にぎやか。東中新聞を届けに来た三年生に、進路は決まったのかと聞くと「後は受験勉強するだけ」と屈託ない。
東中PTA広報を持ってみえたのは委員長のNさん。この季節なのにノースリーブ。こちらが身震いするようだ。今年の委員会で、来年度以降の委員のために「PTA広報編集マニュアル」を作ると言っていたが、その素案を見せてくれた。こういうやる気がノースリーブになってあらわれるのだ、と思った。
二学期末に届くPTA広報は、どれも企画や内容が充実している。これが三学期・来年度に続けばいいのだが、PTAの活動は12月で終りのように年間計画が作られているので、ここでの頑張りが次に結びつかない。残念。
例会に行った。元気のいい話はあまり聞けない。秦野でも名のとおった店が、また閉まったとのこと。いつまで続くのか分からないこの景気の低迷に、商店の人たちの「ひたすら耐えるだけ、だけど頑張りきれない」と悲痛な言葉を聞く。

木守柿
【No.43】 2002年12月19日

12月18日
昨日、柿の木の剪定をした。植木屋さんによれば「来年実をならせるなら縦に伸びた枝を残せ。だが、そうすると木の背丈は高くなる一方。今年はたくさんなったので、まだ10数個に残っていた。一番高いところの一個だけ残しで全部落とした。木守柿のつもり。真っ直ぐに伸びた枝の先についているので、鳥も止まりにくいのだろう。柿色という色があるらしいが、熟した赤がきれいだ。この色を柿色というのだろうか。その木守柿を今朝見たら、もうほとんど食べられていた。餌台に置いた熟柿には全く寄りつかないのに。剥いたミカンも置いたが、こちらも突っついた気配はない。

夜、煉瓦亭で古屋忠春先生の叙勲を祝う会に出席。参加者は教師、元教師だけ。懇談になってWさんとYさんのけっこう激しい議論の中に入る。学校が少しも変わらないのは「行政がしっかり指針を出さないからだ」とW校長さん。「校長先生の意識、認識、意欲が問題なのだ」と受けたのはYさん、こちらは教委の参事。私はYさんに組する。これに加わってきたのが大学の先生のKさん、「今の校長先生ではむりだよ。50代の教師が学級崩壊に出会うのが多いだろう。今の管理職はその年代だよ」   

朝日俳壇・歌壇から12月16日
【No.42】 2002年12月18日

朝日俳壇・歌壇

汀子   残照の尾を曳く森の底冷えに       塙 告冬
     風花の音のなき空仰ぎけり        山本素竹
     箒目を集めて小さき落ち葉焚き      妹尾藻外
兜太   冬籠外や白きのみ白きのみ        斉木直哉
     底冷えの夜毎の廊下老いを病む      池上 清
展宏   花八ツ手隣の犬のおとなしき       大窪教海
     冬うらら洗濯物をピンと張り       雲木 泉
櫂    山茶花のくしやくしやと咲きつづくかな  林 柊子
     南向く軒の家々吊るし柿         田中玲子
     日にひとつ月にひとつの木守柿      山下節子

宇宿允人
【No.41】 2002年12月17日

2月16日
チャンネルを変え続けていたら、ETV2002「“運命”の三日間」に出会った。宇宿允人という指揮者を始めて知った。この年齢になると交響曲は重すぎて…とN兄が言っていたが、確かにそのとおりで、年末に『第九』を聴くくらいしかない。もちろん“演歌熱唱家”ということもあるが…。
宇宿さんの年齢は68。孤高の指揮者と呼ばれているそうだが、風貌は年齢をはるかに超えていた。三日間のリハーサルの光景、鬼気迫る感。「音楽が私をそうさせてしまうのだ」と言った。「音楽とは人生の悲しみを謳ったもの。だから音楽は人の悲しみ苦しみを癒すことが出来る」と言う。圧倒的な指揮に惹きつけられた。一度聴きたい。ただ大きなワゴン車を運転しているのはチグハグな感じ。
10年くらい前、子どもの部屋で彼のCD見たような気がしたが、とくに気には留めなかった。そのとき関心をもてばよかったのに。
庭木の手入れ、きょうで終り。満足感と安堵。あとは体の痛みがでないことを祈るだけ。

心のこり
【No.40】 2002年12月15日

12月14日 赤穂浪士の討ち入りの日
園芸愛好会の納め会、伊炉里で。レースのカーテンで三つに仕切られた大広間にセットされている料理はどこも同じ。宴会の部屋は今夜は満杯だそうな。会費は5000円で飲み放題。料理は鍋と焼き鳥、刺身、かにのムニエル、焼きおにぎり。
年齢の高い会だからこれで十分。酒はかなりいける16名の参加で5時の開会。今年の菊に自信を持ち、早くも来年に向けての意気込みが感じ取れた。私もまた、来年に期するところがある。研修旅行は「高山祭りと白川郷」を計画することになった。7時半に閉会。そのあとコーヒーを飲みに。ちょっぴり教育論も。
そしていつものとおりAさんと居酒屋、小料理店、スナック2軒をハシゴ。ハシゴはAさんの趣味。私にとっては一年に一度のこと。だが「タウンニュース」のお陰で、マスターやママさんの記憶の中に私の顔はあった。それでいい気になって一店一曲のカラオケ。歌った歌は「岬めぐり」「かえり船」「よせばいいのに」「心のこり」。「わたし馬鹿ね お馬鹿さんよね」と自嘲気味に、いやけっこう本気で歌って、午前様になるぎりぎりに“ご帰還”。家に着いたとたん声がかすれた。どうして?なぜ? 6つも店を回れば当然。

コベントリーからのクリスマスカード
【No.39】 2002年12月14日

12月13日
今年もGRAHAM家からクリスマスカードが届いた。コベントリー特産の刺繍のクリスマスカード。いつものように玄関に飾る。もう17年も続いている。
書かれているメッセージでは、ERIC・オジサンの体調はあまりよくないらしい。心配だ。VERA・オバサンの文字は相変わらずの文字だから元気だろう。ご夫妻はもう80歳に近いかもしれない。コベントリーを訪ねた時、ニューカッスル、エデインバラ、グラスゴー、湖水地方と車で走ってくれた。B&Bへ泊まりながらの旅だった。港町・シーハウスのB&Bは開業の日、私たちがその宿の最初の客。その宿を取ってくれたグラハムちゃん。そんなことを思い出す。プレゼントのコベントリーの町のカレンダーを懐かしく眺めた。もう一度訪ねたい。

きょうはモズも
【No.38】 2002年12月12日

きょうもまた庭木の手入れ。きょうはきのうのジョウビタキに加えてモズまでが私の働きぶりを見ている。モズはだれか。
10数年前、矢バサミと剪定鋏を初めて使った日の夜は手が震え、文字が書けなかった。そして翌日から二の腕の筋肉痛。ところが今はそういうことは全くない。植木屋さんの筋肉がついたのだ。とかっこいいこと言っているが、疲れはたまっているに違いない。また歯茎が痛みだした。
小学校の校庭のフェンス際で木に登っているので、体育の授業はよく見える。持久走だったが太目の子がかなりいた。出張帰りの校長先生と言葉を交わす。ここでこんなことをしているのは先生方には迷惑かもしれない。「中退教だより」の校正がくる。

庭木の手入れ
【No.37】 2002年12月11日

暖かい一日、こんな日が来るのを待っていた。来週植木屋さんが来てくれるので、その前に私の受け持ちの庭木の手入れをしておかなければいけない。常緑樹の杉、檜、にっき、そして樫、他に梅など、あわせて16本を手入れするのだ。一日3本くらいのペースだから植木屋さんと一緒にはやれない。だいいちそんなことをしたら職人さんに失礼だ。
きょうはにっきの木と檜と樫。朝8時半から木に登った。にっきは4メートルくらいの高さがある。2時ごろから刈り込んだ葉の片付けを始めた。気が付くとジョウビタキが近くの枝に来ている。熊手で葉をかき集めているとき餌が出てくるのを待っているのだ。この間、畑にキャベツの苗を植えたときも来ていた。ジョウビタキはジイちゃんが好きな鳥だった。たぶん農作業や庭木の手入れの時に近くにきていたからだろう。お互いに気に入っていたのかもしれない。さて、私の場合は……そう、なんとなくジイちゃんが私の仕事振りを見に来ているように思える。明日も晴れていたら4、5本頑張るつもり。この作業はけっこう好きだ。

きょうの生活
【No.36】 2002年12月10日

5時40分起床、6時20分朝食。バアちゃんの食事が7時からはじまる。食事のあと薬の世話をして新聞を読ませる。このごろあまり熱心に読まなくなった。だが起こしておくことは健康上必要。1時間がんばらせて横にする。
9時15分が歯科の予約。治療は550円分。
10時に戻ってきてようやく自分の部屋に座る。東小・六年生の修学旅行新聞117枚が10月の終りに届いていた。読後感を書くことになっているのだが、それが終わる。
11時、ジャスコの屋上駐車場に到着。食料品の買出しの迎え。妻の週一回の定例外出日。9時20分に自宅から歩いて店に向かう。ところが毎火曜日は特売日、レジは込んでいるので時間どおりには現われない。屋上から景色を眺めている。『今月の一枚』の写真はここから撮ったもの。国立病院の紅葉がまだ明るく見える。
11時半に昼食。2時までバアちゃんをテレビの前に置く。「昼どきにっぽん列島」とみのもんたは一応観る気になっている。
3時に小学校に仕事をもっていく。117人が一人新聞をつくったことを精一杯称賛した。十分おわびもした。
鈴木伸男さんから著書「こうすればできるNIE」をいただく。現場の教師の新聞教育に関する出版は絶えて久しかった。力作、労作。うれしい。

12月8日の朝日俳壇・歌壇から 
【No.35】 2002年12月09日

朝日俳壇・歌壇 12月8日

昨夜から今朝にかけて雪がちらついた。そして今は氷雨。

櫂   寒泳の身を細うして海に入る     山崎 秀夫
    大阿蘇の枯れ野を走る風の馬     秦  由視
汀子  人もまた風に晒され冬耕す      浅利 恵子
    木枯しの空を洗ひし星の数      日置 正樹
    冬波に灯台の崖立上がる       田中 節夫
兜太  冬来る石にごつんと風当たる     河合 保雄
    雪が降る白き聖像窓越しに      田中 清一
展宏  白菜を真二つに切る深さかな     宮田 明
    ランドセル押し出す玄関北の風    木村 葉子

雨に濡れし荒縄重しこの峡に終わると決めて雪除けを組む    清野 弘也

きょうは何の日
【No.34】 2002年12月08日

寒い日、外に出で知った―大山は中腹まで雪。来年の新聞コンクールの審査会の案内が来た。二年前の審査会の前日は雪だった。茨城のIさんが大きく遅刻してきたのを思い出す。
年賀状の原版を作って印刷所に持っていった。年賀はがきは使うが、中身は近況報告。相変わらずのパフォーマンス。でもこれが私だからしょうがないだろう。
ところで、きょうは12月8日。この日が来るたびに20年も昔のことを思い出す。その年の12月8日、「きょうは何の日」と中一の教室で子どもたちに聞いた。私としては『太平洋戦争開戦の日』を意識させたかったからだ。もしかしたら『一つ目小僧の日』と答えてくれるかもしれないと期待した。ところが、どちらも出てこなかった。U子が自信なさそうに「12月8日はお釈迦さんの生まれた日だっけ。違うよね、お釈迦さんの生まれたのは4月8日。それじゃあ、お釈迦さんの亡くなった日かな」 彼女はお寺の子だった。結局、太平洋戦争開戦の話は出てこなかった。翌日、彼女は私のところに来て「12月8日は成道会(じょうどうえ)といって、お釈迦さんが悟りを開いた日だって」と教えてくれた。太平洋戦争開戦の日 成道会 一つ目小僧 どれも私には興味がある。

200号お祝いの会
【No.33】 2002年12月07日

190号が出た時、創刊まもないころからの読者から「200号になったら一緒にお祝いをしましょう」という話があった。そしてそれがホントのことになった。4、5日 私をいれて6人で伊豆高原に出かけた。私以外の5名はいずれも年齢50代半ばの職業人。午後1時という出発時間に駆けつけるのに苦労したようだ。
Iさんは現地に午後6時に着き、翌朝7時には宿を出た。こうした人たちに支えられて「エコー」は200号まで発行できた。「エコー」が私の生き方の原点なら、私はこの会に馳せ参じてくれた5人に代表されるような読者によって、私は生きてこられたのだ。
「復刊記念は駅前のUでやりましょう、時間は7時半から。ねえ、先生」とハッパをかけられ、お祝いとして万年筆をプレゼントされた。久しぶりに、お酒を飲みながら政治・経済、教育・文化の話をした。
伊豆に向かう道中は土砂降りの雨。翌朝、荘厳な日の出が部屋から眺められた。

園部泰宏さん
【No.32】 2002年12月04日

体調不良が続く。なのにパソコンに一日じゅうしがみついている。15日発行の「中退教だより」の編集を終えなければいけないからだ。インタビューと資料で人物紹介をする「元気な仲間」というコラムがある。これが難関。900字でまとめるのだが、なかなか元気な顔が見えてこない。この会報の仕事、一人で全部やってきたが全てのことで限界を感じ始めた。撤退を考えたい。
「エコー」の200号・増刊号、まだとどかない。この発送も気にかかっている。庭木の手入れもしたい−これは好きなのだ。だから早くやりたい。
新聞教育の先輩、園部泰宏さん急逝。たぶん2、3歳しか違わないだろう。ゴルフコンペから帰ってのことらしい。全国新聞大会や全国コンクールの審査なとでずっとご一緒させていただいた。いつも明るく元気な先生だった。無常を感じる。ご冥福をお祈りするのみ。

12月2日の朝日俳壇・歌壇から
【No.31】 2002年12月03日

朝日俳壇・歌壇 12月2日

展宏  蟷螂の戸口まで来て秋の果て     斎藤 亮
櫂   バスを待つ人それぞれの寒さかな   俵谷 孝助
汀子  母許の留守の落葉を掃き戻る     永森ケイ子
    木漏れ日の消ゆる早さも冬めける   木下万沙羅
兜太  彼方には都市あるはずの枯野かな   板坂 壽一     
    柿の笑み有りて我が故土しかと故土  荒井三七ニ

私語やまぬなかに叫びて授業することにも慣れて子らとへだたる   山地 千晶
羽博かず風の螺旋をめぐりつつ渡りゆくらし鴫のひと群       西田うめ子

ネット上の日記
【No.30】 2002年12月02日

ホームページに日記を書くということは、誰かに読んでもらいたいからだ。私の動機もそう。ところがしばらく書いているうちに錯覚し始める。「この日記を待っていてくれる人がいる」と。そんなことありえないのに。私のホームページへのアクセス数は平均すれば一日15程度。その15人のうち、この日記を期待して来てくれる人が果たして何人いようか。
ここ二日間、日記が書けなかった。風邪を引いた。しかもこの土日に、どうしても
参列しなければいけない葬儀が二つあった。いっぽうではホームページの更新も。そんな中での日記はノルマとさえ感じられた。「書きたいことがあったら」「書きたいときに書く」日記と思うのだが、そう単純に割り切れないのがネット上の日記の公開である。


来年の五月までは
【No.29】 2002年11月29日

朝9時半ごろ電話。A市の教育委員会の塩沢さんからだった。少し早いが、来年の五月にPTA広報の講習会の講師をお願いしたい、とのこと。確かに早いが、予算編成期だからなのだろう。「私でよければ、喜んで」と二つ返事、相変わらずの私。これで6年目になる。
今年の年賀状に「期日とは希望の言葉初暦」と書いた。毎日が日曜日の私にとって、こうして予定が入るということは、その日までは生きなければいけないというノルマ。これで来年の五月までは生きられると思ったら、もう一つやりたいことを思い出した。もう蒔き時を失った感がするが、絹さやえんどうのタネをJAに買いに行った。売り子のおじさんがタネ袋の裏を読んで「11月いっぱいは大丈夫だよ」と言う。「そう、きょうは29日、まだ一日ある」と馬鹿みたいな私。そして午後、慌てて蒔く。たぶん邪道だろうがマルチを使ってみる。発芽するかどうか。それを心配しながらここ10日間ばかりは生きられる。
明日は子育ての話をしなければいけない。準備を十分したいのだが、集中できない。明日より、今が大切なのに。

昨日の広報づくり講座
【No.28】 2002年11月28日

昨日、秦野市ボランティアコーディネーターの会に招かれて、広報づくりの話をした。このコーディネーターの会は1984年に設立され、活動をしているのだそうだ。しかし、ほんとに申し訳ないことだが、つい最近までこの会の活動はおろか、その存在さえ知らなかった。介護保険制度が出来たのだが、それに該当しないがいろいろな援助を必要とする人たちに、ボランティアの橋渡しをするのがこの会の活動なのだそうだ。もちろん、この会自身もボランティア活動をしている。
昨日の講座に出席されたのは地区の代表11名。年齢は40〜60代の女性ばかりだった。私の例にあるように、会の活動があまり知られていない、という焦燥感がこの会の中にあるようだ。その意味からも、広報の役割、必要さ、大切を理解してもらいたいと思った。「“目からうろこ”です」という感想や「右往左往、暗中模索の広報づくりをしてきたから、きょうの話はこれから役立つ」と、そのやる気の表明もあった。聞けば、前日の宿泊研修の続きに私の講座が入れられたのだそうな。約2時間の講座、精力的な皆さんだった。
「読んでもらう広報」から「読ませる広報」へ。そして「読みたくなる広報」へ。そんな発展があったらいいと思う。

朝日俳壇・歌壇から
【No.27】 2002年11月27日

朝日俳壇・歌壇 11月25日

兜太  陽関を出でしごとくに枯野人      稲垣 長
    小春日和我もひとつの風物詩      北林 誠
展宏  日がさつと差し大原の冬菜畑      水野 李村
    犬が去り一人の焚き火つまらなく    谷畑 遊渓
櫂   越前のかに王者たり雪の中       木内 禎子
    マヨネーズもケチャッブモ逆立ちて冬  笈川 夜白
    夕されば浅酌微吟萩の宿        高島 満雄
汀子  靴音の俄かに冬とおもふ朝       佐藤富士男
    枯蓮の尽きざる力残りをり       林 克己

 歳々に旅の荷物の軽くなりついは手ぶらで立たむ日も来む  高添美津雄

けんちん汁
【No.26】 2002年11月25日

11月24日(日)
「エコー」200号の最終号を出稿。今回は付録のバックナンバーまで含めB5判で16ページ。いいさか感慨もあるので付録に家族4人を登場させた。200号は総ページで40ページになった。この「エコー」の印刷をお願いしているK印刷は日曜日だが営業している。社長のSさんは「11、12月は無休です」と言う。「こうして店を開けておくと、不思議なことに“飛び込み”のお客さんがあるんです。年賀状の注文くらいですが…」 商売とはそういうものらしい。「開けておくだけ損をする」と日曜日にシャッターを降ろしている商店が多い中、Sさんの言葉は興味があった。
帰りにスーパーに寄る。日曜日の午後2時過ぎの食料品売り場は男性客が多い。たぶん私と同じ…。頼まれたごぼうとコンニャクを手に(籠を使わなければいけないのですよね)レジに入ったら、「エコー」の読者のMさんがレジ係り。彼女、笑いながら「けんちん汁の足りないものを買いに来させられたのですね。」そう、土曜日にリハビリに出たバアちゃんが風邪を引いて帰ってきたので、野菜たっぷりのけんちん汁を食べさせようと思ったから。93という高齢に何より怖いのは風邪。妹夫婦二組がバアちゃんのご機嫌伺いに来る。日を変えて、別々に来てくれたほうがいいのだが。

実朝祭り
【No.25】 2002年11月24日

東地区の自治会連合会の第15回「実朝祭り」が23日に開かれた。今年は駐車場係りで参加。時々雨に降られ寒い一日だった。
「実朝」という冠がつく祭りだが、内容はどこでも行われている「ふれあい祭り」と同じ。実朝公の墓前では法要も行われるのだが、お祭り広場とは全く無関係のような雰囲気。祭りに来ている人は周辺の人たちも多いようだ。それは「実朝」だから、文化的・歴史的な催し物も期待してのことと思う。実朝公ゆかりの地として、また地域の人たちがそのことを意識するためにも、この祭りの内容が他で行われるふれあい祭り的なものとは異なったものであって欲しいと思った。
実朝まんじゅうと落花生を買って帰って来た。
きょうは午後からテントなどの片付けに行かなくてはならない。

高校入学者の合否の決め方
【No.24】 2002年11月22日

昨日、学区の公立高校の6校が来年度の入学希望者の選抜基準の説明会を合同で開いたので参加した。秦野市文化会館に集まった保護者の数は1、000名に近かったろう。絶対評価という新しい評価が保護者に与えている不安が、顕著になった人数だと思った。
選抜の方法について、かなり細かい部分まで説明された。保護者が気になる「総合的な選抜」の資料については、まさに具体的だった。
「福祉・ボランティア活動に積極的に取り組む意欲を持つ者」を求めるA校は、例えば「車椅子擬似体験者はポイント1」。B校では「部活のキャプテンは25点、部員は5点」。C校では「生徒会本部経験者10点、生徒会の各種委員長経験者は5点」。印象としては、文化活動ヘの評価に比べ、運動部に属する生徒の活動は評価がしやすいようで、高配点になっているように思えた。
より公平に、あるいはより特徴的にという各校の思いがあるのだろう、数値に換算して複雑な選抜方式になっている。隣りに座っていたN中の進路担当の教師が「難しいですね、保護者に分かるかな」と心配していた。
県の配慮でこの説明会は全県で開かれているそうだ。正直に言えば「今この選抜方法を説明されても、親も子もどうしようもないだろうな」ということ。たぶん、会場の母親の多くは、あれもやらせればよかった、これもさせておけばよかった、と悔やみながら聴いていただろう。もちろん、こうして選抜方法が公開されたということは、中2以下の子どもたちにとってはよいことだろう。また、この合同説明会で各高校の特色が見えたこと、説明会すに対する意欲の差も現われたこともよかったことに挙げられるかもしれない。

今週の朝日俳壇・歌壇
【No.23】 2002年11月22日

11月18日

汀子  爆音のひびく蜻蛉の空なりし    大久保白村
兜太  骨太のものら混浴冬隣       足立 威宏
展宏  天高しパントマイムの指の先    横谷 光風
    石榴裂け猫よく眠る山の家     井上 鬼平
櫂   落葉焚きまだ火にならぬ煙立つ   西条 良史
    肩幅は夫の半分秋の影       工藤 須宜

妻からもパパと呼ばれて世の中の無数のパパの一粒になる   長尾 幹也

午後5時の香嵐渓
【No.22】 2002年11月21日

18・19日と秦野園芸愛好会のメンバーで「紅葉狩りとやきものの町の散歩」をした。紅葉狩りの奥三河の香嵐渓はまさにシーズン、18日には5万人が訪れたと名古屋のテレビが報じたそうだ。その中の13人が私たち。遅くても2時には着く予定だったが、町の入口の足助大橋1キロ前で4時をまわってしまった。山峡の日暮れは早い、しかも曇り空。もう我慢できず、バスを捨てて歩いた。人ごみをかき分け町営駐車場にたどり着いたのが4時10分。建物越しに見える飯盛山は全山紅葉・紅葉、しかも大樹だから、パッチワークのように大胆に色付けがされていた。「すごいね」という言葉しか交わせない景観だった。歩いてきてよかった、と思った。それにしても、この駐車場にあふれる人、人、人。バスツアーの客が迎えのバスを待っているのだが、迎えのバスが入ってくるのにまた渋滞が起こる。迷子ならぬ“迷大人”の呼び出しの放送は絶えることがなかった。そして、結局私たちも、6人7人に分かれてバスを捜す羽目になった「はぐれ大人」になってしまった。

11月16日の私の生活
【No.21】 2002年11月17日

寒い朝だが8時30分頃、いつものとおりバアちゃんをリハビリに送り出す。9時、恒田先生が新聞のレイアウト用紙を取りにくる。10時過ぎ、バアちゃんがリハビリでお世話になっているライフプラザ鶴巻の文化祭を見に行った。長期入所者の作品がたくさん展示されていた。何度か訪れているが、この施設のスタッフは、誰もが明るく大きな声で挨拶をしてくれる。11時過ぎからヨークマートで食料品の調達。昼食は藍屋。何を注文するかで長考、これはいつものこと。飽食からなのか、いや、単に優柔不断だけのこと。結局日替わり定食になる。ついでに生ビールを注文し、妻に叱られた。昨夜の鶴舞会で帰宅は11時半だった。その酔いがまだ残っているようで気分がすぐれなかったからだ。中ジョッキ一杯を飲んだら直った。食事の後、明日、菩提で開く「里山の集い」の会場の下見に行く。担当責任者なのだが、上村さんをはじめ委員会のメンバーが細かい準備をしていてくれる。せめて会場の様子くらい知らなければ、申し訳ない。林道は黄葉で明るかった。そこからラオックスに回り、電話の子機の電池の入れ替え、プリンターのインクカートリッジを買う。帰りにクリーニング屋さんに寄り、ワイシャツ4枚を出す。3時45分頃、バアちゃんのご帰還。けっこうハイ。ミニコンサートで『里の秋』を歌ったとか。夕方、谷津先生から電話で新聞のレイアウト用紙の注文。品切れなのでSEDAさんに注文。夜、O小のPTA広報の100号の特集の組み方について質問を受ける。今年初めて食べたミカンが甘かった。大変な時代になった。一個ずつラベルが貼られている、愛媛産だった。

郷土玩具を並べながら
【No.20】 2002年11月16日

応接室の床の張り替えが終わり、三日間の工事は終了。大工さんたちが帰った後からこちらの大作業が始まる。20歳くらいから一人旅に出るようになり、郷土玩具を買い始めた。私の性格だから、系統的でもなれば、限定的でもない。こけし、グイノミ、凧、土人形、独楽などが比較的多い。この応接室に納まらなければいけない数はおおよそ300。細かい物が多い、しかもほこりにまみれているので、棚に並べるのにもかなり時間がかかった。途中で「少し整理するか」と思ったが、結局は捨てきれない。こけし、土人形、紙人形など、まさに“人型”であるから燃やすことも捨てることも出来ない。それにほとんどのものが、求めた旅先を思い出せる。飛騨の松山観音の絵馬は、高山市内の呉服店のご主人が描いていた。目の前で描いてもらった。高山祭りを見に行った時のこと。芦さんと亀さんと利さんが一緒だった。『おしんこけし』で有名になった銀山温泉の伊豆護さんのこけし工房を訪ねたのは、尾花沢の宮沢中学校で新聞づくりの話をした折だった―もう30年も昔のこと。おかっぱ頭のつぶらなひとみのこけしが、能登屋旅館を思い出させる。もう廃業したが、伊勢原の『峠の茶屋』にも郷土玩具が飾られていた。そう、廃業直前に鶴巻中の忘年会をそこで開いた。鉄板焼きと笹子飯だった。これも10年くらい前だった。

あふちの実
【No.19】 2002年11月14日

シロアリ対策の第二期工事が始まったため、バアちゃんを三日間ショートステイに出した。「ウチがいい、どこにも行きたくない」と駄々をこねるのをやっと理解させ“泣きの涙”で行ってもらった。今ごろは沈み込んでいるか、と気にかかる。トイレ、台所、応接室の床の張り替え。トイレは6月に車椅子用に改修したばかりなのに、また床下から作り直し。無駄なおかねを費やした。特にどうということもないのだが、とにかく家に居なければならない。それでパソコンの前にいるのだ。そうしたら、また歯が痛み始めた。眼鏡を使い過ぎると、目から肩、そして歯に来る。それで庭に降り、まねぎの苗を植えた。今年は150本。こうして畑らしくすると、数匹の猫が入れ替わり立ち代わりトイレに使い始める。細いたまねぎの苗は彼らに蹴散らかされる。「猫は紐に繋いで置くべきだ!」 イヤ「繋いでおいてください、お願いします」
“猫番”をかねて、畑のわきに立つ栴檀の枝降ろしもした。4メートルくらいのところに登る。タコーチ山の黄葉が見えるようになった。いつもどおりクリクリ坊主にする。だが幹についている実を5房残した。これはわが庭の風物詩。
来年も栴檀の実は見られるか、猫番は出来るだろうか、とふと思う。

新聞の秦野は健在
【No.18】 2002年11月13日

神奈川県の学校新聞コンクールの結果が出た。秦野の大根中が「最優秀」で二年連続。東中が同じく二年連続の優秀賞。他に北中と鶴巻中も入賞した。これで秦野の最優秀は11年連続。東中、渋沢中、鶴巻中、大根中の四校で11回を飾った。「新聞教育の秦野」は健在。
菊の不出来を嘆いた日記を読んで、激励のmailを送ってくださったTさん。ギャラリーに“不肖の子”を載せました。見てください。

今週の「朝日俳壇・歌壇」から
【No.17】 2002年11月12日

11月10日の「朝日俳壇・歌壇」

櫂   濡縁に晩秋とゐるひとりかな     水澤 紘之
    塗り替へし東京タワー天高し     山田美奈子
汀子  芒野の風音倒れをりにけり      岩垣 子鹿
    拝観を許さぬ古刹紅葉濃し      高田 韮路
兜太  流木を燃やして風を集めけり     平尾 博志
    晴れつくす恋人岬赤とんぼ      本多 豊明
展宏  秋日向石壁に沿ふ暮しあり      清水 葉子


生来の施し好きの妻が吊るす柿は夕焼け空に曼荼羅   清野 弘也
秋色にそまる陸奥ゆきゆきて紅葉の山の一点となる   佐々木克子        

今年の菊は
【No.16】 2002年11月11日

9、10日と東公民館祭りに参加した。私が所属している秦野園芸愛好会は、3年前から『菊の福助づくり』を勉強し始め、この祭りに研究の成果を発表している。昨年の私の菊は、知りあいから「かわいい」と言ってもらった。他の豪華な厚物と比べれば、たしかに可憐ではあったが、菊は可憐ではダメ。“厚物”というように豪華でなければ。さて、今年は苗のしっかりしたものをもらったので、やる気十分だった。9月半ばまでは生育も上々。途中の研究会で久保寺さんに見てもらったら「まあいいでしょう」と及第点。だが、新人の二人の方がしっかりした苗だった。「負けてる」と思い、止め肥をたっぷりやった。ここからおかしくなった。葉が育たなくなり、生気がなくなった。花が遅い。開き始めた花弁はみな撚れている。ウチで見ているときはまだ何とか見れたので、3鉢持っていった。(これは欲目だった)たが、80鉢ほどの並べられた中で、全く“別格”だったのが私の菊。「持ってこなけりゃよかった」とほぞをかむ思い。私の菊は会場で一層いじけていた。今年は誰も私に声をかけなかった。「よく出すよね」と言いたいくらいだろうから。こうなったら、今から一年後を目指してリベンジ…。それにしても、苗は全員同じ、施肥の量?日当たりが悪い、いろいろ理由は挙げられるが、最大の原因は愛情不足。二兎も三兎も、いや五兎も追っているような生活に菊はその答えを見事に出してくれた。
会員の作品を「ギャラリー」にアップします。見てください。

母親委員会と神奈川新聞社で研修
【No.15】 2002年11月09日

きのう11月8日、市P連母親委員会に同行して神奈川新聞社を見学。新しいビルの神奈川新聞社を訪ねたのは初めて。案内を担当した記者が「武先生、私は西中で先生にお世話になりました」と名刺を差し出した。今度の見学では私はオブザーバーに過ぎないから、事前に私の名前が伝わっているはずはない。それなのに、私を見た瞬間こう言ってくれた。まわりのお母さんたちの驚き、私こそ大の驚き。教師冥利に尽きる。報道部と整理部で、実際にパソコンを動かして新聞の制作のようすを見せてもらった。見学している間、配信元のK通信社から絶え間なく記事の訂正がスピーカーで流れていた。こんなに注意深く紙面は作られているのに、誤報は生じる。「パソコンの画面上での校正から、プリントアウトして赤エンピツでの校正に回帰しようとしています」という記者の言葉が印象に残った。見学の後、50分ほど新聞づくりの講義を聴いた。「P連だより」を発行している委員だから、この講座がこの見学のメイン。講師はメディア部長。久しぶりに新聞づくりの話を聞いた。講座の資料『新聞作り丸秘テク』に「『ひと』は読まれる要素」という一項があった。私の講座で使える言葉として頂いた。講義の内容は私のものとちがっていないと思った。

昼食は海の見えるホテルでバイキング。今年の母親委員さんはケーキがお好きであることを知る。帰りに海老名サービスエリアでメロンパンを買おうとしたら売り切れ。それで次に届くのを待って行列ができている。サービスエリアでも行列をするんですね、女性は。

きょう立冬
【No.14】 2002年11月07日

鶲来る眼鏡の曇り取らなくちゃ   勝美

きょう立冬。きのう枝下ろしをした青桐のてっぺんに、ジョウビタキの雌が来ているのを見た。雄に比べ地味な色、鳴き声はもっと地味でチチ、チチ。一メートルも離れていない百日紅にひよどりがいて、例の如くやかましい。どちらも縄張り宣言をしているのだが、種が違えばお互い気にはならないらしい。不思議なこと。この光景は間違いなく冬の到来を告げている。それにしても、孔雀に代表されるように、動物の世界では男性が派手な装いをする。なぜ人間界は違うのか。
地方議員のMさんが訪ねてきた。緊急雇用対策の一環として学校に配置された教員の実績が顕著なら、12月の議会で市独自での予算措置を求めると言う。もし何かその資料があったら下さい、ということ。ぜひ現実のものにして欲しい。
きのう三人、きょうも二人。珍しい人たちばかりの訪問があった。人恋しい季節、私もうれしい。

女人高野
【No.13】 2002年11月06日

昨夜、テレビで歌謡コンサートを観た。数日前の朝日新聞のコラムに五木寛之が田川寿美ために作詞したと書いていたので、きっとここで歌うだろうと思って…。
「女人高野」という曲がそうだった。幸耕平という人の作曲。えくぼがトレードマークで純情可憐派だった彼女が、おいらんが締める帯みたいなものを左肩から流し、なんと右腕にタトゥーなどしている。これはレコード大賞ねらいだ。リリカルで聞かせる歌だった。でも笑顔で歌ったのがちょっとねえ。一緒に出ていた野口五郎が『星屑の街』を歌った。これは「望郷・遠野」の歌だとどこかで読んだことがあった。三橋美智也の歌、リズムも詞も好きだな。そういえば『雪の降る町を』は鶴岡市をイメージした歌だそうな。(市のホームページに書いてある)歌謡曲に歌われるような町は何かしら引きつけるものを持っているような気がする。森進一の『港町ブルース』に登場する港、函館、宮古、釜石、気仙沼、三崎、焼津、御前崎、高知、高松、八幡浜、別府、長崎、枕崎、鹿児島。行ってないのは焼津、八幡浜、枕崎。
昨夜のトリは金田たつえ。「道標」を歌った。まるでアリアのよう。歌と、彼女の顔と声と衣装とが見事なまでにミスマッチ。(こんなこと書いたらファンに叱られそうだ)だがそれが圧倒的だったので、印象的に聞くことができた。いい歌だった。こっちは紅白ねらい。風呂に入りながら「両手を回して 帰ろう揺れながら 涙の中を たった一人で」と歌った。

11月4日の『朝日俳壇・歌壇』
【No.12】 2002年11月05日

11月4日の『朝日俳壇・歌壇』

展宏  此の里を守りて吊るす柿簾     松崎不二男
    残る虫月夜は水の如く鳴く     米山 明博
櫂   流れゆくは一期終へたる鮭ならん  井坂 照美
汀子  避けてゐる日差し恋しき冬に入る  佐伯 尺甫
    松葉の香厨に届く松手入      大塚 郁子
兜太  SLの窓より高きあきあかね    横山ツヤ子     
    農学部のみに許さる夕焚火     藤井 健治

作業服の誇れる受賞すがしくて化学というも親しく思ほゆ  大沢 美保
鳥に似る帰路のわが影大空を知らずひたすら餌運ぶ鳥    長尾 幹也    

11月3日 水無川の一日
【No.11】 2002年11月04日

昨日は文化の日、秦野市の水無川の河川敷で行われた「私の個店」というイベントに妻が『手織りマフラーATSUKOの店』で参加した。(マフラーはこのホームページに載せてあるので見てください)
4年前に初めて出店、昨年は休み、今回で3回目。人出は多かった。右隣は衣類のリサイクルショップ。“フリマのベテラン”の若いお母さんたちが大勢立ち寄る。ついでにこちらも覗いて、手触りは楽しんで下さるのだが「0が一つ多い」おっしゃる。1枚3000円、数字だけ見れば“当然”。左はぬいぐるみの小物。こちらは小学生などに人気。我が店だけは閑古鳥が鳴いていた。おだやかな日差を浴びて、ぼんやり人通りを眺めての一日。エコーの読者・小林さん、見留さん、高橋さん、相原さんが探し回り来てくれた。親子新聞を作っている高橋さんの小学生姉妹が私を見つけてくれた。閉店間際、熟女が子ども―といっても既に40代の娘―を二人連れて現われ「2枚で4000円に」と私にもちかける。「先生には子ども二人がお世話になった。嫁もPTA広報委員で先生の話をよくする」。おうかがいをたてず独断でOKしてしまった。後で店主に言われた「あなたはいつも女性にいい顔をするのだから」。そう、私は外面がいいのです。これはジイちゃんゆずり。

古事記を読む会
【No.10】 2002年11月02日

3年前から通い始めた「古事記を読む会」、今日はがその日。月1だがけっこうその気で通っている。今日の出席率は高かった。9割は超えている。出席率が気になるのは訳があった。「金目川 ほんとは金日川」という話を今日することになっていたからだ。講師の橋爪真理子先生−すごい先生だと心底思う−から頼まれたのだった。持って生まれた性格“自己顕示欲”の塊の私だから、断るはずはない…。聴講生は40歳代のご夫妻から私より先輩まで40人ほど。だがいざそのときになってみるとドキドキである。薄っぺらな話を20分ほど話して終わった。すると以外や以外、質問の続出。三問答えて「もうお許しを」と席に戻ってしまった。教室内は笑いと拍手。この二つをどう評価したらいいのか。
そして本題、古事記を読むことが始まった。今日は仁徳天皇が山部大楯連を死刑に処したというところ。橋爪先生の話は弾んで、広がって、巴御前の勇猛ぶりの紹介−なんと先生の活劇までついて!。だからこの講座は魅力的なのです。平仮名の「ん」という字の元字もきょうの講座で学んだ。こういう先生こそ本当の先生だと思う。
授業が終わって帰りかけた私にまたいくつか質問。「金目観音って何の観音さまですか」「調べてないんです」と私。「先生のお話 またお聞きしたいです」。なんと恐ろしい。

霜降月 雪待月 11月
【No.9】 2002年11月01日

霜降月 雪待月の11月に入った。寒い一日。ライフプラザにショートステイの相談に行った。面談が必要だから予約しなければいけなかったのだそうな。知らなかった。電話すればよかった。毎週デイケアでお世話になっているから、と何も心配していなかった。予約は三か月前からだそうで、こちらの希望日など今から取れるはずはない。それにしても「きょうから二月の受け付けをしています」とは。改築の目鼻がたたない。その間にシロアリに食い倒されるかもしれない我が家。困った。
午後から歯の治療。勇気を出して上がる診療台の前に掲げてある標語。「歯がつくる 心の元気 体の元気」 真実そう感じる、心からそう思う、そう、ホントに納得デス。
東中の広報委員が学校新聞を持ってきてくれた。教室で会ったときと全然違う雰囲気の三人。教室で新聞を作っているときのほうが生き生きしていた。少なくともこの三人の制服姿は教室の中のほうが映える。


10月の終りに
【No.8】 2002年10月31日

10月の終りに
石井さんのはがきエッセイ『であい』は10月号で190号、まもなく追いつかれる。このごろ贅肉が取れた文になった。
昨年6月からスタートした家族新聞、水野さんちの『らんどせる』が18号、大塚家の『O sole mio』は17号、どちらも充実した家庭生活が営まれている様子がうかがえる。三人とも書くことを楽しんでいる。本を読むのが好きな彼女たち。
「いい年になってからジョギングなんかを始めるよりは、いい年になったらちゃんと本を読み、若いときにジョギングをしたほうがずっといい」−コラム欄にあった詩人の長田弘さんの言葉。
10月27日から11月9日まで読書週間。私には「本を読んでいない、と思うだけの週間」。本の匂いをかすかに「図書」と「本の窓」から嗅いでいるだけ。だから、そのことをしきりに反省する週間。「反省だけなら猿でも出来る」

60歳からの生き方
【No.7】 2002年10月30日

新聞の仲間の菅原澄子さんから、ご主人・尚先生の著書『パリ10年』をいただいた。御書にはこんなあいさつ文がつけられていた。

1991.5.30 成田発12:05 JAL405
晴れた初夏の日差は強い。「元気でね」「元気で頑張ってきてね」 見送りの人たちの振っていた手が視界から断たれた。
ああ、これで過去の一切から そしてまた肉親のしがらみとも訣別して
六十男が一人でこれから開かれるであろう未知の人生に向かって出発するのだ。
六十路を越して何がどれだけできるか…。自分が選び 自分から決めたレールにもう乗ってしまった。    菅原 尚

小学校の校長を定年退職したその年、尚先生はパリに一人旅立った。パリで絵を描きたいと思っていた願いをかなえるために。そして昨年の夏帰国、この本は著された。書に納められた作品に、尚先生の生き方を見ることができた。

【No.6】 2002年10月29日

28日の『朝日俳壇・歌壇』
兜太   九十年生きて縮んで天高し     岸本真智子
      秋の詩を走らせ給ふ空の山     豊原 清明
展宏   容赦なき月日の中の破芭蕉     川村 敏夫
      孤独とはかくあるものよ秋の蜂   伊藤 啓泉
櫂    土曜が来てまた日曜日秋が行く   森住 霞人
汀子   山国の秋冷俄かなる旅路      井上 満子

修二   自分史の内なる荒野ひろがれり貫き得しは加齢のみにて  水野 恭平

昨日の選挙
【No.5】 2002年10月28日

年金のお世話になっているから、と思うのだが、やっぱりこのことだけは言いたい。
昨日行われた国政の補欠選挙。投票率は全選挙区で過去最低だそうな。きょうの記者会見で福田官房長官は、与党の勝利で小泉内閣の構造改革路線は国民に認めたられたという内容の発言。政治がもたらした今の絶望的な社会情勢の中、選挙に行く気力さえ失ってしまった国民、そのことを感じとれないのが今の政党、政治家。
今まで行われた各種の選挙で一度だけ棄権したことがあった。ある時、政党が信じられなくなった。期待できる候補者が見当たらなかった。だから投票に行かなかった。行けなかった。(今は次善を心がけているが…。)昨日の選挙は、あのときの私の心理状態と似ていると思う。官房長官の言葉をはじめ「好い天気だったので投票率が落ちた」「低い投票率がわがほうに有利に働いた」など、なんと能天気な発言よ。

【No.4】 2002年10月27日

昨日のこと
バアちゃんをリハビリの車が迎えに来たのが8:45。シロアリ駆除屋さん、大工さんなど5人が仕事を始めたのが9時半過ぎ。4時に戻ってくるバアちゃんに間に合わせなければいけない工事。大工さんは昼休みなし。シロアリ屋さんの昼食は午後2時だった。畳が入るのと同時にバアちゃんのご帰還。「シロアリもいなければ困るんですよ。こうして木材をかじって土を作ってくれるのだから」と元受けのSさんは言うのだが。それにしても、さらに被害個所が広がっているようで、応接室、台所、トイレも土台から変えなければいけないとは。築30年、今までに玄関、トイレ、浴室、ベランダ、応接室と直してきた。屋根も葺きなおしている。そして今回は和室2間。そう、トイレは三か月前に車椅子で使えるようにしたばかりだ。今は家のリフォームが流行らしいが、かけた費用を合計すれば…これじゃあ建て直した方がよかった。

秋想
【No.3】 2002年10月25日

ゴルフ場への取り付け道路の桜並木が、遠目にもに色づきはじめているのが分かる。きょうの空は澄み切ってはいなかったが、秋の深まりは日の輝きの中にあった。庭の柿をもごうとするとヒヨドリが騒ぐ。下腹ばかり膨らませた蟷螂が菊の鉢の下で動かない。少し赤みを帯びてきた千両の実をデジカメに納めた。満開のお茶の花にまだ蜂が集まっている。丸く刈り込まれた山茶花は、薄桃の花を見せるのに苦労しているようだ。「冬が来た 八ツ手の白い花も消え 公孫樹の木も箒になった−光太郎」八ツ手が黄白色の小玉の花を見せ始めた。やがて冬が来る。出かけた妻が、中学の同級生の病が重いらしいと聞いてきた。

修学旅行新聞がとどく
【No.2】 2002年10月24日

今朝、お隣りの小学校の小澤先生が訪ねてみえた。「遅くなりましたけど」と個人新聞『修学旅行版』を預けていかれた。6年生116人一人ひとりが書いた手書き新聞。5月の遠足新聞に続いての第2号。三学期にはもう一回出るらしい。新聞週間が終わる頃から秦野の中学校は学級新聞コンクールに向けて新聞づくりがピークを迎える。五日制になって「新聞教育は危機」なのだが“頼もしい限り”。H中P広報の読後感をNさんにmailで送る。
床屋に行った。「お出かけですか」と聞かれた。そういえば、父はどこかに出かける前は必ず調髪に行っていた。20分で終わり!寂しい…。

たいへんだ
【No.1】 2002年10月23日

「不定期更新日記」に換えて今日からこんなページを開きました。
 茶の間の畳の踏み具合が柔らかすぎるということで、シロアリ退治の人に調べてもらったら大変。台所、奥の間も畳を揚げてみると、数か所にかじられた跡。床板はもちろん畳まで換えなくてはいけないようだ。庭の花壇の縁取りに栗の木の丸太を使っているが、そこにもシロアリが巣くっているらしい。年金生活に入ってから家のあちこちの傷みが表面化するようになった。たいへんだ。

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