- 寺 山 だ よ り -

きのう きょう 春です
【No.91】 2003年03月14日

沖縄の本庄さんから手紙がきた。新聞の講評を書いて感想をもらったのは初めて。私のしていることは無駄ではないと思った。

市P連の広報コンクールが終わり、その結果を今朝の神奈川新聞で大きく紹介してもらった。その講評を今月中に書かなければいけない。22紙それぞれに500字程度だが、かなりハードな仕事。読んでもらえるのだからその気で書きたい。

歯医者さんで「ジャガイモを植えた」と聞かされて、少々あわてている。このごろ、家庭菜園が全盛で、皆さん種まきが早い。だから専業農家もそれに引っ張られているみたい。季節感がここでもなくなっている。
 
季節感といえば、チューリップが圧倒的に売れる季節。卒業式 先輩に贈るのがこの花。東中新聞の卒業記念号が届いた。三年生が最後に作った新聞。来年度の広報委員長に今年の委員長・大森さんが言葉を贈っている。「広報委員会 超大変だけど、委員の人と一緒に頑張ってね!!」

『掲示板』に「今日の授業で『秦野のおはなし』のページを見る」と書き込まれていた。うれしいこと。

朝日俳壇 歌壇 3月9日
【No.90】 2003年03月13日

長谷川櫂  山寺の懸樋あふるる春の水       前田二三彦
        梅の花旧道に沿ふ寺ふたつる     渡辺 春生   
稲畑汀子  春雷の一つが置いていく静寂      木下 和代
        海見ゆるまで上り来て探る梅      田原 憲治
金子兜太  鮟鱇鍋犬吠埼は旅なかば        佐藤 豊
        なのはなのなのはなばかりゆめさみし 青柳 悠                   川崎展宏  紙風船折り目でゆらり止まりけり    宮田 明
        春は名のみ飛行機雲の幾筋も     本多 秀久
        波音も風音も春厳島           田頭 俊博
        一滴に一滴の春雪解水         小島 宗男
     

パソコンの入れ替え
【No.89】 2003年03月12日

 プリンターがあまりよく作動しないので、最先端のものに買い換えた。それが2月のこと。そうしたらパソコンの能力がプリンターの動きに追いつかないでミスばかり。それでとうとうパソコンも取り替えるはめになった。

 今度のモニターの画面は液晶。立ち上げたときに現れる海の画像がきれい。ワードを使っての作業が終わり、その画面を閉じると、今まで画面の右下で遊んでいたイルカが鳴き声とともに消えるのだが、ちょうど海に消えるかたちになる。それが見たくて何度も同じことをしている。
 毎日中学生新聞に頼まれて「惜しくもコンクールに入賞できなかったPTA広報」を選び、励ます言葉を送る(書く)ことになった。その締め切りが14日。送られてきた全紙に目を通し、地域や印刷形式など考えながら10紙選んだ。それを読み、あと二日で1800字でまとめなければいけない。イルカと遊んでなどいられないのに。

3月6日 8日
【No.88】 2003年03月10日

6日 鶴巻中での授業。前回より生徒の反応はよかった。まとめの時間がなかった。「どれを教えないか・どれを省くか」は教える側にとってとても難しいこと。
昼食をK先生ととった。その折勤務時間の話を聞いた。4時から4時45分までが休憩時間で、そのあと15分仕事をして5時に勤務が終わるらしい。中学校の現状からするとなんとも不自然な話。

8日 毎日新聞本社の毎日ホールで新聞コンクールの表彰式。11時から入賞紙の展示の準備など手伝う。
 東中からは安田校長先生、千葉先生、そして森谷さんと今林さんが参列。来年の広報委員長の今林さんはかなり“洗脳”されたようだ。
 PTA広報で入賞した松田小の二人のお母さんと記念写真を撮る。松田町で広報講座を四年続けてきた。来年度も4月に行う予定。
 全新研の井上会長はこの三月で退職。30数年新聞教育にかかわってきただけに,今日は特別な感慨もあるだろう。私も30年近いお付き合いがあった。『エコー』も読んでもらっている。「武先生(井上先生の「武」の発音・アクセントは「竹」と同じ)」といつも声をかけてもらった。全国コンクールの審査会の帰りは、新百合丘までいつも一緒。今日もそうだった。今夜の井上先生の手にはカトレアの小さな花束があった。コンクールのあとの打ち上げで、少しアルコールを飲んだが、その席で誰かが先生にカトレアを贈った。このコンクールの運営の中心であった毎日こども環境・文化研究所の菊池所長さんが転勤とのこと。
 1月13日からスタートした私の“毎日通い”もこれで終わり。今年はPTA広報入賞紙の講評を書いた。沖縄から表彰式に参加された西原東中学校PTAの城間さんと本庄さんが、懇親会の最中私に会いきてくれた。そして、講評の内容を「自分たちの思っていることと同じだ」と喜んでくれた。二人とも元気なお父さんだった。

朝日俳壇 歌壇  3月3日
【No.87】 2003年03月05日

 
川崎展宏  さいかちの枝ぶりに降る春の雪    浅見 松生
        捨てられし小枝の梅のひかりかな   住友 温子   
長谷川櫂  豌豆の印をほどきて芽吹きけり      大向 稔
        海の色こぼしさよりの計らるる      草野 豊子
稲畑汀子  さざなみの太陽ゆれて春隣       村井田貞子
金子兜太  惑星のごとき夜の椿かな         浜田 順子

「エコー」202号まだ発行できません。お詫びします。あと2、3日待ってください。            

春一番が吹いた日
【No.86】 2003年03月04日

 きのう3月3日「春一番が関東地方で吹いた」と報じられた。昨年より12日早いとか。
「ハルイチバン・その春の一番最初に吹く烈南風」で特に海で働く漁師さんには恐れられている。安政6年(1859年)2月13日(旧暦)長崎・壱岐の漁師五十三人が強い突風で遭難してから、壱岐の漁師の間で春の初めの強い南風を『春一』とか『春一番』というようになったらしい。壱岐の郷ノ浦港には慰霊碑と『春一番の塔』が立っているとか。でも「春一番」という語感はいい。キャンディーズが歌ったりしてすっかり親しまれる言葉になっている。

 その「春一番の日」午前10時から入浴サービス。午前中、鶴巻中の授業の準備を少しした。午後、ロータリーの25周年記念誌の原稿に見出しをつけてSEDAに出稿。床屋さんの前を通ったら空いていたので入る。たぶん『春一番』効果? 宝連寺の東島さんに「葬頭河の婆」の写真を返しに行く。一回りして帰ったら、K医院から婆ちゃんのことで呼び出し、面談。1日の雨で、裏の畑の土が道路に大量に流れ出てしまったので片付けた。

フキノトウ
【No.85】 2003年03月02日

3月1日  土曜日  雨
庭の西南に月桂樹と柿の木がある。その木の下でフキノトウを探した。6つ見つかった。夕食に酢味噌合えで食べた。月並みな表現だが、若緑の色が春の到来を告げている、と思った。わずかな苦味がコップ酒の杯の数を増やす。30年くらい前までは、近くの田んぼのあぜや山でたくさんのフキ抜きができた。そのフキの姿が今ではほとんど見られない。ウチで蕗がフキノトウが食べられるのは、母と妻がていねいに根分けをして増やしてきたからからだ。
今日は「古事記を読む会」の最終回、これで3年が終わった。『允恭天皇』まできているので、来年度も参加することにした。皆さん、予習をしていることを知った。私はただ聴きに行っているだけ。全員のレポートの製本をした。(フキノトウ・ギャラリーで見てください。)

二月 最後の日に
【No.84】 2003年02月28日

 今年の学校新聞コンクールの結果が26日に毎日新聞紙上に発表された。
秦野から7紙が入賞。(詳しくは秦野の新聞教育のページを見てください。)
何よりうれしかったのはお隣の東小学校の6年のが学習新聞で入賞したことだ。
2時間、新聞づくりの授業をさせてもらったからだ。
発表されたその夜、松田小学校のS先生から電話が入った。松田小はこのコンクールでPTA広報が毎日新聞社賞を受けた。
 「新聞発表を見たら東中がうちのPTA広報といっしょに大きく載っていたので、武先生の声を聞きたくて電話しました。生徒のころ新聞でいろいろ教わったことを懐かしく思い出しました」(その日の県版に『東中新聞』と松田小PTAの『いわつばめ』が大きく紹介されていた。)
 S先生ももう50代だろう。だが声は昔のままだった。最初のワンフレーズで判った。

 昨日出かけている間に、東小の6年生が数名訪ねて来てくれたらしい。東中と北中のPTA広報が届いた。東中のPTA広報委員会は,今年度『印刷の手引き』を作り上げた。それも頂いた。母親委員のSさんが『市P連だより』を持ってきてくれた。

朝日俳壇 歌壇  2月24日
【No.83】 2003年02月28日

金子兜太  虎落笛特攻基地の乾きなほ        安部 忠夫    
川崎展宏  音の無き雨に濡れ来し冬帽子       渡辺真智子
        凍て星のうち揃ひたる六甲山       秋永 正
        龍骨を組む男らよ風光る         阿部 正志
        如月の雑木林の明るさよ         吉田 敦子
長谷川櫂  切り貼りの白のいろいろ春障子      伊佐 利子
        初花やなにも飾らぬ空の色        永山 敦彦
稲畑汀子  寒雨さへ慈雨と見蕾ふふみ来し      椋 誠一朗
        天と地を引き離しつつ雪晴るる      阿部 聡子
        うすうすと昴は寒き星なりし       高石 幸平
           

深きより耕されにし土塊の僥倖きさらぎの光も風も   西田うめ子
三原橋新橋京橋数寄屋橋川失いし街に雪降る      和田 静子

2月は逃げる
【No.82】 2003年02月24日

「2月は逃げる」と言うがそのとおりになってしまった。『エコー』202号を出稿、この号から題字のデザインが変わる。SEDAさんがデザインしてくれたのだが、
どんなものなのか私にもわからない。2月は28日までだから3月1日の発行は無理。
健康保険料、固定資産税の払込がずっと滞っているので督促状が来ている。「これも2月の風物詩」などと言ったら妻にひどく叱られた。それで銀行へ。受付札が519だった。「我が家の地番と同じなのでこの札ください」とカウンターの女性に言ったら、怪訝な顔をされた。
東小6−1の学習新聞の読後感を届けた。松田町教育委員会から次年度のPTA広報講座の話がきた。昼過ぎから氷雨になった。だが空は明るい。雪柳の細い枝に小さな若緑が行儀よく並んでいて、そこに水滴ができると花が咲いたように見える。百日紅の幹がわずかに緑色を帯びてきている。ミカンを食べに来た目白の黄緑色も雨に洗われて鮮やか。畑のチンゲンサイはすっかりほうけて、しっかりとした黄色い花をつけ始めた。まもなく二月も終わる。

バアちゃん 退院
【No.81】 2003年02月23日

退院して二日目の昨日、7時に起こしたが目が覚めない。食事を目の前にしても、食べることに全く関心がないようだ。昼食にパンが四分の一枚ほど。ベッドにばかりいるのは良くないので、車椅子でテレビを見るようにしたがすぐに居眠りが始まる。かすかに「寝かせてよ」と言う。そしてたちまち眠ってしまう。
そして今朝、目覚めの具合はほとんど昨日と同じ状態。食事の後に新聞を持っていって「新聞を読みますか」と聞いてみた。すると「読みます」と(ふてくされ気味のように思えた)はっきり言う。一面のパウエル国務長官の写真を見て「この人好き」。“好き”という表現力は気になるが、少し安心。(パウエルさんが好きとは物騒な話だ)

新聞の記事
【No.80】 2003年02月22日

『2月20日づけの新聞の記事から』
同じ事柄を伝える記事が次のように書かれていた。比べて読んでおもしろかった。

英語問題で正答を追加 県内公立高校入試(見出し)
県教育委員会は十九日、十八日に行われた県内公立高校入学試験の外国語(英語)の問題中、間2(ア)の正答について、「second」となっていたが、「shortest」も正答とすることを発表した。県教委内部で問題を見直していた際に指摘があったという。十九日午前中に各高校に対して通達し、徹底を図った。《K紙》

英語の問題正解が二つ 公立高入試(見出し)
 18日にあった県内公立高校入試の英語の試験問題に、正解が二つある設開があつたとことが分かり、県教委は19日、「両方とも正解にする」と発表した。英語の間2(ア)で、「2月」を表す表現を問う内容。かっこ内にsで始まる単語を補う穴埋め問題で、県教委は当初、「the second month」の「second」が正解と発表した。しかし試験終了後、県教委で問題を見直したところ、「the shortest month」の「shortest」も正解になることがわかったという。配点は1点。19日午前中に各高校に知らせたという。《A紙》

朝日俳壇 歌壇  2月17日
【No.79】 2003年02月18日

稲畑汀子  雪掻のまづ一本の径つくる        村上 孝次
        夜はことに梢とがりて寒の月       山下 接穂
        離れ住む子にまた電話吹雪の夜    広田 竹雨
        雪晴のなほ風荒ぶ日なりけり      真城 蘭郷    
金子兜太  雪嶺を背負ふ村人清々し         小林 寒烏   
川崎展宏  連結器の渡りゆく音寒昴          益子 聰
        小型機の翼きらめき春隣         吉野 佳一
長谷川櫂  わらんべも掌を裏がえす焚き火かな   野村石風子
        白梅や西山荘は昏れやすし        青木 勇
      

茎高に刈りたる学童蕎麦畑尺余の雪に黒く茎立つ    山浦 太郎
かくばかり型も姿勢も魂も失いし日本にただ富士を見る 津田 洋行

お汁粉
【No.78】 2003年02月17日

「今日は退院だから、厚子さんに、砂糖をうんと入れてお汁粉をつくってもらった。病院でお世話になった人たちに食べてもらおうと思ったから。ニイちゃんは『病院の先生や看護婦さんに何かをあげてはいけない』と言ってたけど、今日は退院だからお汁粉くらい食べてもらってもいいだろ。看護婦さんをみんな呼んで、食べるように言ったけど、誰も食べてくれない。あんなに作って、あまってもったいないから、杉野を呼んで、今、寺山に取りに行かせた。行っただろ」
今日、ベッドで息せききって話すバアちゃん。
予定では今日退院だったが、風邪で延びた。バアちゃんの意識の中にあるのは“退
院”だけのようだ。だから、意識の中のことがすべて現実になって言葉になる。

バレンタインデー
【No.77】 2003年02月15日

2月14日 暖かい日
東小学校の5・6年合同音楽会に出かけた。「私たちの学習のお手伝いをしてくださった方々に音楽会を通してお礼の気持ちを伝えたい」ということで私も招かれた。
全部で7クラス、クラス全員の器楽の合奏だった。「コンドルは飛んで行く」「クシコスの郵便馬車」「史上最大の作戦」「オリーブの首飾り」「踊る大捜査線メドレー」「トレイントレイン」「アルルの女・ファランドール」と、さまざまな楽器で楽しませてくれた。演奏前の緊張感、演奏中の真剣さ、そしてステージを降りてきたときの満ちたりた顔、それをどの子の表情からも感じとることができた。隣りの席の校長先生と教頭先生が「どのクラスでも中地区音楽会に出せるね」と喜び合っていらっしゃった。
会の終りに、急に感想を求められたので「今日はバレンタインデー、皆さんからとても甘いチョコレートみたいな音楽を頂きました」とお礼を述べた。先生方の指導のご苦労にもお礼の言葉を伝えた。『きらめきオルゴール』とステージに文字が踊っていたが、子どもたちが、そして先生たちがキラキラ輝いた音楽会だった。大げさな言い方だが「学校教育の可能性」を信じることができた。
うれしいバレンタインデーだった。

湯河原行
【No.76】 2003年02月12日

2月11日    小雨

8日から少し体調がすぐれず、ずっと床の中にいた。そしてどうやら湯河原行に間に合った。
何の世界でも言えることだが『まぐれ』はすぐに地が現われる。17文字で宇宙を表すならなおのこと。「まどかさんに会いたいから」などという邪心では俳句はできない。その邪心だけは全うしてまどかさんと写真におさまることができた。表彰状を頂いた。副賞は直筆サイン入りの黛まどか句集『京都の恋』、足湯入湯券、梅酒、そして良い写真も撮れた。いい一日だった。
 
 宿の傘たたみ足湯や春時雨   勝美

 当日のことは「マンスリーエッセイ」にも書きました。見てください。

2月7日 こんな日もあるのです
【No.75】 2003年02月08日

今日招かれていた小学校の音楽会はインフルエンザのため一週間延期、いま秦野の小学校は学級閉鎖がかなり行われているらしい。
午前中PTA広報の講評を書いた。予定よりだいぶ遅れてお6紙終わっただけ。11時から自治会の会則の原案を検討。12時半から例会。クラブ25周年の記念事業でにpianistの梯剛之さんのチャリティーコンサートを開く。そのチケットが今日から販売されるという。私のノルマは10枚。
3時から文化会館で「緊急児童生徒サポートチーム」の初会合。難しい事業だと思うか、できるだけ協力したい。論議が熱を帯び、終了が予定よりだいぶ遅れて5時。5時から始まっている懇親会の会場へ遅刻の電話。車を置きに帰ってバスに飛び乗る。元気な人たちが40人ほど参加。私もその中の一人であることはしあわせなこと。お開きのあとAさんと居酒屋のハシゴ。お葬式の話などして10時半に帰宅。病院には行けなかった。

朝日俳壇 歌壇  2月3日
【No.74】 2003年02月05日

川崎展宏  牡丹雪こけしの最後口に点        服部 年男
      枯れてこそ揺れてこそプラタナスの実   坂本 祥子
      枝先に風枝先に冬桜           高石 幸平
長谷川櫂  プッチーニの生れし町の春の雪      広沢リリアン
      久女忌やまつはるものの多かりし     岡本 恵
      (花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 久女)
      風花のうまるるあたり愛宕山       森岡美智子
稲畑汀子  マフラーをはづせば失くしさうな荷よ   安田 悦子    
金子兜太  雪下す日矢盛んなる佐渡を見て      岩田  桂
      鮟鱇の流れ出すごとおかれたる      林  達男


西空の大カンバスにローランサンの色彩広ごる時間よ止まれ   淵野 里子

節分 豆まき
【No.73】 2003年02月03日

節分の豆を持って病院に行った。同室の三人にも少しずつ豆を差し入れした。
Aさんは食べずにテーブルの上に置いて言った。「夕方になったら『鬼は外』って撒きます」。Bさんは「これで退院できる。夕方孫が来るので一緒に食べる」。Cさんは「病院で豆まきができるなんて思ってもいなかった」と喜んでくれた。
バアちゃんは「これで私のからだの中の鬼は全部福になる」と言ってポリポリと噛む。実習中の看護学生さんと話した。一人は新潟、もう一人は北海道の出身。豆まきの経験、思いで思い出はなさそうだった。
私の豆まきの思い出は、大山阿夫利神社に豆まきにいったときのこと。たぶん戦後すぐだろうか、年男(女)だった声優の来宮良子が下山するとき私たちの前を歩いていた(みんなが言っていた)けど、私に誰だかわからなかった。ただ白いハイヒールが今でも目に焼き付いている。地元の宮永岳彦画伯が節分の日、ヘリコプターで大山に豆まきに来て、帰りに東中に校庭に降りた。何年も続いた。校長室でサインをもらったのを覚えている。その色紙はどこにいってしまったのだろうか。

睦月 花びら餅  如月 豆いた
【No.72】 2003年01月31日

甘納豆でウイスキー」じゃなくて「ウイスキーに甘納豆」で一人旅をしたのははるか昔。ウイスキーはビールに替わり、今は熱燗がいい。甘辛両刀使いで、まんじゅうも好き。鹿の子がとくに好きだ。新潟の岩船温泉の近くのお菓子屋さんに金つばを注文したこともあった。
M先生が新聞のレイアウト用紙を求めにきたが、そのとき『花びら餅』を持ってきてくれた。喜月堂という西地区のお菓子屋さんのもの。お茶席など全く縁のない私だから、そんなお茶受けの和菓子があることなど知らなかった。
半円形よりやや浅い弓形のこの和菓子。白い牛皮に桃色の「花びらもち」という文字が優雅に浮かび上がっている。中は味噌アンでなぜかゴボウが一本両端から突き出るように入っている。「きれいだけど、このゴボウは形も味もねえ」などといっていただいた。そうしたら、29日の新聞のコラムに『新年の喜びと寿ぎ 花びら餅』という見出しで花びら餅が登場した。コラムは「早いうちにお求めを。まもなく睦月も終わって如月です。」と結んであった。花びら餅は鮎の形をしているのだそうな。
今日は1月31日、我が家は夕方『お棚納め』を行う。
2月2日は初午、秦野は白笹稲荷でにぎわう。この参道で売られるのが名物「豆いた」。和光堂の「豆いた」がひいきの私。

ところで 「パソコン」も私も不調です。

朝日俳壇・歌壇  1月27日
【No.71】 2003年01月28日

朝日俳壇・歌壇

兜太  冬月夜なり雪の舞ふ月夜なり    柏倉ただを
櫂   風花はしづかな顔のうへに舞ふ   日原 正彦
    待春のこころに渡る歩道橋     山本 幸子
汀子  流氷の来しほかは街変わりなく   白幡 千種     

今週、これしか選べなかったのはなべてわたしの心の状態の問題。

このごろの子ども このごろの学校
【No.70】 2003年01月27日

自治会の新年会の中で40代のお父さん二人と話をした。二人が同じことを言った「子どもが外で遊ばない。外に追い出すのだけど、地域の子と遊ばない。家の中で、クラスの友だちと、遠いところから遊びにきた友達としか遊ばない。だからクラスが替わればもうその友だちとはサヨナラ。俺たちの頃は近所の上級生からいろいろ世話してもらったのにねえ。こうして自治会で大人が親睦を深めているのに子どもは登校班の時だけ近所の子と一緒。これでいいのかねえ」
中三の子の父親は「昨日私立の願書を出しに行ったみたい。担任の先生が、今年は判らないからみんな私立を受けるように勧めているみたいで…。私たちの頃はそうだったんですか。絶対評価になって不安が大きくなった。週に3回、夜10時過ぎに塾に迎えに行くのもたいへんですよ。学校が少しおかしくなってないですか」
教育の話、思いわ語りたい父親は大勢いるのだ。だけどその場が少ない。
「授業参観、今年は一度も行ってない。五日制になって参観日が平日になったから。自分が子どもの時、母親が学校に来てくれなくてけっこう寂しい思いをしたので、できるだけ顔を出そうと思っていても、行けないんです」と言ったTさんは、父親を小学生の時亡くしていた。



光と風
【No.69】 2003年01月24日

今朝のこの光と風はもう二月の風情。寒冷前線の通過で空は見事に澄み渡った。
朝からパソコンに向かっていたらバサっという音。ガラス戸にヒヨドリが激突したのだ。そんなにきれいに磨いてないガラスなのに。空の青さが映っていてそれに惑わされたのだろう。かわいそうに脳震盪を起こして墜落。久しぶりに生き物を手にした。温かい。生きているってこんなに温かいことなんだ。
コジュケイが胸をそらせ、尾をたてて小走りに庭を通っていった。2メートル先にジョウビタキ。
今日からコンクール入賞紙の講評を書き始めた。

東小六年生の来訪
【No.68】 2003年01月23日

1月22日  曇り・晴れ・曇り
はがきを出しに郵便局に向かったが、S歯科の前を通って今日が治療日だということに気が付いた。予約時間は過ぎていた。このごろ物忘れが多くなった。
帰りにコンビニで『エコー』を送る人の住所ラベルをコピーした。今日は高校の推薦入学の試験日だった。このお店の子も受験生。これから出かける受験生の子が店番をしている両親に挨拶をしにきた。スッキリした表情をしていた。「試験官の先生の目をしっかり見て答えること。私を合格させないとこの高校は損するよ、と思わせるようにしっかり話をしてきなさい」と励ました。両親の顔は不安げ。4時過ぎ、東小の六年生三人とS先生が訪ねてきた。音楽会の招待状と一人新聞をいただいた。音楽会に行こう。新聞、じっくり読ませてもらおう。

朝日俳壇・歌壇  1月20日から
【No.67】 2003年01月22日

朝日俳壇・歌壇
    
汀子   羨しとも十年日記買ひしか      桑田 永子     
     去年今年去るも迎ふもあるがまま   手塚 基子
兜太   日記果つ八七六〇時間沈殿す     安倍 忠夫 
展宏   深く礼して歳末の寺を出ず      石井 史子
     注連飾る十年この方この釘に     森光ゆたか 
櫂    春著着て鏡の中に入りたる      溝淵 和幸
     じつとして居らぬは眼白はた笹子   真城 蘭郷 

貴乃花の引退
【No.66】 2003年01月21日

今朝の大山は霧氷におおわれているみたいだ。(霧氷は見たことがない。)富士の雪は厳しく光っているが、大山の雪は“ほんのり”という感じ。その上を機影を白く輝かせて西に向かうジェット機。

号外が出て、夕刊は一面トップ・紙面の四分の三を使い、ニュースセブンが15分も取り上げ、民放は特別番組を組む。今朝は社説で、コラムで書かれている貴乃花の引退。「分からない」などと言えば、その“へそ曲がり”ぶりを叱られるだろう。いや軽蔑されるだろう。今の日本の唯一の希望の星だったのか。「不借身命」を貫いた(と言われる)人だからなのかなあ。《終り》がこんなふうに受け止められると、これから大変だろう。でもニッポン(日本人)って不思議な国だなあ。

昨日の午後、エコーの読者Tさんが訪ねてきた。湯河原に梅見に行った帰りだそうな。かつての同僚・女性四人の一泊小旅行とのこと。「飲んで語って共感したことは、50歳を超えた今、これから生きる目標がはっきりしていないことに気づき、焦っているということ」と笑った彼女。彼女は5年前から俳句を始めた。持ってきた同人誌に
 吹き寄りてやがて吹かれる落葉かな
 潮時という時のあり鳳仙花 
という作品を寄せていた。

 エコー201号出稿。

 四十雀、メジロ、ウグイス、珍しくコゲラも庭に来てくれた。見ていて飽きない。

PTA広報の支えで新聞活動の維持を
【No.65】 2003年01月20日

1月19日  (日)   曇りのち雨
コンクールの二次審査。PTA広報を読んで(眺めて)感じたこと。
見せる広報というのだろう、ふんだんに写真を使い、カラー写真のページも作って、きれいに仕上がった広報。その写真はほとんど学校紹介。学校紹介がいけない、とは言わないが、PTAの視点が感じられない。そして、この種の豪華な広報のスタイルが一つの市とか、ある県とかで、まとまって作られているということ。
たぶん、その地域で、何らかの理由(例えばコンクール)で優秀作品−新聞は作品ではない−と認められると、その広報を参考に、お金をかける勝負の広報づくりになっている。
いっぽう、手づくりで、まさに手書きで、あるいはパソコンを駆使して、しかし苦心惨憺して作っている広報も多くある。予算がない、ということもあるが、自分たちで創る喜びを見つけた、とむいう感じが受け取れる。これがPTA広報に必要な記事かと思うようなものもあったが。

学校新聞は、指導者が代わった瞬間、新聞も変わる、ということを目の当たりにして、考えさせられることが多かった。

PTA広報が健在であるということはいいこと。だが、学校・学級新聞の存在感が教師や子どもの中にれている薄れていることに危機感をもつ。PTA広報の支えで学校の新聞活動を維持するのも一つの方策かもしれない。

 

こんな一日
【No.64】 2003年01月17日

1月16日  (木)   快晴

6時半からバアちゃんの朝飯の支度が始まる。食事の終りは8時。Aさん、8時半のバスで『遊の丘』に出かけた。今日は9時から入浴サービスを受ける。「30分ほど留守番していて」と言って、10時過ぎに生活資金を下ろしに銀行へ。帰ってきたら電話。4月15日に「広報講座」をも持つことが決まる。11時半から二人で昼食。2時に三竹正義さんひょっこり訪ねてくる。「秦野らしい教育」について一時間ほど語って帰っていった。O小広報の100号記念号の内容について電話での相談。4時半になり台所に立つ。今夜は焼き飯と澄まし汁。
6時に食事を始める。食べながらテレビを見ていたら「自分らしいお葬式」の紹介があった。死んでなお自分らしさを主張する気はないと思った−今のところは…。それに、そんなことが考えられるのはまだ時間がある人たち。時間があるうちに考えておかなくてはいけないのか…よくわからない。
テレビで「寅さん」を見た。秋月という町のシーンが絵のようだった。岸本加世子がおもしろかった。若い小沢昭一も見た。渥美清の年齢が一番ぴったりあう“寅さん”。どの表情も晩年のものと違い、なんと穏やかなことか。

ダンゴ焼きの火を見つめながら
【No.63】 2003年01月15日

1月14日  (火)   快晴
ダンゴ焼き、2時半に火をつけた。周りには大人が4だけ。4時ごろになって子たちたちや若いお母さんたちが集まってくる。トータルで50人くらい?もう少し多かったか。ダンゴを焼くとさっと引き上げていく。「ありがとう」というような挨拶をしていく人は少ない。
燃え盛る火を見つめながら思った。何時の間にか道祖神祭りは大人が行うようになっていた。この子たちはダンゴ焼き・道祖神祭りの意味をしっているだろうかと。昨年のお札やだるま、新年を迎えた門松などが各家から集められ、昨日まで置かれていた道祖神の前。もしかしたら、子どもたちには燃えるゴミの集荷場所と同じにしか意識されていないのではないか。道祖神にお参りをする人はゼロ。
この庭の子たちは、道祖神のお札を配って歩くので少しは、この祭りを意識しているだろうが。これからもこの行事は続くだろうから、それなら「子どもの祭りとしての道祖神」の由来や言い伝えなど子どもちや若い人たちに伝えたい。
来年はどこかで話をさせてもらうと思った。
今年、我が家は枝飾りはできなかった。私が風邪を引き山にいけなかったから。ダンゴだけは作ったが、少しさみしかった。

広報の記事で論議をして欲しい
【No.62】 2003年01月15日

1月13日  (月)   快晴
9時15分に毎日ホールに着く。10時からPTA広報を読み始める。1000は超えているだろう。
学校新聞や学校だよりの代わりしているPTA広報が目立つ。今年ということで「学校五日制」「総合学習」などの特集が多い。
「絶対評価」を特集しているPTA広報についてこんな声が審査員の中から出た。
「実際おこなわれていることを批判するのだから、それならどうするのかという具体案を提起してほしい。」
絶対評価について子どもや親が何が提起できるかといえば、それは現実問題として「その評価の方法への不安とか不満」しかない。それを学校が受け止め、改革の努力を続けることで子どもたちや保護者に信頼されるように努力することだと思う。だから私は昨春から、広報講座で「五日制と絶対評価については全てのPTAで取り上げて欲しい」と言ってきた。新しい制度だからこそ、みんなで作り上げていこうとする心がなければいけないと思うからだ。そのために広報は役立たなければいけない。

「こゆるぎ」が文部科学大臣賞
【No.61】 2003年01月11日

朝日新聞社が行っている全国高等学校学校新聞コンクールで向上高校の『こゆるぎ』が文部科学大臣賞を得た。今朝の新聞発表で知った。これで二回目かな。この新聞は時々読ませてもらっているからうれしい。いつも社会派の特集を組んでいるが、その一つが『神戸のレポート』。あの大震災のあと、毎夏神戸に通ってその後の神戸をレポートし続けている。こういう姿勢こそ学校新聞の姿勢だと思う。
エコーの準備に入っているのだが、プリンターが全くだめ。時間ばかりかかる。ほこりが舞い散る部屋に篭りきりだからか、喉が痛くなった。ここで風邪をひいたらたいへんだ。

201号に向けて始動
【No.60】 2003年01月10日

O先生が『エコー』のために書いてくれた原稿を入力。「子どものいいところを書いてほしい」とお願いしてたもの。201号・再出発にふさわしい内容。
今日届いた年賀状の中から。
高校時代の友人Sさんが「遅ればせながら『エコー』の再出発に期待を表明申し上げます」と書いてきた。
「エコーを拝読するとき、先ず目にし、声にして読んだ3行の言葉。今年はこれと同じはがきに書いて事務所に張り出しました。今日も見ています」(Mさん)というのもあった。
私も、もう動き出さなければいけないのだ。といっても記事を書く気力は全然…。とりあえず、継続して読んでくれる人の住所録を作った。それをプリントアウトしようとしたら、プリンターが言うことを聞かない。たぶん室温の関係からだろう。今日はあきらめた。タワーの上に置いてある紙風船をついて遊んだ。

朝日俳壇・歌壇   1月6日
【No.59】 2003年01月10日

朝日俳壇・歌壇

展宏   日の当たる障子背中に坐りけり    田之けむし
     武蔵野線常磐線と継ぐ枯野      しもだたかし 
櫂    星一つ氷のごとく明け空に      山村 修
     武蔵野線常磐線と継ぐ枯野      しもだたかし     
汀子   銀杏散り黄色の滑り台のこる     岩垣小鹿
     わが山河埋めつくせり雪浄土     永森ケイ子
兜太   杣人ら風を語りて年忘れ       酒井大岳
     せきれいの孤独や午後の魚市場    堂の沢慶恒

幼子が友だちあまた連れて来るねずみ花火のような二時間  長尾幹也

叔母との別れ
【No.58】 2003年01月08日

暮に見舞った叔母が元旦の午後11時40分に他界した。84歳。告別式は7日だった。「私を送る言葉は勝美ちゃんにやってもらって」と生前から言い残しておいたそうだ。秦野にはとてもよく来てくれた。エピソードはいくつもある。遠出できなくなってから電話で話すこともたびたび。
印象に残っているのは次の言葉。
「小学生の頃、お正月は楽しかったけれど、お正月のが終わってからの薪山ことを思うと心から楽しめなかった。4日から山に連れて行かれ、重たい薪を背負い家まで運ぶのが苦しくて、辛くて。犬や猫をみると羨ましかった。猫に生まれればよかった、と何度も思った。でも今こうして幸せに暮らさせてもらっている。お嫁さんや孫がとても良くしてくれる。やっぱり人間に生まれてよかった、と思う」
遺族に代わって挨拶をした。叔母へ精一杯のお別れをした。「心静院美妙信女」いい名前をいただいた。

「武」という文字
【No.57】 2003年01月05日

今日の新聞のある投稿に「『武』という文字は『戈』を『止』めるという意味がある」という個所があった。武器である戈の使用を止めるのが「武」の意味。「武」は平和主義者。いや専守防衛論か。
でも手元の本では、「武」を作っている「戈+止」の「止」は「足を進めること」で、「武」の持っている意味は「戈を持った軍隊が進軍すること」と書いてある。「武」は軍国主義者?いや自衛のためには先制攻撃もするのが「武」。
武姓の「武」の源は「嶽」か「竹」らしい。よかった。

初詣 
【No.56】 2003年01月05日

1月4日
暖かい一日だった。三月並の気候とか。初詣はいつものように厚木の長谷寺へ。ここは妻・佐藤家の菩提寺。妻の父・佐藤武男が小鮎駐在所勤務だった頃、長谷寺の住職米山隆道師と意気投合し、境内に墓所をつくることを許してもらったのだそうな。寺族の祭られている一角に個人の墓所を持たせてもらっているとは、とてもありがたいこと。恐れ多いこと。だから我が家の初詣は元旦に村社・鹿島神社、武家の菩提寺、円通寺、そして長谷寺になる。
長谷寺は飯山観音とも呼ばれ、坂東33カ所巡礼の第6番札所になっている。今日も参詣の人が絶えなかった。
寺の近くの寿司屋で昼食をとった。「まず、生、持ってきて。中でいいや」衝立を隔てた隣りの席から男性のグループの話が聞こえてくる。弾む話題は東海道線各駅ごとの名物のこと。品川はのり、川崎は久壽餅,いやでっかいせんべい、藤沢がシラス、由比が桜海老、焼津のトロ、安倍川餅やとろろ麦飯など。名物案内的だが、かなり実食しているふう。声からすればいずれも20代。感心する。とにかく、その流れは止まらない。
妻が言う「ああゆう人がいると、食事もたのしくていいね」そう、こっちは注文した品がくるまで隣りの話をきいていただけだった。
まもなく隣りの席から店員さんを呼ぶ声。「〇〇工業だけど、ボトル入っていると思うの。持ってきて」出てきた店員が「少しさみしいから新しく一本入れたら」というと「そうだね、イイチコでいいや」
郁彦が言ったっけ。今のサラリーマンの飲み方は最初一杯は生ビール。それも大は頼まない。そしてすぐに焼酎に切り替え、水割りにする、と…。
今日は仕事始め。「午前中で仕事は終り。新年会か。でも車じゃないの。30万だよ」そんな余計な心配をしたのは、私が飲めなかったからだ。

Mさんの来訪
【No.55】 2003年01月03日

庭はうっすらと雪化粧。教え子のMさん、いつものように訪ねてきてくれる。
今年で6年目。彼女が今日4日に来てくれるのは訳がある。ご主人と子供さんが箱根駅伝の応援に出かけるので「その間は暇をもらう」のだそうな。子ばなれの難しさや今年から始めたホームヘルパーの仕事のことなどの話を聞かせてもらった。「仕事に就いて驚いたことは独り暮しのお年寄りが多いということでした。でも皆さんけっこう元気で生活していらっしゃいます。まだ半年なので十分な仕事はできません。私のほうがろいろと学ばせてもらっています。明日から仕事です。資格をとるための勉強は楽しかったです。しばらくぶりの勉強だったからでしょうか。また何か勉強したいです」そう言って元気に帰っていった。「さて、私は何を勉強しようか」と考えた日。今日は一日中雪がちらつき寒かった。

お年始
【No.54】 2003年01月02日

例年どおり今年も太巻き寿司を巻いた。9時から一時間かかった。一升だとかなりの量だが、楽しい初仕事。年に二回、お年始とお祭りは私の太巻き寿司が大鉢に輝く。我ながら上達したものだと思う。しっかりと巻けている。味も上々。これも例年どおりだが、11時に3家族9人で祝い膳を囲む。
バアちゃんはすっかり武家の主になりきっていて「今年もよろしくお願いします。カンパーイ」とビールを飲む。
女衆5人に寿司の腕前をほめられて、いい気になってビールを飲んでいた私。いい天気の一日。

年賀状
【No.53】 2003年01月01日

今朝いただいた年賀状から

まっさらな心を一年中
ひつじさんの毛みたいにあったかで、ふっくらした気持ちで365日過ごせたら…。元旦にりっぱな志!…でも三日もしたら、ハリネズミさんみたいだったりして…。ことしもお体大切にご活躍ください。「エコー」楽しみに待っています。   

「エコー」いつもありがとうございました。お返事は出せなかったものの、ポストに「エコー」が届いたときは、心にぽっと灯りがともったような思いでいたことはぜひお伝えしたいと思っていました。すぐ読みたくて外出先にもっていくこともありました。一年以上、心に余裕をなくす状況になり、日々を過ごすことで精一杯でした。そんな時でもエコーは楽しみでした。励まされた思いがしました。今は一番きついときは乗り越えましたが、根本的な状況の改善までは時間がかかりそうです。これからも「エコー」を待ちたいと思います。 

学校が知的学力に力を入れることは当然のことと思っています。しかし豊かな心の育成を疎かにせず、引き続き力を注いでほしいと願っています。

先生の昨年の年賀状に「期日とは希望の文字よ…」とありましたが、暢気なで無計画な私には『期日』とは恐怖の文字・となりそうです。今年もよろしくお願いいたします。

これで年神さんが迎えられる
【No.52】 2002年12月30日

8時半から始めて終わったのが3時半。我が家ではお正月のお飾りは30日に決まっている。大晦日の飾りつけは「一夜飾り」だから避ける。神棚が二か所、床の間、仏壇、台所や水場、物置、車庫、そして最後に私の部屋。23か所に飾りつけをした。掃除もしながらだからかなり動いた。万歩計の数字は5900だった。明日はお墓に飾りに行く。これで年神さんが迎えられる。

一年の終り
【No.51】 2002年12月30日

12月29日  晴れ
物置の片付けを朝からしていたら平塚のK先生がみえた。今年選択国語の表現という分野で一人新聞を作らせている。その新聞を見せにきてくれた。「一テーマ一新聞」だから、表現の手段として新聞を使うこと・作ること・はいいと思う。子どもが新聞からテーマを選んでくれたのなら、なおいいことだと思った。
午後、米とビールを買いに行く。帰ってから正月のお雑煮用の里芋を掘り、洗った。睡蓮の鉢を使って昔のままの「芋こじ」で洗う。その最中、高2のT君とM先生が購読料を持って来訪。T君は演劇に熱中。M先生は写真で今年も入選。
物置の奥に、もう10数年も使ってない鍋が二つしまってある。数十年の間我が家のみんなの命をつないでくれた鍋。薪で焚かなければ用を足せない大鍋だから、もう使われることはない。とにかく大きすぎる。だが整理することはできなかった。でも、ここで思い切ることにした。
4時過ぎT先生がみえた。「たぶん今年が最後だと思います。無農薬です」という言葉と共にたくさんのミカンをいただく。「ミカン一筋の父が倒れてしまって、実家のミカン栽培は今年で終わりになりそうです。父は悔しがっていますが…」
Y先生から「生徒に約束した漢字検定の準1級にパス。来年はまた生徒に宣言して点字に挑戦しようかな」とのたより。
5時近く妹夫婦がバアちゃんに年末の挨拶にきた。
年の暮、慌しさの内に人は何かを感じ、思い、決意し、今年を終えようとしている。

絵本のプレゼント
【No.50】 2002年12月28日

1月に「さをり織展」でご厄介になる『遊の丘』に挨拶に行った。
オーナーの小西さんが25日の朝日の記事の切り抜き保存してくださっていた。
ひとしきりその話。11時にライフプラザ鶴巻に。ご挨拶を兼ねて、今日リハビリに来ているバアちゃんの様子を見に行く。入浴中だったので会わずに帰る。そのまま車を走らせ義兄が眠る小田原の瑞雲寺に。西北に富士、南西に小田原の海、そしてそれぞれの前面に足柄平野が広がっている。今日の冬の光で、景色は鈍色。偶然、義姉と娘さんに出会う。
帰ったら絵本の贈り物が届いていた。「ふぶきのあした」木村裕一作・あべ弘士絵。狼ガブと山羊メイとの命をかけてもいい友情の物語。ストイックな愛の物語、かもしれない。16景と18景が絵・文ともにいい。絵本は大人にこそ必要、と思う。

灯油がダメなら金は
【No.49】 2002年12月27日

今日になっても電話によるセールスがくる。いや今だから彼らは頑張るのだろうが…。我が家への売り込みは、リタイア組と分かっているらしく利殖の話とお墓の売り込みが多い。
墓地の紹介の電話には「寺山の武姓に電話をしても営業は成り立ちませんよ」と教えてやる。
今日の電話はいささか腹立たしかった。東京の商品取引の会社から「灯油が値上がりする。いラクで戦争がおこるし、この冬は寒さがきびしいから」ということで、灯油の先物取引を勧める。関心はないので、と断る。そんなに冷淡に電話を切ることはしない。その話が終わって一時間ほどたったら、同じ会社からまた電話によるセールス。今度は人が変わって『金』の先物取引の話。驚き、不愉快になった。どこから私の名前を手に入れたのか、その出所を教えなさいと言った。この会社は社内のコミュニケーションもできていない。商品に対する信念もない。「一時間ほど前オタクの社から灯油の先物を勧められた。断ったら今度は『金』ですか。甘く見られたものだ」と私。とたんに電話の声は不機嫌になり「ウチの誰ですか。名前を言ってくれ」私は「名前など覚えていない。とにかく戦略的におかしいと思いませんか。私を社内でたらい回しにしている。あなたの会社は信用できない」と言った。これで電話は切れた。

クリスマスの贈り物
【No.48】 2002年12月26日

12月25日
今日クリスマスの日、私に朝から大きなプレゼント。朝日新聞が「エコー」のことを記事にしてくれた。取材をうけたのは11月26日。「200号の単なる紹介記事にはしない」と言っていた田玉記者。8人から「読んだ」という連絡があった。うれしかった。最初はメールで7時半。「これは先生から私へのクリスマスプレゼントです」と喜んでくれたTさん。mailが5人、FAXが2人,電話が1人。伝達手段が変わった、こういう時代になった、と思った。
今日で庭の手入れは終わり。引き締まった景色になった。

朝日俳壇・歌壇 12月23日から
【No.47】 2002年12月25日

朝日俳壇・歌壇 12月23日

兜太   鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん 
展宏   鮟こうに重力つよくはたらける      吉野佳一
      鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん 
櫂    若き日の天突体操冬木立         堀木すすむ
      鬼房の住みし塩竈冬桜          永野しん     
汀子   焚火の輪抜けて駆け出すランドセル    山崎萱草

老いてなお詩境澄みゆく詩人のごといちょうの老樹黄の色深し  青山詩帆

茶のみ話
【No.46】 2002年12月23日

きょうは暖かい日、庭木の手入れが始まった。もう20年近くEさんとKさんにお願いしている。二人とも寺山の住人だから、8時にはもう仕事を始める。昼食は自宅に帰るのがいい。午後の仕事も1時前から取り掛かる。
10時と3時に10分ほど休憩をとる。そのとき私も一緒にお茶を飲む。茶飲み話だがいろいろなニュースや情報が飛び出す。我が家の荒れた畑に鹿が出ていること。T家の孫・中学生がピンポンが上手くて将来有望らしいこと。Yさんが自分の土地に3人の子どもの家を建ててやったけど、贈与税などで戸建ちを買うのと同じくらいかかったらしいとか。
きょうの“収穫”は「いちょうの雌雄を葉で見分ける方法」−知らなかった。そして銀杏(ぎんなん)にも雌雄があるということ。また、両手一杯の銀杏があっても、雄の実は数個に過ぎないということも学んだ。来年調べてみよう。
植木鋏の音を聞きながら年賀状を書き始めた。

本降りの一日
【No.45】 2002年12月22日

2月21日
おとといまでの予報では、きょうの天気は「晴れ」だったのに、ころころ変わる天候。きょうから植木屋さんが入ったのだが、本降りになり1時間ほどで引き上げていった。
横浜の叔母の見舞いに行く。「『勝美ちゃんには会いたい』といっている。会ってやってください」と和雄さんから連絡をもらっていた。
私が誰であるかは分かったようだが、口は開かなかった。端正な顔立ちは変わっていないが、すっかりやせてしまった。一瞬視線を合わせて横顔を見せるだけだった。眼鏡の奥にキラッと光るものが。84年間生きてきたということをそう簡単に消してはいけない。



二学期の終り 年末 
【No.44】 2002年12月20日

二学期はあと一日で終り。半日で帰る中学生たちの声が明るく、にぎやか。東中新聞を届けに来た三年生に、進路は決まったのかと聞くと「後は受験勉強するだけ」と屈託ない。
東中PTA広報を持ってみえたのは委員長のNさん。この季節なのにノースリーブ。こちらが身震いするようだ。今年の委員会で、来年度以降の委員のために「PTA広報編集マニュアル」を作ると言っていたが、その素案を見せてくれた。こういうやる気がノースリーブになってあらわれるのだ、と思った。
二学期末に届くPTA広報は、どれも企画や内容が充実している。これが三学期・来年度に続けばいいのだが、PTAの活動は12月で終りのように年間計画が作られているので、ここでの頑張りが次に結びつかない。残念。
例会に行った。元気のいい話はあまり聞けない。秦野でも名のとおった店が、また閉まったとのこと。いつまで続くのか分からないこの景気の低迷に、商店の人たちの「ひたすら耐えるだけ、だけど頑張りきれない」と悲痛な言葉を聞く。

木守柿
【No.43】 2002年12月19日

12月18日
昨日、柿の木の剪定をした。植木屋さんによれば「来年実をならせるなら縦に伸びた枝を残せ。だが、そうすると木の背丈は高くなる一方。今年はたくさんなったので、まだ10数個に残っていた。一番高いところの一個だけ残しで全部落とした。木守柿のつもり。真っ直ぐに伸びた枝の先についているので、鳥も止まりにくいのだろう。柿色という色があるらしいが、熟した赤がきれいだ。この色を柿色というのだろうか。その木守柿を今朝見たら、もうほとんど食べられていた。餌台に置いた熟柿には全く寄りつかないのに。剥いたミカンも置いたが、こちらも突っついた気配はない。

夜、煉瓦亭で古屋忠春先生の叙勲を祝う会に出席。参加者は教師、元教師だけ。懇談になってWさんとYさんのけっこう激しい議論の中に入る。学校が少しも変わらないのは「行政がしっかり指針を出さないからだ」とW校長さん。「校長先生の意識、認識、意欲が問題なのだ」と受けたのはYさん、こちらは教委の参事。私はYさんに組する。これに加わってきたのが大学の先生のKさん、「今の校長先生ではむりだよ。50代の教師が学級崩壊に出会うのが多いだろう。今の管理職はその年代だよ」   

朝日俳壇・歌壇から12月16日
【No.42】 2002年12月18日

朝日俳壇・歌壇

汀子   残照の尾を曳く森の底冷えに       塙 告冬
     風花の音のなき空仰ぎけり        山本素竹
     箒目を集めて小さき落ち葉焚き      妹尾藻外
兜太   冬籠外や白きのみ白きのみ        斉木直哉
     底冷えの夜毎の廊下老いを病む      池上 清
展宏   花八ツ手隣の犬のおとなしき       大窪教海
     冬うらら洗濯物をピンと張り       雲木 泉
櫂    山茶花のくしやくしやと咲きつづくかな  林 柊子
     南向く軒の家々吊るし柿         田中玲子
     日にひとつ月にひとつの木守柿      山下節子

宇宿允人
【No.41】 2002年12月17日

2月16日
チャンネルを変え続けていたら、ETV2002「“運命”の三日間」に出会った。宇宿允人という指揮者を始めて知った。この年齢になると交響曲は重すぎて…とN兄が言っていたが、確かにそのとおりで、年末に『第九』を聴くくらいしかない。もちろん“演歌熱唱家”ということもあるが…。
宇宿さんの年齢は68。孤高の指揮者と呼ばれているそうだが、風貌は年齢をはるかに超えていた。三日間のリハーサルの光景、鬼気迫る感。「音楽が私をそうさせてしまうのだ」と言った。「音楽とは人生の悲しみを謳ったもの。だから音楽は人の悲しみ苦しみを癒すことが出来る」と言う。圧倒的な指揮に惹きつけられた。一度聴きたい。ただ大きなワゴン車を運転しているのはチグハグな感じ。
10年くらい前、子どもの部屋で彼のCD見たような気がしたが、とくに気には留めなかった。そのとき関心をもてばよかったのに。
庭木の手入れ、きょうで終り。満足感と安堵。あとは体の痛みがでないことを祈るだけ。

心のこり
【No.40】 2002年12月15日

12月14日 赤穂浪士の討ち入りの日
園芸愛好会の納め会、伊炉里で。レースのカーテンで三つに仕切られた大広間にセットされている料理はどこも同じ。宴会の部屋は今夜は満杯だそうな。会費は5000円で飲み放題。料理は鍋と焼き鳥、刺身、かにのムニエル、焼きおにぎり。
年齢の高い会だからこれで十分。酒はかなりいける16名の参加で5時の開会。今年の菊に自信を持ち、早くも来年に向けての意気込みが感じ取れた。私もまた、来年に期するところがある。研修旅行は「高山祭りと白川郷」を計画することになった。7時半に閉会。そのあとコーヒーを飲みに。ちょっぴり教育論も。
そしていつものとおりAさんと居酒屋、小料理店、スナック2軒をハシゴ。ハシゴはAさんの趣味。私にとっては一年に一度のこと。だが「タウンニュース」のお陰で、マスターやママさんの記憶の中に私の顔はあった。それでいい気になって一店一曲のカラオケ。歌った歌は「岬めぐり」「かえり船」「よせばいいのに」「心のこり」。「わたし馬鹿ね お馬鹿さんよね」と自嘲気味に、いやけっこう本気で歌って、午前様になるぎりぎりに“ご帰還”。家に着いたとたん声がかすれた。どうして?なぜ? 6つも店を回れば当然。

コベントリーからのクリスマスカード
【No.39】 2002年12月14日

12月13日
今年もGRAHAM家からクリスマスカードが届いた。コベントリー特産の刺繍のクリスマスカード。いつものように玄関に飾る。もう17年も続いている。
書かれているメッセージでは、ERIC・オジサンの体調はあまりよくないらしい。心配だ。VERA・オバサンの文字は相変わらずの文字だから元気だろう。ご夫妻はもう80歳に近いかもしれない。コベントリーを訪ねた時、ニューカッスル、エデインバラ、グラスゴー、湖水地方と車で走ってくれた。B&Bへ泊まりながらの旅だった。港町・シーハウスのB&Bは開業の日、私たちがその宿の最初の客。その宿を取ってくれたグラハムちゃん。そんなことを思い出す。プレゼントのコベントリーの町のカレンダーを懐かしく眺めた。もう一度訪ねたい。

きょうはモズも
【No.38】 2002年12月12日

きょうもまた庭木の手入れ。きょうはきのうのジョウビタキに加えてモズまでが私の働きぶりを見ている。モズはだれか。
10数年前、矢バサミと剪定鋏を初めて使った日の夜は手が震え、文字が書けなかった。そして翌日から二の腕の筋肉痛。ところが今はそういうことは全くない。植木屋さんの筋肉がついたのだ。とかっこいいこと言っているが、疲れはたまっているに違いない。また歯茎が痛みだした。
小学校の校庭のフェンス際で木に登っているので、体育の授業はよく見える。持久走だったが太目の子がかなりいた。出張帰りの校長先生と言葉を交わす。ここでこんなことをしているのは先生方には迷惑かもしれない。「中退教だより」の校正がくる。

庭木の手入れ
【No.37】 2002年12月11日

暖かい一日、こんな日が来るのを待っていた。来週植木屋さんが来てくれるので、その前に私の受け持ちの庭木の手入れをしておかなければいけない。常緑樹の杉、檜、にっき、そして樫、他に梅など、あわせて16本を手入れするのだ。一日3本くらいのペースだから植木屋さんと一緒にはやれない。だいいちそんなことをしたら職人さんに失礼だ。
きょうはにっきの木と檜と樫。朝8時半から木に登った。にっきは4メートルくらいの高さがある。2時ごろから刈り込んだ葉の片付けを始めた。気が付くとジョウビタキが近くの枝に来ている。熊手で葉をかき集めているとき餌が出てくるのを待っているのだ。この間、畑にキャベツの苗を植えたときも来ていた。ジョウビタキはジイちゃんが好きな鳥だった。たぶん農作業や庭木の手入れの時に近くにきていたからだろう。お互いに気に入っていたのかもしれない。さて、私の場合は……そう、なんとなくジイちゃんが私の仕事振りを見に来ているように思える。明日も晴れていたら4、5本頑張るつもり。この作業はけっこう好きだ。

きょうの生活
【No.36】 2002年12月10日

5時40分起床、6時20分朝食。バアちゃんの食事が7時からはじまる。食事のあと薬の世話をして新聞を読ませる。このごろあまり熱心に読まなくなった。だが起こしておくことは健康上必要。1時間がんばらせて横にする。
9時15分が歯科の予約。治療は550円分。
10時に戻ってきてようやく自分の部屋に座る。東小・六年生の修学旅行新聞117枚が10月の終りに届いていた。読後感を書くことになっているのだが、それが終わる。
11時、ジャスコの屋上駐車場に到着。食料品の買出しの迎え。妻の週一回の定例外出日。9時20分に自宅から歩いて店に向かう。ところが毎火曜日は特売日、レジは込んでいるので時間どおりには現われない。屋上から景色を眺めている。『今月の一枚』の写真はここから撮ったもの。国立病院の紅葉がまだ明るく見える。
11時半に昼食。2時までバアちゃんをテレビの前に置く。「昼どきにっぽん列島」とみのもんたは一応観る気になっている。
3時に小学校に仕事をもっていく。117人が一人新聞をつくったことを精一杯称賛した。十分おわびもした。
鈴木伸男さんから著書「こうすればできるNIE」をいただく。現場の教師の新聞教育に関する出版は絶えて久しかった。力作、労作。うれしい。

12月8日の朝日俳壇・歌壇から 
【No.35】 2002年12月09日

朝日俳壇・歌壇 12月8日

昨夜から今朝にかけて雪がちらついた。そして今は氷雨。

櫂   寒泳の身を細うして海に入る     山崎 秀夫
    大阿蘇の枯れ野を走る風の馬     秦  由視
汀子  人もまた風に晒され冬耕す      浅利 恵子
    木枯しの空を洗ひし星の数      日置 正樹
    冬波に灯台の崖立上がる       田中 節夫
兜太  冬来る石にごつんと風当たる     河合 保雄
    雪が降る白き聖像窓越しに      田中 清一
展宏  白菜を真二つに切る深さかな     宮田 明
    ランドセル押し出す玄関北の風    木村 葉子

雨に濡れし荒縄重しこの峡に終わると決めて雪除けを組む    清野 弘也

きょうは何の日
【No.34】 2002年12月08日

寒い日、外に出で知った―大山は中腹まで雪。来年の新聞コンクールの審査会の案内が来た。二年前の審査会の前日は雪だった。茨城のIさんが大きく遅刻してきたのを思い出す。
年賀状の原版を作って印刷所に持っていった。年賀はがきは使うが、中身は近況報告。相変わらずのパフォーマンス。でもこれが私だからしょうがないだろう。
ところで、きょうは12月8日。この日が来るたびに20年も昔のことを思い出す。その年の12月8日、「きょうは何の日」と中一の教室で子どもたちに聞いた。私としては『太平洋戦争開戦の日』を意識させたかったからだ。もしかしたら『一つ目小僧の日』と答えてくれるかもしれないと期待した。ところが、どちらも出てこなかった。U子が自信なさそうに「12月8日はお釈迦さんの生まれた日だっけ。違うよね、お釈迦さんの生まれたのは4月8日。それじゃあ、お釈迦さんの亡くなった日かな」 彼女はお寺の子だった。結局、太平洋戦争開戦の話は出てこなかった。翌日、彼女は私のところに来て「12月8日は成道会(じょうどうえ)といって、お釈迦さんが悟りを開いた日だって」と教えてくれた。太平洋戦争開戦の日 成道会 一つ目小僧 どれも私には興味がある。

200号お祝いの会
【No.33】 2002年12月07日

190号が出た時、創刊まもないころからの読者から「200号になったら一緒にお祝いをしましょう」という話があった。そしてそれがホントのことになった。4、5日 私をいれて6人で伊豆高原に出かけた。私以外の5名はいずれも年齢50代半ばの職業人。午後1時という出発時間に駆けつけるのに苦労したようだ。
Iさんは現地に午後6時に着き、翌朝7時には宿を出た。こうした人たちに支えられて「エコー」は200号まで発行できた。「エコー」が私の生き方の原点なら、私はこの会に馳せ参じてくれた5人に代表されるような読者によって、私は生きてこられたのだ。
「復刊記念は駅前のUでやりましょう、時間は7時半から。ねえ、先生」とハッパをかけられ、お祝いとして万年筆をプレゼントされた。久しぶりに、お酒を飲みながら政治・経済、教育・文化の話をした。
伊豆に向かう道中は土砂降りの雨。翌朝、荘厳な日の出が部屋から眺められた。

園部泰宏さん
【No.32】 2002年12月04日

体調不良が続く。なのにパソコンに一日じゅうしがみついている。15日発行の「中退教だより」の編集を終えなければいけないからだ。インタビューと資料で人物紹介をする「元気な仲間」というコラムがある。これが難関。900字でまとめるのだが、なかなか元気な顔が見えてこない。この会報の仕事、一人で全部やってきたが全てのことで限界を感じ始めた。撤退を考えたい。
「エコー」の200号・増刊号、まだとどかない。この発送も気にかかっている。庭木の手入れもしたい−これは好きなのだ。だから早くやりたい。
新聞教育の先輩、園部泰宏さん急逝。たぶん2、3歳しか違わないだろう。ゴルフコンペから帰ってのことらしい。全国新聞大会や全国コンクールの審査なとでずっとご一緒させていただいた。いつも明るく元気な先生だった。無常を感じる。ご冥福をお祈りするのみ。

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