- 寺 山 だ よ り -

春ですねえ
【No.230】 2004年03月09日

6日の表彰式の後の反省会での話。神奈川は11日が中学校の卒業式。「神奈川がうらやましい」と東京の先生達が言う。東京都は19日だそうだ。そうしたら茨城のO先生が「ウチは10日よ」と、明るい。そう、間もなく今年度が終わる。そして、出発。
 昨日“新聞づくり大好き”のWさんが挨拶に来て「先生、O高校に受かりました」と言う。「O高校には新聞部がない、少し残念」と彼女。「それじゃあ学級新聞つくったら」と勧めた。「考えてみる。でもバレー部に入るから」「それもいいね」と私。 
 「市P連だより」も昨日委員長、副委員長さんが持ってみえた。充実した内容。「母親委員会だより」も創刊された。広報づくりを楽しんでくれたようだ。うれしい。 
 きょうはT君―演劇に燃えていた高校生―から、高校の卒業式の様変わりぶりとW大学の文学部に合格したとの便りが届く。
 キャンディーズではないが「もうすぐ春ですねえ」。

表彰式の会場で
【No.229】 2004年03月07日

昨6日、毎日新聞社で行われた全国学校新聞コンクールの表彰式でのこと。
 来賓が祝辞を述べているとき、表彰校の一つである秦野大根中の石田崇男先生がそっと私のところに寄ってきて「今話しをしている大杉は中学校の同級生です」と言う。大杉とは文部省視学官の大杉昭英先生のこと。「エエ?同級生?」と私。「そう、こんなところで会えるなんて思いもしなかった」と石田さん。新聞づくりを指導している先生を応援・激励している先生、その二人が中学校の同級生。なんと幸せな二人だろうと思った。石田さんは新採用のとき私と一緒に学校新聞づくりを指導した。それ以来ずっと新聞教育にかかわってきた。今年の表彰式は石田さんにとって特別なものになったに違いない。
 表彰式のあとの懇親パーティーは大人も子どもも一緒。表彰された子ども達は主催者が準備した名刺をもって他校との交歓をしている。その子ども達の中に小学生の増子彩音さんもいた。菅原澄子さん、井上英昭さん、大内文一さんのそれぞれから、彩音さんが大澤和子先生のお孫さんだと紹介された。
大澤先生とは1971年以来のお付き合い。その年の毎日新聞の全国学校新聞コンクールで、秦野東中と大澤先生の指導する市川市の宮久保小学校が「特選」に選ばれ、両校の新聞委員長は札幌オリンピックの開会式に招待された。そして大澤先生と私も同行できた。彩音さんにそんな話をした。
 彩音さんの傍らにいた快活な青年?が「遅れて申し訳ありません。母がお世話になりました」と名刺を差し出す。「大澤明洋」とあった。和子先生のお子さんで小学校の先生で今は大学院で勉強中。明洋さんも学校にいたころは子ども達と新聞づくりに励んでいた。親・子・孫・三代にわたって新聞づくりをしている大澤家。その皆さんと知り合えたきのうだった。
 

宝くじみたいなものだから
【No.228】 2004年03月04日

 今年の神奈川の高校の入学選抜は二期制で行われた。一期は「自己推薦制」で面接だけ、いわゆる『入試』なる学力検査は行われないもの。 
 学力検査なしは好評だったらしい。大勢の生徒が受検した。ある中学校のあるクラスは36名中33名がこの一期に臨んだという。 
 担任が「宝くじみたいなものだから」と言ったとか。それでAさんの娘・Bさんも出願した。競争率が発表になって“宝くじ”みたいな状況は分かったのだが、時間が経つにつれて母子の心の中に変化が生じたという。 
 「宝くじみたいなものだから」という言葉はもう消えていて、願書を出してしまうと「担任が受けたら、と言ったのだから、もしかしたら受かるかもしれない」。やがて「受かったらいいなあ」、そして「受かりそう」から「きっと受かる」に変わり「絶対受かる」と確信に近くなった。そしてそして、面接が終わったたら「間違いなく合格」。
 だが結果は…。「先生の“宝くじみたいなものよ。受けてみたら”のひと言を良い方にばかり取っていました。でも受験生なら当然でしょう」とAさん。
 調査書と面接だけの選抜方法は今年が初めて。この方式に子ども教師も振り回されたようだ。Bさんは一期で落ちた志望校に二期の学力検査で合格した。よかった。
 それにしても「宝くじみたいなものだから」とは。

広報委員になって
【No.227】 2004年03月03日

 小学校の広報委員が今年度最後の発行号を持ってみえた。
 彼女たちの一年の反省の言葉。
 「昨年の今頃は不安で不安で…、主人にそのことばかり話していた」
 「子どもが『お母さんきょうは○○があるけど取材にくるの』と聞く。私の委員としての働きを認めてくれている。うれしい」
 「広報になったおかげで、先生方の別の面を見ることができた」 
 「『ゴメン、きついこと言うけど、ここはこうした方がいいよ』と一緒に作業をしてくださる先生がいらっしゃった」
 「出来上がったときは自画自賛。でも外部の人に誉めてもらうと、その喜びはもっと大きくなる」 
 「私が広報員であることなど知っている人は少ない。でも、読んでもらえればいいのだから」 
 「終わったと思うと少し名残惜しい気がする」
 どれも広報に携わった人たちの心からの言葉。

 『寺山ものがたり』を「カネマス書店」と「本のフアースト」に置いてもらっている。両書店とも売り切れということで、再度10冊ずつ置かせてもらった。うれしいが怖い。

母 退院
【No.226】 2004年03月01日

 今朝10時に母は退院した。症状が良くなったわけではない。以前と同じように家で生活をさせたいと思ったから。
 主治医、看護師、介護士さんなど10数人に励まされ、見送られて「ありがとうございました」と涙をこぼした母。「武さん、帰ったら何を食べるんだっけ」と介護士Aさんが笑いながら尋ねる。「鰻重!」と母も笑う。退院がきまってから「鰻重」を触れ回ったらしい。4階から玄関まで科長さんを含め三人が付いてきてくれた。「寒いから風邪を引かないように。またリハビリのときお会いしましょう」と言ってホホをこすってくれた看護師さんたち。病院のスタッフにとっても、患者の退院はうれしいことなのだ、とつくづく思った。それにしても、最後までほんとうによく面倒を見てくれたスタッフだった。 
 名古木の交差点から寺山に向かう道に入った。見慣れた景色に「ああ帰れたんだよう。夢みたいだよう」と感極まった声。昼食は即席ラーメン。これも入院中、ずっと食べたいと言っていたもの。夕食は希望どおりの「鰻重」。少し忙くなる生活の再開。
 寺山は午後、ひととき雪が舞った。「なごり雪」か。
 妻が少し関わっていた不登校気味のYさんが、無事卒業と大学合格の知らせを母親と一緒に告げに来た。明日は高校の卒業式。

3年連続佳作
【No.225】 2004年02月27日

 今朝の毎日新聞で全国学校新聞コンクールの結果が発表になった。今回は秦野から8紙が入賞。昨年、秦野で初めて小学校が入賞した。今年も北小が入った。うれしい。
 午後、東中3年生のWさんから電話がかかってきた。
 「先生、佳作でした。くやしい! 3年連続佳作! 今年はどうしても上に行きたかった」
 Wさんは学級新聞をつくるのが大好きで得意。1年のときからこのコンクールに応募してきて3回連続の佳作。
 「佳作といっても全国でベスト13以内だから。3年連続はすごいことだよ」「でも佳作から抜け出せなかった。なぜかなあ」
 学級新聞づくりは個人プレーではないのだが、クラスのメンバー・担任が変わっても、彼女のリードで学級新聞は3年間つくり続けられたのだ。そのことだけでも最優秀を得た新聞に匹敵すると思う。
 「ところで高校の方はどう?」
 「だいじょうぶだと思います。合格したらまた伺います」

3月号の「エコー」を受け取りに行く道すがら、鮮やかな黄色を輝かせている高木を見た。帰って調べてみたら「ギンヨウアカシア」というらしい。黄色のものは花ではなくてオシベだそうな。庭のヒヤシンスとサフランが咲き始めた。
 

だめだね おじさん
【No.224】 2004年02月26日

 朝の10時、有料駐車場の出口のゲートでの支払い。料金は100円。
5円玉を混ぜて支払い始めた。その5円を投入したらカランとお釣りの皿に行ってしまった。
「ヤバイ。」もう一枚の5円玉も素通り。かき集めた手持ちの硬貨は10円9枚と5円玉2枚しかない。
 後には若者の車が1台。あわてて財布を出した。その中は5000円札と万札だけ。5000円札を投入した。だがこれも受け付けない。後ろの車の運転席から「5000円は使えないよ。」 
 出られない。あわてて車をゲートから下げた。くだんの若者が「だめだね、おじさん。これ使いなよ」と100円玉を私に差し出す。その若者の好意を何の抵抗もなく私は受け取っていた。パニック状態だったので、お礼の言葉もまともに言えなかった。
 こんなところで「ありがとうございました」と書いてもしようがないが、やっぱりその好意に心からお礼を言いたいのです。
 「おじいさん」、じゃなく「おじさん」という言葉もうれしかった。

絶対評価と高校入試
【No.223】 2004年02月24日

 今朝の神奈川新聞の一面のトップ記事は「神奈川の公立高校の選抜」についてだった。
 今年の神奈川の公立高校の一期の入試は、自己推薦制を取入れた選抜試験。学力検査は行わず面接のみ。だからほとんどの高校は内申書といわれる調査書の学力(評点)の高点順に合格させるしかなかった。その合格者の発表を通して、中学校の教科担任が行う評価(通信簿の点)が、絶対評価のために、教師間、教科間、学校間で格差を生み出しているのではないかという問題点として浮かびあがってきた。
 記事によれば、ある教科で、A中学は60パーセント強の生徒に5を与えている。一方B校では7パーセントの生徒に5をつけた。
 いわゆる「甘い」点をつける教師・学校とそうでない学校が現実に存在している。その結果が先ごろの一期の選抜に大きな影響をあたえたのではないか、と新聞は書いた。
 県教育委員会は「全国共通の観点別評価の目標にそって評価をしているのだから学校間の格差はない」と言う。原則論で言うならそのとおりだ。多分二人に一人の割合で5を与えた教師の指導力は、その数値が示すとおりであろう。教師の良識、イヤ指導力を信じたい。 
 だが、塾で学んでいる子ども達は中学校間にある学力の格差のあること・できる学校とそうでない学校・を認めている。だから「あの学校の評価は甘くていい。ウチは辛い」と見当違いな教師批判や学校不信が出てくる。中学校の評定がきちっと行われ、高校側もその評定を元に厳格に選抜したとして、それでも今朝の記事が書かれたということは、今年の選抜制度に疑問があるということ。

熱海での同窓会
【No.222】 2004年02月23日

 昨22日、熱海で行われた同窓会に出席。52歳の教え子が26人集まった。私は12時で失礼したが、二次会のおしゃべりが午前二時まで続いたらしい。
「来し方」そして残りの「生」を強く意識するような年齢の彼ら。
 この会でもっとも印象に残ったのはTさんの1分間スピーチ「私はマイクを持ってしゃべるのは初めて。何を話していいのか分からない。ただ、私がここに来た、ここに居るということをみんなが分かってくれればいい。終わりです」。わき起こった拍手に私は危うく涙をこぼすところだった。幼・小・中と11年間同じ顔ぶれで生活してきた仲間という意識が拍手の中にあった。
 今朝6時過ぎ、露天風呂からの日の出に見入る。9時から熱海梅園を歩いた。みやげ物屋さんは開店の準備で忙しく、ツアーの団体もまだ到着していない時間帯。春のような青空の下、ゆったりとした気持ちで歩けた。梅は満開。梅園に続く熱海桜の並木は五分咲。来宮駅の裏側の大島桜は八分咲きだった。同行のI先生が「思いがけない花見ができた」と喜ぶ。
 帰りに秦野駅前の本屋で『寺山ものがたり』の売れ具合を観察。「売り切れ、注文中、ご予約ください」という紙が『寺山ものがたり』の新聞記事と共に張り出してあった。

4人で12冊も買ってもらって
【No.221】 2004年02月21日

 東婦人会の会報の編集会議に行った。編集委員は4人、年齢は60代が3人、編集長は40代ギリギリの人。 
 ある程度仕事は進んでいると思って赤鉛筆一本だけ持って行った。原稿はすでにそろっているが、レイアウトは白紙の状態。思惑が外れたので、それを口にしたら、前号発行のとき、レイアウトの段階で相談を受けたほうがいい、と私が言ったのだそうだ。そんなことはすっかり忘れていた。
 幅広い年齢層、長い歴史、地域性なども絡んで、編集長さんはいたく気をやむらしい。会員暦など尋ねながらレイアウトを進めた。1面の半分ほどレイアウトをしてしまったら「まだ会長さんや委員さんと相談をしなければ」と委員長さんは言う。
 漬物、お菓子、アイスクリームなどでお茶を飲む。その折「昨日御嶽神社の内海さんがお札を配りにこられた」と関野会長さんが言った。「三月になったら御嶽さんにお礼参りに行く」とも話す。奥多摩の御嶽神社を信仰する武州御嶽講が現存することを知った。
 「ウチのほうでもお日待ちはやってます」と40台のKさんが言う。生活共同体としての近所づきあいが今も行われているのだ。『寺山ものがたり』の続編のテーマがまた一つ見つかった。その『寺山ものがたり』、4人で12冊も買ってもらった。うれしい、ありがたい、もうしわけない。


 手持ち無沙汰
【No.220】 2004年02月19日

 毎日、外国から漢字ばかりのメールが20本余り入ってくる。アドレスを公開していれば「そのくらいは普通」と先日の新聞に書いてあった。だが、内容が分からないメールはやはり気持ちが悪い。こんな状態になったのは、3年前のあのウイルス騒ぎがの時から。だから今の状態でいると、また汚染されるかもしれない。そう思って、昨日メールアドレスを変えた。今朝のメールチェックが楽しみだった。アドレス変更のお知らせを届けた方から「了解」の返事が7通来ていた。あの文字化けの、本文のないメールは一つも来ていなかった。見事にガードできている。だけど、削除する楽しみがなくなて、少し手持ち無沙汰の朝。

 東京の吉成先生から『ふるさと中村』という本をいただいた。『寺山ものがたり』のはるか上空を行く内容の本。練馬区立中村小学校の開校50周年の記念事業としての出版である。こんなことができる学校、地域はすごい。

 『エコー』の印刷版213号、外回りを残して完成。

 すっかり春の気候、富士の姿が10時ごろになると霞がかかっているようになる。厳冬のころ凛とした姿はもう見せてくれない。こうして富士山は私の意識の中で薄れていく。

『春来たり』
【No.219】 2004年02月17日

 2月13日は「春一番の日」。それに合わせるように14日に春一番が吹いた。近くのスナック『花小路』(マスターは私と同じ名)の看板が吹き倒されていた。
 そして16日、わが家に“春一番”の再訪あった。読者のYさんが「新聞スクラップ」を持って訪れてくれた。昨年の5月、大根中学校で開いた「新聞スクラップセミナー」に参加したYさんが、中一の娘さんに勧めて作らせた「新聞スクラップ」。その「スクラップ」が新聞社主催の「新聞スクラップコンクールに」に入賞した。その報告に来てくれたのだ。上の娘さんは中三、とりあえず抑えはできたらしいが本格的な「合格の春」は来週以降とのこと。お土産に日本酒をいただいた。銘柄は「箱根山」といい、季節限定で「吟醸“春一番”しぼり」を先週から出荷されているらしい。いただいたビンのラベルは梅の一枝が描かれ『春来たり』とあった。
 きょう17日、PTA広報の講評の締め切り日。間に合った。確定申告の記入に妻は本町公民館へ。歯医者へ行ったら看護師さんがクシュクシュ。
 花粉症も来る。「ウコン」「ヨーグルト」そして「ニガリ」も飲んで―私に一番合う予防薬はビールだと信じているのだが―『春来たり』である。

きのう きょう
【No.218】 2004年02月12日

 きのう、知人のYさんが本の中の「湧水」を見たいと訪ねてきた。それで東田原八幡、寺山西ノ久保、そして小蓑毛横畑の湧き水を2時間ほどでまわった。横畑のM家はご夫婦が在宅だった。お茶と漬物をいただきながら、大山道の話など聞かせてもらった。M家は3坪ほどの自家製のワサビ田を持っている。Yさんは「ワサビの花の咲くころまた来ます。ワサビの植え替えも手伝いに来ます」と湧水での生活にすっかり魅せられたようだった。。別れ際、Mさんは「お刺身は自分で買ってください」と笑いながらワサビを抜いてくれた。手にしたワサビはごつごつとした、自然のままの姿をしていた。

 昨夜「教室の四季」のO先生が原稿を持ってきてくれた。クラスの子の個人新聞もいただいた。全員が3号まで発行している。ただただ感動、感激。
 
 きょう、相模原の病院の理事長のZさんが本を買いにきてくださった。運転手さんつきの車でこられた。本当に申し訳ない。ありがたいことだ。84歳で現役「興味のあることに出会ったらすぐに行動する」ということばに自分の日常を思う。間もなく「みなと未来地区」にも進出されるとか。

エコー教育広報相談室
【No.217】 2004年02月10日

 エコー教育広報相談室も少しずつ認知?されてきてうれしい。
 読者のTさんから「娘が迷い犬を連れてきた。ウチには一匹いるし、そのウチの犬は犬付き合いか悪く、連れてきた犬をまったく認知しない。先生が飼ってくだされば一番いいのですが…どなたか紹介して欲しいのですが」という相談の手紙をいただいた。年齢、いや犬齢10歳がネックだと思うが、どなたか引き取って下さる方いらっしゃいませんか。
 顔見知りの営業マンが訪ねて来た。「寺山ものがたり」を出したことを新聞で読んでくれたようだ。とても、しきりに、ホントに、驚いたように、感心した言葉を発してくれた彼。こんなに感心されると、日ごろの私はどのように見られていたのかと、少しばかり不安である。 

音楽会に招かれて
【No.216】 2004年02月09日

 東小学校の教育活動の地域協力者の一人として、きょう5、6年生の合同音楽会「ぼくらの虹色ステージ」に招かれた。招かれたのは米作り体験学習の指導者、英語講師、戦争体験の語り部、中学校の校長先生以下4名の先生、そして新聞づくりの私。
 7学級が器楽の合奏を発表するのがこの音楽会。演奏された曲は「TSUNAMI」「八木節」「アフリカン・シンフォニー」「海の見える街」「ロック.ソーラン節」「トルコ行進曲」「踊る大捜査隊メドレー」と、バラエティに富んでいた。12月から始めた練習だそうだが、すばらしい演奏の連続だった。
 感じたことのいくつかをメモしてきた。
 1、子ども達の持つ可能性を大きさ(クラスのだれもが楽器駆使している)。 2、教育の力を信じることができた(障害児もそれぞれのクラスの一員として演奏に加わっていた。教師が楽器の配慮をしていることが見えた)。 3、今の子ども達には私と違うリズム感があることを感じだ。 
 地域の二人の音楽家・ソプラノ歌手とマリンバ演奏者の特別出演もあり、保護者といっしょに音楽会を楽しませてもらった。
 
 

体調不良
【No.215】 2004年01月28日

 秦野市農協の組合長さんから手紙をいただいた。手紙といっしょに「日本農業新聞」の1月24日号が同封されていた。新聞を開いてみたら「『寺山ものがたり』郷土の歴史を後世に」という見出しで私が紹介されていた。農業新聞に紹介されたのはうれしい。私は寺山に生きていると思った。
 風邪、体調不良。2月1日に寺山自治会の文化講演会が開かれ、寺山の皆さんに私の話を聞いてもらえる。これも幸せなことだ。元気にならなければいけない。 

二つの寺山ものがたり
【No.214】 2004年01月25日

 この日記NO151「9月1日の寺山物語」に、わが家の栗畑を監視してくださるTさんご夫婦のことを書いた。そのご主人Tさんが急逝された。病気の発見が遅れのか入院されて二週間でこの世を去られた。きょう告別式だった。栗畑に行くたびにTさんのことを思い出すにちがいない。
 3時ごろ、寺山にお住まいのNさんから電話で「寺山ものがたり」の注文が入った。こちらに最近家を求められたようで、我が家が小学校の隣といってもわからなかった。それで届けに行った。本当にできたてホヤホヤのお住まいだった。庭先で本代いただいたのだが、「これおいしいお煎餅ですから」とお駄賃もいただいた。うれしかった。「寺山のことは何も分からないから」と本を買ってくださった若いお母さんの言葉がいっそううれしかった。私の思いを受け止めてくれた人がここにもいた。

子どもの人権と学校新聞
【No.213】 2004年01月23日

 お隣の少6のYさんが登校の途中わが家に寄った。2月に開かれる東小学校の音楽会の案内状を届けてくれたのだ。玄関で、憶えたきたこと、言わなければいけないことを一生懸命話すその様子がなんともほほえましかった。
 一月の後半、もう学校は卒業期を迎える準備に入っているのだ。そういえば今朝の新聞に、公立高校の前期の応募者の数が発表されていた。競争率2倍強。だれもが不安に駆られているだろう。
 午後、招請されていた秦野市の人権施策懇話会に出席。今回は「子どもの人権」がテーマ。「学校と子どもの人権」についての報告をした。「子どもの声、保護者の声、教師の声が学校に響き合うとき、学校での子どもの人権は保障される」「新聞をはじめとする子どもたちの自治活動の再興によってそれはできる。そのためには新聞づくりは必要不可欠」と説いた。結びは第一回の新聞週間(1948年)の標語「あなたは自由を守れ 新聞はあなたを守る」。
 「『いまどき新聞?』という声もあるが、あえて新聞について話してもらった。新聞と人権は切り離すことはできない。秦野は自由民権運動の先駆的な地だから」は座長の小林先生の言葉。 
 子どもの人権の話し合いに学校新聞を持ち出すことができる秦野の風土を大切にしたい。

1月21日 きょう「大寒」
【No.212】 2004年01月21日

 きょうは大寒、それに合わせるように午後になって急に冷えてきた。
 Aさんとある約束をした。その約束にしたがってBさんに事を進めてもらうようにお願いした。それでBさんがAさんに、そのことを進めるむね連絡をしたら、その事の中身が違っていた。私はAさんと会って事を決めたのに。Aさん、Bさんは同業者だから、そこに駆け引きやメンツがからんだのだろう。口約束で十分済ませられる内容だと思った私が世間知らずだった。きょう、私が勉強したこと。

 菅原尚さんの油彩画集「セーヌの風」が送られてきた。定年退職したその年の春、単身渡仏。十年間パリに居を構え、フランスを中心にヨーロッパ各地で絵を描いてきた元校長先生。その画集には100ほどの作品が収められている。鑑賞眼などまったくない私が評するなんてとんでもないが、どの作品も明るくていねいなタッチだと思う。念願かなって、それこそ意気軒昂、絵を描くためにだけで出立した純粋な心が画風になっているのだと思った。

 『寺山ものがたり』でJAの広報が取材に来た。有線放送でインタビューの内容が流れるらしい。ところがわが家は、昨年有線は取り外してしまった。今月末に出る広報『JAはだの』にも載せてもらえる。少しでも関心を持ってくれる人が出たらうれしい。

 ニュージーランドに留学中のお隣の朋子さんからメールが来た。少し間が開いていたので「フラレたかな」と思っていたが、これで安心。スキューバダイビングにハマっているらしい。そう、ニュージーランドは夏真っ盛りだものね。

今週の朝日俳壇 1月19日 
長谷川 櫂  寒暁や京の都の白川女       尾本 正美     
稲畑 汀子  木にすべて天辺のあり空つ風    木暮陶句郎
金子 兜太  吹雪く日の少女唇一文字      小島 敏雄
川崎 展宏  話しつつ冬日を膝に乗せてをり   松原かつこ 

朝日歌壇
整列の隊員ら胸に秘めて持つを束ねてはならない思いさまざま 浅野 和子

 もう一首、このごろ私が望む生活「きょうがすべて」。こう生きられたらいいな。

いつだって今日を始めるためにだけ生まれてきたと信じる朝  有田 里恵
 
 

寺山への興味は増すばかり
【No.211】 2004年01月19日

 献本をして歩いた。その反応「寺山だけでこんなに書くことがあるのなら、田原にはもっと話があるはず。田原のほうがいい場所だから。『田原ものがたり』を書いてよ」。「次は『蓑毛ものがたり』でしょう」と言われので「いっしょに書きましょう」と誘った。
 ある女性(私より7歳年上)から、お産が近くなると(陣痛が始まると)、実家のそばの道祖神を家人が横臥させていたのを記憶していて、なぜなのかと質問された。これと同じような習俗をご存知の方、いらっしゃいませんか。
 門口に馬頭観音が祀ってある家も訪ねた。その馬頭観音は明治22年の建立だった。そこの当主がこんなことを話してくれた。「子供の頃、坊さんがうちを宿にして、寺山中の馬頭観音にお経を上げていたのを憶えている。二人で来ていた。一人の人は前歯がぞろっと無くて、その顔が怖くって」

 あとからあとから、私には経験のないこと、初めてのことが出てきた。寺山への興味は増すばかり。

今朝のタウンニュース
【No.210】 2004年01月17日

今朝の「タウンニュース」紙に、1月10日に私がふるさと伝承館で話した「だんご焼き」の話の感想が出ていた。

◇…コラム『取材メモから』…◇
 どんど焼きの取材で武氏が子どもたちに話したどんど焼きのいわれ。「写真だけ撮って」と思っていた取材が、話に引き込まれて、最後まで聞き入ってしまった。
 年を経るごとに廃れゆく「年中行事」世代を超えて伝わっていかないのは、行事自体がが時代にそぐわないことがある。生活様式が
変われば、意味が通じないものは伝わりづらいのも当然だ。また核家族化・少子化、希薄な近所付き合いなども理由であろう。一方で
「恵方巻き」のように「商売になる」とそれまで地方のみの行事が一躍全国区になるというのも面白い現象だ。
 仕事柄、市内で行われる年中行事は時期にあわせ取材し、その都度取り上げているつもりだが、それでも以前に比べれば多少減った
だろうか。ただ、その行事の意味を伝えていくことも忘れてはいけない仕事であると武氏の話を聞き終え、再確認した。 
 後日行われた成人式では参加者の一部がステージ前で騒ぎ、指導員にたしなめられるシーンもあったという。式には律儀に出席して、そこでわぎわぎ騒ぐというのも碓解しがたい行動だが、それでも成人の意味も伝えながらこれからも記事にしていこうと思う。(達)

耳鳴りが聞こえた日  『寺山ものがたり』の上梓
【No.209】 2004年01月16日

 起きたら耳鳴りがする。細い金属音。初めての経験。少しあわてた。ちょうど今日が鼻炎で病院に行く日でよかった。
 「鼻炎の治療は今日レントゲンを撮って終わりにしましょう。あれ、武さんはアレルギーがあるんだっけ。これから杉花粉が始まるから、そっちの薬を飲みますか。三週間分出しましょう」ということで通院続行になる。 
 耳鳴りを訴えたら「年齢相応じゃないかな。今まで無いのが珍しいくらい。でも聴覚検査をしましょう」とS医師。終わっての判定は「飲みすぎ、疲れやストレスが溜まると耳鳴りの症状が出る。飲みすぎは気ををつけたほうがいいですよ」。そう前夜、生ビールの中ジョッキを一杯、熱燗で二合、冷やで一合、を見抜かれた感した。疲れは校正の作業と「エコー」212号の編集。
 「高音がちょっと弱いかな。でも聴こえなくなることは無いでしょう」 という診断に少し安心。それで「耳鳴りが年齢相ということは老人になったこですね」と尋ねたら、笑いながら「まあそういうことでしょうか」と答えが返ってきた。今度は少しショックだった。このS先生、スッキリ、バッサリと話してくれるので私は好感を持っている。子連れの母親達は「怖い」と言うが…。それで、病状はといえば、今は耳鳴りは無い。これから晩酌をする。耳鳴りでなく海鳴りが聞こえるといいのだが。 
 『寺山ものがたり』が届いた。納得のいくできぐあい。うれしい。だから今夜も飲む。

きのう そして今日
【No.208】 2004年01月13日

昨日は東京へ。9時15分に毎日新聞社に着いた。全国から集まってきたPTA新聞を読んだ。その量は去年より多い。数が多かったのは東京、神奈川、福岡、山形と、新聞教育の盛んな都県。
 子どもたちの新聞を読んだ先生たちの感想「学校で新聞をつくることが困難になった。だから数は減少気味」「質は高くなっている」「パソコン全盛時代だが、手書き新聞が増えてきている」など。こちらもまた地域が特定されている。新聞づくりの指導が特別な技術のようになってしまったのか。新聞づくりは仲間づくり」だけなのに。

 きょうは妻の織物の展示会の初日。9時半に会場に行き飾りつけ。午後、だんごの木を取りに山へ。夜、先生(教え子)がスクラップ新聞を持ってくることになっている。勤務が終えて、ということで7時ごろ。そのあと、だんごづくり。

一足早く「道祖神まつり」
【No.207】 2004年01月10日

 11時半に「ふるさと伝承館」に行く。「そば処東雲」の企画で、道祖神祭りを今日行うのだが、それに招かれた。
 「だんごづくり」が終えた後、私が道祖神祭りの話を聞した。参加は親子合わせて17名。伝承館の大津さんの話では、五日制になってから土曜日に子どもたちの行事を持つのは難しくなったようだ。小学生も忙しいらしい。お稽古事や塾、スポーツクラブなどが、土曜日の子どもたちを奪い合っているからだ。今日のような地域の子ども向けの伝統行事は、親の関心がなければ成立しない。 
 子どもたちは『一つ目小僧』の話と『とっけだんご』の由来には興味を示してくれた。最後に拍手をもらった。教え子が一人、母親として参加していた。小学4年生の娘に「中学校のときの担任の先生」と、私を紹介してくれた。どこかのおばあちゃんが傍に来て、自分の故郷の道祖神祭りのことを私に聞かせてくれた。 
 参加させてもらってよかった。

甘い 苦い
【No.206】 2004年01月09日

新しい年が動き始めた。それは次年度の準備の始まりでもある。昨日、今日と16年度のPTA広報の講座の依頼が三つ入った。いずれも東京で、ある会場は午後7時スタート。「働いているお母さんもいるので」が主催者の言葉。そうだとしたら私も力を入れなければ。
 知人からパリのチョコレートをいただいた。ほとんどチョコレートは口にしない私だが、おいしくて何粒も食べた。甘みが抑えてあり、しっかりとした歯ごたえ。
 夕食に畑の菜花をゆでて食べた。苦味があった。去年と違い、もう花が咲き始めてしまった。これも暖冬のせいか。
 明日は田原の「ふるさと伝承館」の道祖神祭りで「トッケダンゴ」の話をする。もう一度ストーリーの確認をしなければ。

皓皓と照る月
【No.205】 2004年01月08日

◇日の出のころ
 タコーチヤマのなだらかな尾根をつくっていた落葉樹が裸木になり、今、稜線は鋭くなっている。樹間から透けて見える青空に、冬の清冽さを感じる。
◇昼
 行雲は北から南に速い。
◇午後7時20分
 今夜は満月。蕪村の句を思う。
「月天心貧しき町を通りけり」 蕪村の代表作といわれるこの句、季語からすれば秋。だが、私には今夜のような皓皓と照る冬の月の下、肩を寄せ合っている小さな家々の町並、そして足元には自分の影、そんな光景を思い描く。月がふさわしい季節は冬だろう。そんな月明かりの中、一条の飛行機雲が西に向かって今、走っている。


今週の朝日俳壇 1月5日

金子 兜太  三人目遇ひしも旅人冬籠       松崎  左
         極月や乗り継ぐたびに闇深み     工藤 たつ
川崎 展宏  裸木のあひ満月の昇りゆく      中村 果南
長谷川 櫂  金泥の一字を足して賀状とす     多田羅初美
稲畑 汀子  風となり光となりて群千鳥      永野由美子

 

【No.204】 2004年01月07日

4日 
 暮から三が日にかけて外泊をして、いよいよ帰るとき「帰るのはイヤ。家で治すから。帰らない」と泣くバアちゃん。バアちゅんの心境は、まさにの通りだと思う。94歳だが、91歳まで入院生活は一度も経験していなかった。それからの二年間に三度の病院生活。
 それでも「外泊だから」と車に乗せた。だが最後は『おりん』さんになってくれた。私は『辰平』にはなりきれなかった。車の中で春がきたら帰ることを決めた。「リハビリ がんばる」と強いバアちゃんに戻った。今年のわが家の目標が一つできた。この「外泊」は良いことだった。

6日
 昨日、病院の帰りに七草を買いにスーパーに寄った。七草の鉢植えが置いてあった。2800円。鑑賞用らしいが売れるとは思わなかった。ところが、中年の女性が買っていった。馬鹿な私は「どうされるんですか」と聞いてしまった。“余計なお世話”といわんばかりの顔で「山野草でしょ、これ。育てるの!」。そうか、その手もあったんた、と妙に感心した私。わが家は398円のパックを買った。

年賀状
【No.203】 2004年01月05日

 今年もまた年賀状の「行き違い」がたくさん起こってしまった。まったく不思議なことだが、こちらが今年ご挨拶を送らないでいたら、その方から元旦に年賀状が届いたのだ。昨年、いただかなかったので今年ははずしておいた。そうしたらこちらが欠礼をしてしまうことになってしまった。返事を書けばいい、新年になって書くのが年賀状、という考えもあるが、挨拶だから、できれば元旦に挨拶をしたいと思っている。だから、いただいた賀状の束の中に、こちらが差し上げなかった人を発見すると、その人を裏切ったような気持ちになってしまう。
 このくらいの年齢になると、年賀状は「生存証明」みたいなものだ。「とにかく、生きていることを伝えればいいのだ」と横着を決め込み、今年もまた自分の文字など一つも書かない賀状を出してしまた。それに引き換え、若い人たちからもらう年賀状は生気に満ちている。はがき一面に色鮮やかなイラストが踊っているもの、びっしりと近況報告や新しい年を迎える心が書かれているものなど、今年の私のお守りにしたいような賀状を10数通もらった。メールの時代の今、自らの文字で決意表明をしているのは本当にすがすがしい。
 「昨年4月、体調を崩し入院をしてしまいました。それで一年多い大学生活を送っています。入院中にドクター、ナース、そして患者さんなど、だれもが懸命に生きている姿を見て「私も誰かの役に立てる人になりたい」という思いを強くいたしました。4月から、経済・金融を中心としたライター・編集の仕事をする予定です。多くの人の心に届く文が書けるようにがんばりたいと思っています。先生もお体を大切にされてステキな日々をお過ごしください。 由希子」

 壮年からの賀状
 『定年退職まであと三か月』という見出しがついた、新聞形式の年賀状が届きました。全国新聞教育研究協議会の会長さんの吉成先生からです。発行号数が「3096号」となっています。
 「新任のとき『かみなり通信』という学級通信を出して以来、ずっと通信を発行し続けてきました。このハガキ新聞で通算3096号」とコメントがついていまいた。

この一年 
【No.202】 2003年12月30日

2003年の私
 
 1月 全国学校新聞コンクールのお手伝い
 2月 「湯河原文学賞」に入選 黛まどか先生と記念写真
 3月 パソコンの買い替え
 5月 義姉急逝
 6月 義弟を亡くす
 7月 念願の「軽トラ」を購入 
 8月 母 三度目の入院 
 9月 「エコー」9月号休刊
10月 「エコー」10月号は12ページ建て
10月 秦野園芸愛好会の研修旅行で「高山祭り」へ
11月 7日「エコー」のホームページのアクセス20000に
12月 異業種研究会で講演
12月 プリンターとエアコンが故障で入れ替え
12月 デジカメを失くし買う
12月 「寺山ものがたり」校了(1月15日に刊行予定)
12月 母、年末年始は自宅で

○今年一年の活動
  新聞づくりの講座 26回
  家族新聞講座    4回
  子育ての講座    3回
  郷土巡りの講師   3回
  秦野教育懇談会の仕事
  児童生徒緊急サポートチームの仕事
 
☆特記事項
 ・鶴巻中の卒業生との出会いが多かった一年 
 ・日本経済の底上げに貢献した一年
  (パソコン、プリンター、デジカ、エアコン、そして軽トラと、こんな  に買った)
 ・7月〜11月 鼻炎で悩まされる(今も通院 歯科にも通年通院)
 ・野菜は不出来(努力は人を裏切らない) 

12月27日
【No.201】 2003年12月28日

 起きたら雪景色だった。12月の雪は何年ぶりだろう。
 朝から三校をおこなう。いくつかの記事を囲みにしてもらうことにする。アクセントをつけたいから。
 私の移り気な性格が突然現れ、校正の途中で排水溝の掃除がしたくなった。雪解け水が流れているのに、コンクリートの蓋を上げ、家の周りを20メートルほど掃除した。枯葉と泥が想像以上、悪戦苦闘。腰が痛くなった。
 11時過ぎに病院に向かう。食事の相手をしたが今日は「鬱」。食事が終わったので早々に「暮で忙しいから」と立ち上がったら、「お願いします」という返事。まだ家長のつもりだ。だからいいのかもしれない。
 遅い昼食は鍋焼きうどん。ダイエーでの買い物に付き合う。途中でいらいらしてくる。買い物の付き合いはいつもそうなる。そんなに歩いていないのに足が疲れてくる。土の上ならもっと長時間でも平気なのに。買い物はキライだ。
 帰って校正の続き。K先生が訪ねてくる。ちょっと雑談「あと2年で終わりです」という。改めて自分の歳を思う。
 5時過ぎにSEDAに持っていく。最後なのでていねいに指定の説明をさせてもらった。そうしたら29日に四校を出すという。校了は正月5日、発行は15日。
 HPのアップが気になる。西ノ久保の写真が必要。年賀状は手をつけていない。寝ながら「本の窓」1月号の旅の特集を読んだ。

暮のご挨拶
【No.200】 2003年12月26日

 「暮のご挨拶」ということで義兄と義姉の墓参りにでかけた。愛川町のメモリアルパークには義姉が眠っている。芝が敷かれている中に墓碑が埋め込まれている区画と角柱の墓石の区画がある。義姉は角柱の下に眠る。墓所から見える家並みは義姉が結婚して新しく生活を始めた町だという。
 角柱とプレート式について:私としては角柱。プレート式で、そこに「夢」とか「愛」とか刻まれている下ではどうも安眠できそうにない。「愛」はともかく「夢」はもう見る必要はないだろうから。
 小田原の下曽我にある瑞雲寺、義兄は自分でここに永眠の地を求めた。墓所に立つと富士が西北に見える。西南には真鶴岬、手前に小田原の海、さらに手前が梅林。
 墓所に登る入り口に「ご自由にお持ちください」とミカンが置かれていた。2個もらって義兄に供えた。一個は食べた。甘かった。このごろどこの墓所でも供物を上げるのが禁止されている。カラスが集まるからだ。この寺はそれは気にしていないようだ。境内に石仏が点在している。市の文化財に指定されているようだが、どの仏も表情が穏やかで温かさを感じる。本堂の裏に聳える公孫樹の幹が西日に照らされ白く光っていた。

「寺山ものがたり」の取材
【No.199】 2003年12月23日

 庭木の手入れに植木屋さんが入って今日で三日目。私も二人につられて労働をしている。そんな今朝の9時ごろ電話が入った。NHKの「青春メッセージ」の関東甲信越地区大会に子どもが出るから見て欲しい、とのこと。電話の主は教え子。そして今日出場するという彼の息子さんとは、秦野教育懇談会の委員としていろいろ意見を交わしてきた間柄。
 植木屋さんに少し気兼ねしながらテレビの前に座った。アフガンの難民キャンプを訪問した時のことを話していた。放送が終わって自宅に電話をしたら本人は在宅、電話に出てくれた。就職も決まったようだ。これから今日の発言を実践するとになる。彼の行動力を信じたい。
 「つられて労働をしている」と書いたが、屋外の仕事はできない。当てつけのようで植木屋さんに悪い。大掃除の真似事を三日間した。作業の時間帯は植木屋さん二人と同じ。休憩は午前・午後それぞれ一回、15分。一緒にお茶を飲み寺山の話をする。情報がたくさん入る。何よりうれしいのは『寺山ものがたり』の補完ができること。二人は寺山生まれ、寺山育ち。私と七歳違うだけでだが、寺山の昔についての話は私の知らないことばかり。このお茶の時間は絶好の取材時間だった。

塩分摂り過ぎ 食べ過ぎ
【No.198】 2003年12月20日

無言館の戦没画学生の手帳に書かれていた食べ物のリストを新聞で読んだ。私の好むものとほとんど同じ。「ゾーニ、ボタモチ、アベ川、洋カン、スキ焼き…」と延々と綴られている。それで昨日の夕食に食卓に並んだものを思い出してみた。
◇きのうの夕食 
 鯵のヒラキ、大根とマグロのフレークの煮物、きんぴら、白菜の漬物、タクアン、キュウリの漬物、大根と人参の浅漬け、昆布の佃煮、ユズの砂糖和え、金時豆、ブロッコリーとトマトのマヨネーズ和え、里芋のにっころがし、、キャラブキ、日本酒に甘納豆、そして米飯。食後にイチゴ一粒、りんご二切れ。自家栽培は大根、ブロッコリー、里芋、そしてキャラブキ。ユズは冬至用に夕方隣の畑からいただいたもの。いずれにしても、これだと塩分摂り過ぎ、食べ過ぎ。
 潟永家と松島家の家族新聞が届いた。両方とも7号。ここまでくれば続くだろう。
 『寺山ものがたり』のニ校が終わった。夕方の空は、強風に吹き飛ばされて雲ひとつなかった。今夜は冷えそうだ。湯豆腐かな。

卒論
【No.197】 2003年12月19日

 午前10時、鶴巻中の卒業生のIさんが訪ねてきた。卒論の資料として私の話を聞きたいということ。テーマは「学校と地域の連携」。国際学科に在籍しているのに、こんなテーマに首を突っ込んでしまって、と笑う。「担当の先生の『自分の地域のことを知らずに国際なんて語れない』という言葉に共感して」らしい。地域と学校とのかかわりを西表島と秦野で調べてきた。そして、今結論の部分に差し掛かっている。私が語れないテーマではなかったので2時間ほど対話。「西表島では公民館の存在が地域にとってもっとも大きな力になっている」とは、Iさんの体験の言葉。私は「地域のが存在しなくなった今だからこそ、学校が地域の教育情報センターになることが必要」と話した。
 就職も決まって後は卒論だけ、という彼女。「これから学校です。書けましたら持ってきます」といって帰っていった。
 
 東中学校で教えたUさんは、ロンドン大学で中国民俗学の研究している。この12日に卒論のテーマである『気』についての本を出版。私もその書物をいただいた。一生懸命読んだ。遠大なテーマでただ感じ入るばかり。同封されたたたよりでは、博士課程の最終の口頭試問も合格したという。これからも研究生活を続ける彼女。そのたくましさが私にはまぶしい。

異業種研究会での講演
【No.196】 2003年12月17日

 昨夜、商工会議所異業種研究会に招かれて講演をした。会場に着いて最初にいただいた名刺は東証一部上場の電子機器の取締役の方からだった。
 五月ころこの話をいただいたとき、いつものように軽く受けてしまった。2週間ほど前に会長さんと事前打ち合わせをしたとき、与えられたテーマは「人材育成」だった。若者とリストラされた中高年を企業人として育成しなければいけないのだが「学校は子どもを育てるところ」という経験からのアドバイスを、ということ。前夜一応ストーリーは組み立てたのだが不安だった。今日は朝から落ちつかなった。大試験を迎える学生のような心の状態。レジュメをきちっとしなければいけないのに、それを避けて「寺山ものがたり」の二校などをしている自分がいた。4時ごろになって胃のあたりがおかしくなってきた。それで枕元に未完成のレジュメを置き横になった。昼間日に当てた布団が気持ちよかった。少し落ち着いた。
 6時開会、開会のセレモニーがあって私の出番。参加は16名。秦野経済界の第一線で活躍していらしゃる企業家ばかり。「動かなければ出会えない」を演題にした。私が出会った子どもたち、親たちから学んだことを話した。7時半まで聞いてもらった。質問も出たので、肩の荷は少し下りた感がした。
 今日午後、昨夜出席されたFさんから電話が入った。今夜、ある会で「仲間づくり」の講演をするとのこと。「今、その準備をしているところだが、先生の声が聞きたくなったので」。それで、Fさんと仲間づくりの話をした。

  12月12日  こんな一日でした
【No.195】 2003年12月15日

 Aさん、人権擁護委員の仕事で横浜へ。病院に行き、午後、小室さんに菊の鉢を返しに行く。数百の花が咲いていたハウスの中はすっかり整理されていて、今度は挿し芽の鉢がきちんと並べなられている。傍らで今年使った土をフルイにかけていた。来年のために数千本は挿すとのこと。そして「これからクズ掻きで忙しくなる」と言う。二年先の堆肥を作る準備だ。全生活を菊づくりに懸けているともいえる。その情熱がうらやましい。しかし大変なことだと思った。帰りに「かない観音」の道標を撮りに渋沢地区を回った。見つからないと思ったら、意外にわりやすいところに立ったいた。道標だから当たり前! 『寺山ものがたり』に使う。
 帰ってから、カメラを持ったついでに来月のトップページにアップする干支の郷土玩具「猿」を撮ることにした。飾り棚から持ち出した信楽焼の猿、伏見土人形・馬乗り猿、日光の三猿、延岡・昇り猿、大分・魔が去る(猿)、猿ヶ京の酔ってござる(猿)、柴又帝釈天のはじき猿、ここまては判ったかあとの4つは判らない。どこで求めたのか思い出せないのだ。はるか昔のことでから仕方ないこと。
 Mさんが家族新聞『らんどせる』を待ってきて「少しめげています。長男が勝手にオレのことを書くな、と言いだしたのです」と明るかった。 
 夜『寺山ものがたり』の表紙の一校がSEDAからメールで届いた。色合いが少し上品に思えた。それを感想として送った。いろいろあった一日。

百人一首
【No.194】 2003年12月11日

 「村雨の」と読み上げると、「露もまだ干ぬ槇の葉に…」と上の句から一首が、よどみなくバアちゃんの口から流れ出る。言葉はたどたどしく、弱弱しいのだが正解だ。そして「それはやさしいよ。ムスメフサホセだもの」とにやり。百人一首の暗誦で知力の減退を防げるかどうかわからないが、バアちゃんの自信にはなるだろう。それに、百人一首の勉強はこの時期にふさわしい思っている。ただ、耳が遠いので、こっちも大な声で読まなければいけない。それで、昼ごはん前の時間を使っている。同室の三人は食堂に行っているで、少し気がらくだ。だがナースステーションが隣りなので、初めての“勉強会”のときには看護士さんがのぞきにきた。正解率は7割強。若いころ、闇雲に記憶したものは忘れないようだ。昨日は小学校時代のようすを聞いてみたが、建物などをふくめほとんど記憶に残っていない。先生の名前はようやく思い出せた。
 とくに子どもの頃、憶えようと努力したものは記憶に残ると思った。それともう一つ、バアちゃんが今も記憶にとどめている70首ほどの歌はリズム感のあるものが中心であるということ。私が口ずさむ百人一首もほとんどバアちゃんと重なっている。中学のとき暗誦させられた漢詩、高校のときの藤村や犀星の詩は今もよどみなく口から出る。カラオケなどない頃の宴会では詩の朗詠も余興だった。「声に出して読みたい日本語」という本が売れている。CDも出たようだ。中学生あたりが読んだらいいと思う。

12月8日 
【No.193】 2003年12月09日

 今日からようやく庭仕事にとりかかれた。枯れ菊の整理を始めたら、それこそ2メートルくらいのところまでジョウビタキが近づいてくる。作業をした後に虫が出てくるのを狙っているのだろう。人なっつこい鳥、人間に関心があるのかもしれない。去年もそうだった。ジョウビタキはジイちゃんの好きな鳥だった。もしかしたら私の仕事ぶりを見ているのかもしれない。天気は良かったし、とても楽しく働けた。庭仕事や農作業は無心になれるのがイイ。
 12月8日は太平洋戦争の開戦日、成道会、一つ目小僧が来る日、そして「八八会」の日。八八会は東地区生まれの校長の親睦会。49年前、8人でスタートした会でその日が8日だった。それで「八八会」。それから毎年2回、5月と12月の8日に開かれる。会長の片野先生は93歳。午前中、庭の木に登って剪定をしていたら虫に刺された、とホホを腫らしたまま見えた。家族に「落ちないでよ、みっともないから」といわれて「だいじょうぶ、上には落ちないから」と応えたのだそうな。「この間同窓会があって、泊まりで行ってきた。80歳の教え子たちよ」。顔色、言葉、行動、どれをとっても70代だ。「若い女性にお茶の指導をしているのがその源」とおっしゃる。
 こういう会の存続は難しい。多分会員は50名くらいはいるのだろうが、今夜の出席は6名。最年少が50代、世代の違いが大きすぎる。

全新研全国理事会/食卓に差し込む光
【No.192】 2003年12月07日

  昨日は東京で開かれた「全国新聞教育研究協議会」の全国理事会に出かけた。福岡、大阪、群馬、茨城、静岡、千葉、埼玉、神奈川、東京から30名の出席。北九州市からの先生は前日の上京だったそうだ。財政が厳しい会だから全員が自費参加。こういう先生たちによって、日本の新聞教育は進められている。茨城の儘田茂樹先生に十数年ぶりに会えた。1971年に盛岡で開かれた新聞研究大会で知り合った。来年、水戸で開かれる新聞の全国研究大会の実行委員長を務めてくださる。「来年が最後です。それでこの大会をやることにしました。“満を持して”です」とにこやかだった。水戸に行く約束をした。この理事会で来年度の役員の選出が行われた。事務局長に東京の田村俊雄就いた。田村さんは、秦野が新採用地で、私がいた西中に来た。学年は私の学年、それで学年便りをいっしょに作った。やがて故郷の東京に戻り、秦野で関心を持った新聞教育を東京で実践した。そして、全国の新聞教育をまとめる事務局長に抜擢。私も少しは喜んでいいのだろう。交流会は新橋の居酒屋。2時間ほど飲んで、しゃべって帰ってきた。新聞は私の元気の元だとつくづく思う。
 今朝、7時ちょっとすぎ。今年もこの日、この時が来た。 
 食卓に座っている私の目を激しい光か射る。東北に位置する山の山腹に建つゴルフ場のクラブハウスのガラス窓が鏡の役をして、昇ってくる朝日を反射させる。それが我が家の食堂に差し込む。太陽光線の入射角が私の座る席で反射角としてぴったり合うのだ。太陽の上る角度も関係するので一年でたった一日だけ、このことが起こる。この日が来るのを待ちながら、毎朝同じ席で食事をとっている。

12月5日  私を囲む会
【No.191】 2003年12月06日

夜 丹沢そば「石庄」で私を囲む会が開かれた。参加は石井貞男さん(石庄)、佐藤正二さん(佐藤広告社)、川口洋さん(旭屋洋品店)、関野恵雄さん(税理士)、高橋豊一さん(豆峰)、松本幸夫さん(秦野サービス社)。それぞれ働き盛りの経営者の皆さん。「エコー」を読んでもらっている。
 ワインを傾けながら、教育、政治、町づくりなど談論風発。現役の時にこんな話を聞くことができたら、もっと味わいのある教師になれたのに、とつくづく思った。「だれでも教育評論家になれる」と言われる。経営者・経済人の皆さんの教育観は、教育界に身を置く者のそれとは異なったものもだと思っていた。だが、そうではなかった。 
 心地よい数時間が過ごせた。これから年二回、集まることになった。気がついたら0時を回っていた。石井さんに迷惑をかけた。


プリンター デジカメ
【No.190】 2003年12月04日

 プリンターが壊れた。マニュアルを見ながらがんばった。サービスステーションに電話して、教えられたとおりに試みた。ダメ。相手はいとも簡単に「送ってください」。多分一カ月はかかるとのこと。それであきらめた。どうしようもないから、買い換えた。もう破れかぶれ、デジカメも一緒に買っやった! 当然のことだがグレードアップ。買わなきゃいいのに、そんなにきばらなくてもいいじゃん、と思う。だけど、ここまでパソコンを使ってきたとなると「イイ、もうやらない」と宣言はできない。「いったい何のために」と思うのだが、もう生活の中に組み込まれてしまっている。あの世にお金を持っていけるわけではないから、これでいいか。でも年末なのに、ネ。
 『寺山物語』の一回目の校正が終わる。校正というより「文の書き足し 書き換え」になってしまった。「出稿する前にしっかり読まないからこういうことになるんです。SEDAさんに悪いでしょう」と叱られた。「言われるとおり、その通り」なのだ。

新しいネクタイで
【No.189】 2003年12月01日

 昨日、11月30日、鶴巻中学校の教え子・Kさんの結婚披露宴に招かれた。まったく思いがけないお招き。教え子といっても、彼女にとっては遠い存在なはずの私、その私が招かれた。私が退職した年、彼女は1年生だった。退職の時、お別れの手紙をくれたことがきっかけで文通が始まった。進路の相談も書いてきたりした。 
 20歳と19歳のカップル、さわやかな新郎とキレイな花嫁さん。友人達が元気よく、でも落ち着いた雰囲気で二人の門出を祝った。私にも主賓としてスピーチの出番があった。「家庭をオアシスに」と話した。Kさんは、体をこちらに向け、私の顔を見詰め、大きく目を見開いて聞いてくれた。
 たぶん今日が教師として私が招かれる最後の結婚式だろうと思った。それで、新しく求めたネクタイを着けていった。教師としての幸せをかみしめた一日。

星屑の町・遠野
【No.188】 2003年11月29日

  作詞家の東條寿三郎さんが26日に亡くなった。三橋美智也が歌った「星屑の町」の詞を書いた人だ。フォーク調の曲なのに、アクセントがあって、それを高音で歌う三橋美智也は民謡出身。好きな歌だ、このごろ氷川きよしもレパートリーに加えている。
「両手を回して 帰ろう 揺れながら 涙の中を たった一人で やさしかった 夢にはぐれず 涙を拭いて 帰ろう 揺れながら 涙の中を たった一人で」
 数年前遠野を訪ねたとき、この歌詞の原風景が遠野であることを知った。星空のない都会から星屑の町・遠野に帰る、というそんなイメージなのか。夕方、遠野の町には「星屑の町」がチャイムで流れるとも聞いた。そんなことがあって、このごろカラオケで歌うようになった。昭和37年の歌、はるか昔の歌だ。東條さんが亡くなって、三橋美智也さんすでに他界していて。「星屑の町」で思い出すことはいくつもある。
 ついでに思ったこと。「雪の降る町を」は鶴岡市が故郷とか。遠野もそうだが、固有の地名を使わないでその地の歌が作られるのは、それなりの地域文化がある。

伝えることのむずかしさ。
【No.187】 2003年11月27日

  11月19日に行った東中1年生の「地域めぐり」の感想文が届いた。おおむね“好評”、ホッとした。だが、自分の思いや伝えたいことが、聞き手に正しく伝わらないことを改めて知った。内容が興味深ければ深いほど、その話は正しく受け止められないようだ。興味ある話だから一生懸命耳を傾けてくれる。そしてそれを他の人に伝えるとき(この場合は私へ感想文という形で伝えること)、自分の思いがそこに入りこんでしまうのだ。今回の私の話の中身も少し尾ひれがついて私に戻ってきた。教育の場では、正しい内容を、正しく伝える話術が欠かせない。
 東中新聞と学級新聞をはるかさんが持ってきてくれた。どちらも見事な出来。読み応えがある紙面。レイアウト、イラストやレタリングなど言うことなし。彼女が中心でがんばったようだ。高校でも新聞をつくりたいと言っている。はるかさんの思いを受け止めてくれる環境があれば、と願う。

今年も先きを越されたクリスマスカード
【No.186】 2003年11月26日

今年こそ、と思って(早めに準備したつもり)、今朝10 時にGraham家へクリスマスの挨拶を送った。そうしたら、なんと、昼前の郵便でグラハムさんからクリスマスカードが届いた。またしても先を越された。日本でも11月になればクリスマスツリーが目に入るのだから、本場では今頃はもうシーズン真っ只中なのだろう。来年こそは、と決意。Coventry市を紹介するカレンダーをもらった。懐かしい景色が少しずつ変わっているようだ。私が訪ねたのが15年前だから当然だが。たよりでは、夫妻もお元気のようでホッとした。何しろもう80歳は超えているだろうから。我が家のバアちゃんの健康を気遣ってくれている。ありがたいことだ。こっちから送ったものはオルゴール付きのクリスマスカード。これはいつもの通り。それに日本庭園のカレンダーと防寒着。
 午後、秦野退職公務員連合会主催の「秦野の歴史研究会」に参加した。「波多野氏のおこりとその一族について」という講義を聴いた。その中で「秦野・市」は「ハダノ・市」で「ハタノ・市」ではない、という根拠を教えてもらった。大雨の中、出席してよかった。20余名の参加だったが、私以外は会の役員。少し気が引けたが行ってよかった。得をした。

深まる秋に歳を感じて
【No.185】 2003年11月24日

峠越えで病院に行くので、里山の黄葉を撮ろうと思った。それで、デジカメをとりに部屋に入った。いつも置いてある場所にない。思いつくままに、家のあちこちを見てまわったがない。あわてた。出かける間際だったので、帰ってから捜せば見つかると思った。これが昨日のこと。今日一日捜しているが見つからない。カメラの存在の記憶をたどると、公民館祭りの日で途切れた。公民館に問い合わせたが、もちろんナイ。どうしようもない“老い”。これが“歳をとる”ということか。
 “歳”といえば、エアコンが壊れていた。数日前にスイッチを入れたが、音も出ない。電話の子機も壊れたようだ。要充電の警告も充電中の灯りも点らない。両方とも耐用年数を超えたのか。これらの出費は莫大なものになりそうだ。“秋”終わりを身にしみて感じる秋。
 『寺山物語』の校正の準備を始めた。第1話から大修正をすることになった。十分な検証をしないで書き始めたからこうなってしまった。編集者に申し訳ない。

不安
【No.184】 2003年11月21日

 秦野の壮年経営者がつくっている「異業種研究会」。会員はそれこそ、さまざまな職種の経営者・責任者で28名。この会の12月の研究会で話をすることになった。その打ち合わせを笠島会長さんとした。機械設計事務所を持っている笠島さんは、昨年タイにその仕事場を拡げた。月の半分はバンコクでの生活で、週明けにはまた出国とのこと。私の方が話を聞きたいくらいだ。
 要望されたテーマ。@人材育成へのアドバイス(学校教育の中での実践例で)Aリタイアしての生き方・考え方(高齢者の雇用のために)
 五月ごろ講演の依頼があった。軽い調子で受けてしまった。今は後悔。準備をしなければ。不安。

郷土めぐりの授業
【No.183】 2003年11月20日

 午後、東中の1年生を連れて「郷土めぐり」をした。この授業は地域の歴史や文化を見てまわり、最後にふるさと公園で「手打ちそば」の実習をするという楽しい内容。私の持ち時間は1時間30分しかないので、テーマを「水」にしぼった。
 ・訪れた地
 1東中学校校庭の大きなイチョウの木と武邸の井戸 縄文後期の遺跡(住居跡・祭礼場跡)
 2消えた湧水池・清水(小・中学校の校歌に歌われる清水)
 3西の久保の湧水と井戸掘り
 4金目川という名の由来
 5八幡清水の水源
 6そばについての民話(そばづくりに水は大切なもの)
 この子たちは昨年・6年の時「新聞づくり」で2度会っている。そして卒業期に音楽会にも招待された。中学に入って「新聞づくり」で1度。だが今回で5回目の顔合わせ。そんなこともあってか、よく話を聞いてくれた。  だが、授業のメインはなんといっても「そば打ち」の実習。6人1グループでコネから切るまで自分達で行う。そして食べる。私もお相伴にあずかった。子どもたちが苦闘をしたようすがそばの太さや長さに表れていた。今日歩いた歩数は往復で8千歩くらい。

挨拶
【No.182】 2003年11月17日


 今朝は少し寒かった。タコウチ山の秋の色が濃くなってきた。土曜日に注文した灯油が今日配達されることになっていた。それで朝からタンクの周りをきれいにしていた。掃除はキライではない。ついでに家の裏を掃き掃除していた。そのとき「おはようございます」と通りから挨拶の声。かがんでいた私の姿は門扉の陰で見えないはず。箒を使っている音は聞こえただろうが…、その音に挨拶をしてくれたのだ。びっくりして「おはよう。元気で挨拶してくれてうれしいよ」と変な返事をしてしまった。立ち上がって声の主を探した。そのときはもう数メートル先を歩いていた一人の女生徒。ジャージ姿だから朝錬に急いでいるようだった。
 通りすがりに、当たり前のように挨拶をしてくれたようだ。この前も男子生徒が「こんにちは」と声をかけてくれた。挨拶の言葉を発するにはちょっとした勇気が必要だったろう。でもその勇気が私の一日をを明るくしてくれた。これからはこっちから挨拶しよう。

年二回の飲み会
【No.181】 2003年11月16日

 家族新聞「ランドセル」をもってMさんが来る。「小学校のふれあい祭りに来たついで」ということ。B4版2ページ、カラーコピーでできている。「お父さんにインタビュー」のコーナーが“売り”の新聞。31号になった。一昨年の夏から始まって、月刊が守られている。「子どもに『そろそろタネ切れじゃない?』と言わてます。意地でがんばってます!」と笑っていたMさん。私のことを太った、と言う。後で体重計に乗ったら4キロオバーだった。
 夜、飲み会。年二回で、15年続いているPTAのOB会。会社経営者、地方議員、主婦、そして元教員の7人がメンバー。相変わらず議論する内容は若い。「教育委員の働き」など話す。雨だったので二次会には行かなかった。9時過ぎに返ったら驚かれた。
 今朝の朝日の教育のページに「教育委員会」のことが書いてあった。昨夜話したことと似た内容。“盗み聞き”されたか!

県学校新聞コンクール
【No.180】 2003年11月14日

 12日にY先生から電話をもらった。今年の県の第53回学校新聞コンクールの結果の報告だった。まだ私に知らせてくださる。うれしかった。
 秦野の成績は「学校新聞の部」では、大根中学校が「最優秀賞」、「東中学校」が優良賞、「北中学校」が努力賞。学級新聞は「鶴巻中学校3年2組」が努力賞だった。特に大根中は三年連続で最優秀。これはすごいこと。秦野の他の学校もがんばっている。そのがんばりぶりを、きのう横浜まで見に行ってきた。 
 17日まで横浜駅西口のダイヤモンド地下街に展示されています。“ついでに”でもでもいいです。行ってみてください。

雁風呂
【No.179】 2003年11月10日

  
きのうの続き

 「枯れ木供養」のことを日記に書いたら、Tさんからメールで「青森あたりの話ではないか」とのこと。それでインターネットで探したら「雁風呂・がんぶろ」という季語に行き着いた。私がうろ覚えにしていたものを、正しく説明してくれる季語の解説も歳時記にあった。ラジオの話の内容の印象から、どうやら「枯れ木供養」と記憶してしまったようだ。それにしても、里人の優しさ、俳句を作る人の心眼のやさしさ。

 今日は神奈川県警の少年相談保護センターに研修に出かけた。寒い一日。

季語・春
 「雁風呂(がんぶろ) 雁供養」
 青森県外ガ浜付近では、暮春のころ、海岸に落ち散らばった木片を拾って風呂を立て、人々に入浴させる風習がある。これは秋に渡って来る雁が、海上で翼を休めるためにくわえて来て、ここに来て捨てておき、翌春、北方へ帰るときに再びその木片をくわえて行くのだが、人に捕われ、または冬の間に死ぬ雁が多いために、木片が沢山残るので、里人が哀れんで、雁を供養する心で風呂を立てるのだという。もちろん、伝説にもとづいたもの。

雁風呂や海荒るゝ日は焚かぬなり 高浜虚子
                (俳句歳時記 角川書店編より)

枯れ木供養
【No.178】 2003年11月09日

流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫

 北から渡ってくる鳥は一本の枯れ枝をくわえているのだそうな。飛行の途中、疲れるとその枯れ枝につかまりしし波間を漂う。そして又旅を続ける。日本の岸にたどり着いた彼らは、口の枯れ枝を海岸に落とす。やがて秋、彼らは北に帰る。そのとき、自分がくわえてきた枯れ枝を海岸で拾い旅立つ。だが、彼らの中には日本にいる間に死を迎えたものもいる。それゆえ海岸には持ち主が現れない枯れ枝が残る。村人たちは、残された枯れ枝を集め、海岸で火をつける。これを「枯れ木供養」というのだそうな。
 この話、いつだったかラジオで聞いた。どこで行われている風習なのか定かではない。川村氏の一句に「枯れ木供養」を思い浮かべた。

キリ番はSさん
【No.177】 2003年11月07日

 キリ番はSさん。メールをいただきました。「菊がアップされるというのでアクセスしたら、なんとキリ番」とのこと。でもその菊はアップしてなかったのです。今日、4枚載せました。花の見事さに免じてください。と言っても、花はすべて小室さんの作品です。私の菊は1枚目の写真の隅のほうに見える乱菊です。「乱菊」などと言っていますが、一年間ほったらかしておいても菊は咲くのです。


朝日俳壇 11月3日

金子 兜太  流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫
川崎 展宏  行く秋や財布の中の古切符      飯村  弘
         新米やためつすがめつ水加減     堀江 重臣
長谷川 櫂  冷ややかに我が腑を探る内視鏡    岩城 鹿水
        柚子の香やふつふつと鯛の潮汁    小柳  満
         すがれ鳴く松青虫よまだ居たか   しもだたかし
稲畑 汀子  秋天へ達するほどに足場組み     鈴木 石水
         片付けてそして更なる夜長かな    高野 秀雄
         青空を一揺すりして秋時雨      井芹眞一郎
         一点は孤高の鷹となりゆける     和村ひろし

幌つきの軽トラで菊を運ぶ
【No.176】 2003年11月06日

 今週末の8,9日に開かれる東公民館祭りに、菊の花で参加しなければいけない。ところが今年は今までで最低の作。私の“実力”で最低だから、とても人様に見てもらえるものではない。夏の気象のせいにしているが、研究不足、努力不足の結果なのだ。  
 私たちの園芸愛好会の菊花展は、祭りの会場を華やかにする役割である。それで、他人の力で会員の責任を果たすことを思いついた。菊作りの大家・小室久司さんの作品を貸してもらおうとしたのだ。小室さんの長男を担任した年、学校の文化祭のクラス展示で「菊の福助つくり」を指導してもらった。それを頼りにあつかましくもお願いした。
小室家を訪ねたのは昭和57年の家庭訪問以来なので道に迷った。裏庭に菊を育てる小屋があった。「今年は600鉢くらい」との話。その数と花の見事さにただただ驚くだけ。もう菊花展のシーズンは終わりに近いらしい。明日は今年最後の寒川神社に出展のための、手入れで忙しそうだった。今年も近辺の菊花コンクールでの賞は“総なめ”だったようだ。来週になると、もう翌年の準備に入るのだそうだ。「残こりものばかり」と言うが、どれも鮮やかな大きな花ばかりだった。軽トラで来た、と言ったら「幌付きトラックでなけりゃ運べない。花弁が風でダメになる。ウチの車を使いなさい」ということになった。福助づくりを10鉢乗せて、幌つき軽トラを運転した。鉢を倒さないようにゆっくり走るので、後ろは車が詰まる。でも荷台に乗っているものを見れば許してくれただろう。この車はマニュアル車。道筋には踏み切りもあったのでとても緊張。

★ギャラリーに小室さんの菊をアップします。見てください。

☆『エコー』のHPへのアクセスは、今明日中に20000になりそうです。キリ番の方、よろしければメールをください。

11月3日 駅伝 ラグビー バレーボール
【No.175】 2003年11月04日

 バレーボールのワールドカップ大会をテレビで見た。日本対韓国。因縁、いや永遠のライバルの戦い、すごい試合だった。栗原選手の可憐さ、佐々木選手のクールな表情、吉原選手の瞳に見入った試合でもあった。執念の逆転勝ち、良かった。
会場の声援のボルテージが上がるのは当然だと思うが、試合か停止している間に放送施設を使って観客に声援を行わせているのはキイ局の演出なのか。ベンチにもどって作戦を練り上げているとき、怒声に近い応援は迷惑そのものでしかない。選手の集中力を失わせる。アウエイの試合とはいえ、韓国の選手たちの日本への感情も気になった。また、あのタレントたちのカメラに向けて見せる仕草はまったく緊迫した試合とは無関係と思えた。ここでもスポーツをバラエティ化してしまうところだった。  
 冷静に考えれば、韓国に勝ったからといってオリンピックに行かれるわけでもないのだから、どうということはないのだが、それでもああした接戦をモノにできた選手達を素直にスゴイと言いたい。
 昼は女子駅伝を観た。秦野高校出身の萩原選手と小幡選手が走った。夕方は大学ラグビーの慶明戦、ちょっと期待はずれ。NHKが放映しないのがわかったような気がした。
 テレビ観戦の一日。

新聞 新聞 新聞 そして新聞
【No.174】 2003年11月01日

潟永家の家族新聞が届いた。この新聞の特長、まさに特長だが、直筆のコーナーがある。紙面は原則としてパソコン仕上げでコピー印刷なのだが、受け取る人それぞれに,その人だけのコーナーが設けられている。少ない発行部数だからできること。今号は「春美 合格しました。やりたいことができる学校が見つかってよかったです。」と、娘さん合格の喜びの報告。
 『たいよう』の発行所(渡辺家)から家族新聞のレイアウト用紙が欲しいと連絡がきた。7月スタートで4号まで順調。毎号カラフルな紙面が作られている。
 202号の『であい』には白神山地のブナ林の黄葉のことが書かれていた。
 10月で29号を数えた『O』新聞はいつものように豊かな内容。いっしょにK高校の学校だより(正しく言えば、全職員よるエッセイのリレー)も送られてきた。発行を始めて9年目のこの10月に、1000号を迎えた。教職員集団のまとまりのすごさ、強さ。このたよりの名前は『スイミー』。

チューリップの球根を買う
【No.173】 2003年10月31日

 「エコー」を投函、そして病院へ。今日のバアちゃんはハイ! 毎日、その日の精神状態が言葉にはっきり表れる。
 帰りに文化会館で開かれている秦野市美術展に寄った。「エコー」の古い読者であるM.SさんとY.Mさんが出品している。M.Sさんは「無鑑査」。Y.Mさんは初応募で「市長賞」。すごい実力! そしてもう一人、園芸愛好会のY.Tさんも油彩の大作で入賞していた。奥さんも市展の書道の部で入賞されている。ご夫婦の同時入賞というのはまさに“快挙”。
 絵を見た帰り、チューリップの球根を50球買った。「友がみなわれよりえらく見ゆる日は…」。妻もいっしょだった。遅い昼食は「あしながソバ」。これでは「啄木」かもしれない。

ジヨウビタキ
【No.172】 2003年10月30日

「ヒッ ヒッ」という鳴き声が聞こえたのは早朝五時ごろ。ジョウビタキが帰ってきたのだ。中国の西部からサハリンあたりで繁殖して冬になると日本に渡って来る冬鳥。私の好きな鳥の一つ。植木屋さんが茂りすぎた庭木を手入れしてくれると、その姿がよく見えるようになる。もう少しでそういう季が来る。そして今、この日記を書いていたら「ヒッ ヒッ」の声。探したら前の長谷さんの屋根のてっぺんにその鳴き声の主の姿があった。
 4時半に東中のN先生がみえた。1年生の総合学習の「ふるさと巡り」の打ち合わせ。今年で5回目。私の資料は昨年のものより良くしたつもり。6年生の去年、学習新聞づくりの指導をした子たちとの再会でもある。楽しみ。
 昨夜、岩原さん親子と電話で話ができた。 

今朝の新聞
【No.171】 2003年10月27日

今朝の新聞からうれしいニュースを二つ。
 一つは朝日新聞の『声」の欄。寺尾恵仁さんの投書か載っていた。「総選挙特集」で「言葉の羅列のマニフェスト」というタイトル。このホームページの『にっきの木』の四月号で紹介した「高校生の創った演劇」の彼である。寺尾さんは「東中新聞」の指導が縁で、4年前からわが家に遊びにくるようになった。「エコー」の貴重な若い読者の一人。
 そして神奈川新聞のスポーツ欄を開いたら「岩原(秦野東中)が優勝」の4段見出し、さらに写真と囲みで7段の扱いで「自己流でフォーム確立」と出ている。きのう行われた陸上の第34回陸上ジュニアオリンピックのジャベリックスローで亮恵さんが優勝したのだ。岩原家も『エコー』の読者。朝日のスポーツ欄にも載っていた。

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