- 寺 山 だ よ り -

雁風呂
【No.179】 2003年11月10日

  
きのうの続き

 「枯れ木供養」のことを日記に書いたら、Tさんからメールで「青森あたりの話ではないか」とのこと。それでインターネットで探したら「雁風呂・がんぶろ」という季語に行き着いた。私がうろ覚えにしていたものを、正しく説明してくれる季語の解説も歳時記にあった。ラジオの話の内容の印象から、どうやら「枯れ木供養」と記憶してしまったようだ。それにしても、里人の優しさ、俳句を作る人の心眼のやさしさ。

 今日は神奈川県警の少年相談保護センターに研修に出かけた。寒い一日。

季語・春
 「雁風呂(がんぶろ) 雁供養」
 青森県外ガ浜付近では、暮春のころ、海岸に落ち散らばった木片を拾って風呂を立て、人々に入浴させる風習がある。これは秋に渡って来る雁が、海上で翼を休めるためにくわえて来て、ここに来て捨てておき、翌春、北方へ帰るときに再びその木片をくわえて行くのだが、人に捕われ、または冬の間に死ぬ雁が多いために、木片が沢山残るので、里人が哀れんで、雁を供養する心で風呂を立てるのだという。もちろん、伝説にもとづいたもの。

雁風呂や海荒るゝ日は焚かぬなり 高浜虚子
                (俳句歳時記 角川書店編より)

枯れ木供養
【No.178】 2003年11月09日

流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫

 北から渡ってくる鳥は一本の枯れ枝をくわえているのだそうな。飛行の途中、疲れるとその枯れ枝につかまりしし波間を漂う。そして又旅を続ける。日本の岸にたどり着いた彼らは、口の枯れ枝を海岸に落とす。やがて秋、彼らは北に帰る。そのとき、自分がくわえてきた枯れ枝を海岸で拾い旅立つ。だが、彼らの中には日本にいる間に死を迎えたものもいる。それゆえ海岸には持ち主が現れない枯れ枝が残る。村人たちは、残された枯れ枝を集め、海岸で火をつける。これを「枯れ木供養」というのだそうな。
 この話、いつだったかラジオで聞いた。どこで行われている風習なのか定かではない。川村氏の一句に「枯れ木供養」を思い浮かべた。

キリ番はSさん
【No.177】 2003年11月07日

 キリ番はSさん。メールをいただきました。「菊がアップされるというのでアクセスしたら、なんとキリ番」とのこと。でもその菊はアップしてなかったのです。今日、4枚載せました。花の見事さに免じてください。と言っても、花はすべて小室さんの作品です。私の菊は1枚目の写真の隅のほうに見える乱菊です。「乱菊」などと言っていますが、一年間ほったらかしておいても菊は咲くのです。


朝日俳壇 11月3日

金子 兜太  流木はまとめられあり渡り鳥     川村 敏夫
川崎 展宏  行く秋や財布の中の古切符      飯村  弘
         新米やためつすがめつ水加減     堀江 重臣
長谷川 櫂  冷ややかに我が腑を探る内視鏡    岩城 鹿水
        柚子の香やふつふつと鯛の潮汁    小柳  満
         すがれ鳴く松青虫よまだ居たか   しもだたかし
稲畑 汀子  秋天へ達するほどに足場組み     鈴木 石水
         片付けてそして更なる夜長かな    高野 秀雄
         青空を一揺すりして秋時雨      井芹眞一郎
         一点は孤高の鷹となりゆける     和村ひろし

幌つきの軽トラで菊を運ぶ
【No.176】 2003年11月06日

 今週末の8,9日に開かれる東公民館祭りに、菊の花で参加しなければいけない。ところが今年は今までで最低の作。私の“実力”で最低だから、とても人様に見てもらえるものではない。夏の気象のせいにしているが、研究不足、努力不足の結果なのだ。  
 私たちの園芸愛好会の菊花展は、祭りの会場を華やかにする役割である。それで、他人の力で会員の責任を果たすことを思いついた。菊作りの大家・小室久司さんの作品を貸してもらおうとしたのだ。小室さんの長男を担任した年、学校の文化祭のクラス展示で「菊の福助つくり」を指導してもらった。それを頼りにあつかましくもお願いした。
小室家を訪ねたのは昭和57年の家庭訪問以来なので道に迷った。裏庭に菊を育てる小屋があった。「今年は600鉢くらい」との話。その数と花の見事さにただただ驚くだけ。もう菊花展のシーズンは終わりに近いらしい。明日は今年最後の寒川神社に出展のための、手入れで忙しそうだった。今年も近辺の菊花コンクールでの賞は“総なめ”だったようだ。来週になると、もう翌年の準備に入るのだそうだ。「残こりものばかり」と言うが、どれも鮮やかな大きな花ばかりだった。軽トラで来た、と言ったら「幌付きトラックでなけりゃ運べない。花弁が風でダメになる。ウチの車を使いなさい」ということになった。福助づくりを10鉢乗せて、幌つき軽トラを運転した。鉢を倒さないようにゆっくり走るので、後ろは車が詰まる。でも荷台に乗っているものを見れば許してくれただろう。この車はマニュアル車。道筋には踏み切りもあったのでとても緊張。

★ギャラリーに小室さんの菊をアップします。見てください。

☆『エコー』のHPへのアクセスは、今明日中に20000になりそうです。キリ番の方、よろしければメールをください。

11月3日 駅伝 ラグビー バレーボール
【No.175】 2003年11月04日

 バレーボールのワールドカップ大会をテレビで見た。日本対韓国。因縁、いや永遠のライバルの戦い、すごい試合だった。栗原選手の可憐さ、佐々木選手のクールな表情、吉原選手の瞳に見入った試合でもあった。執念の逆転勝ち、良かった。
会場の声援のボルテージが上がるのは当然だと思うが、試合か停止している間に放送施設を使って観客に声援を行わせているのはキイ局の演出なのか。ベンチにもどって作戦を練り上げているとき、怒声に近い応援は迷惑そのものでしかない。選手の集中力を失わせる。アウエイの試合とはいえ、韓国の選手たちの日本への感情も気になった。また、あのタレントたちのカメラに向けて見せる仕草はまったく緊迫した試合とは無関係と思えた。ここでもスポーツをバラエティ化してしまうところだった。  
 冷静に考えれば、韓国に勝ったからといってオリンピックに行かれるわけでもないのだから、どうということはないのだが、それでもああした接戦をモノにできた選手達を素直にスゴイと言いたい。
 昼は女子駅伝を観た。秦野高校出身の萩原選手と小幡選手が走った。夕方は大学ラグビーの慶明戦、ちょっと期待はずれ。NHKが放映しないのがわかったような気がした。
 テレビ観戦の一日。

新聞 新聞 新聞 そして新聞
【No.174】 2003年11月01日

潟永家の家族新聞が届いた。この新聞の特長、まさに特長だが、直筆のコーナーがある。紙面は原則としてパソコン仕上げでコピー印刷なのだが、受け取る人それぞれに,その人だけのコーナーが設けられている。少ない発行部数だからできること。今号は「春美 合格しました。やりたいことができる学校が見つかってよかったです。」と、娘さん合格の喜びの報告。
 『たいよう』の発行所(渡辺家)から家族新聞のレイアウト用紙が欲しいと連絡がきた。7月スタートで4号まで順調。毎号カラフルな紙面が作られている。
 202号の『であい』には白神山地のブナ林の黄葉のことが書かれていた。
 10月で29号を数えた『O』新聞はいつものように豊かな内容。いっしょにK高校の学校だより(正しく言えば、全職員よるエッセイのリレー)も送られてきた。発行を始めて9年目のこの10月に、1000号を迎えた。教職員集団のまとまりのすごさ、強さ。このたよりの名前は『スイミー』。

チューリップの球根を買う
【No.173】 2003年10月31日

 「エコー」を投函、そして病院へ。今日のバアちゃんはハイ! 毎日、その日の精神状態が言葉にはっきり表れる。
 帰りに文化会館で開かれている秦野市美術展に寄った。「エコー」の古い読者であるM.SさんとY.Mさんが出品している。M.Sさんは「無鑑査」。Y.Mさんは初応募で「市長賞」。すごい実力! そしてもう一人、園芸愛好会のY.Tさんも油彩の大作で入賞していた。奥さんも市展の書道の部で入賞されている。ご夫婦の同時入賞というのはまさに“快挙”。
 絵を見た帰り、チューリップの球根を50球買った。「友がみなわれよりえらく見ゆる日は…」。妻もいっしょだった。遅い昼食は「あしながソバ」。これでは「啄木」かもしれない。

ジヨウビタキ
【No.172】 2003年10月30日

「ヒッ ヒッ」という鳴き声が聞こえたのは早朝五時ごろ。ジョウビタキが帰ってきたのだ。中国の西部からサハリンあたりで繁殖して冬になると日本に渡って来る冬鳥。私の好きな鳥の一つ。植木屋さんが茂りすぎた庭木を手入れしてくれると、その姿がよく見えるようになる。もう少しでそういう季が来る。そして今、この日記を書いていたら「ヒッ ヒッ」の声。探したら前の長谷さんの屋根のてっぺんにその鳴き声の主の姿があった。
 4時半に東中のN先生がみえた。1年生の総合学習の「ふるさと巡り」の打ち合わせ。今年で5回目。私の資料は昨年のものより良くしたつもり。6年生の去年、学習新聞づくりの指導をした子たちとの再会でもある。楽しみ。
 昨夜、岩原さん親子と電話で話ができた。 

今朝の新聞
【No.171】 2003年10月27日

今朝の新聞からうれしいニュースを二つ。
 一つは朝日新聞の『声」の欄。寺尾恵仁さんの投書か載っていた。「総選挙特集」で「言葉の羅列のマニフェスト」というタイトル。このホームページの『にっきの木』の四月号で紹介した「高校生の創った演劇」の彼である。寺尾さんは「東中新聞」の指導が縁で、4年前からわが家に遊びにくるようになった。「エコー」の貴重な若い読者の一人。
 そして神奈川新聞のスポーツ欄を開いたら「岩原(秦野東中)が優勝」の4段見出し、さらに写真と囲みで7段の扱いで「自己流でフォーム確立」と出ている。きのう行われた陸上の第34回陸上ジュニアオリンピックのジャベリックスローで亮恵さんが優勝したのだ。岩原家も『エコー』の読者。朝日のスポーツ欄にも載っていた。

孫薬
【No.170】 2003年10月25日

病院のエレベーターの中で聞いた親子三人の会話。「おじいちゃん、わかったみたいでよかったね」「チカだけわかったみたい」「だから言ってたでしょ、絶対わかるからって。来てよかったね」。お母さんの声が弾んでいるように感じた。
 昔は「親薬」「子薬」といって、親の病気には子どもが、子どもの病気には親を会わせることが、薬より有効といわれていたそうだ。ところ、がわが家のように親子が共にある年齢にまでいってしまうと、感情の交流もそんなに新鮮ではなくなる。きょうのエレベーターの三人のように、高齢の病人には孫が特効薬になるのだろう。そういえば、バアちゃんにも「孫薬」が当てはまる。病院の松岡先生の本の中にも「小学生くらいまでのお孫さんが面会に見えたときは、明るさが増すようである」と書かれてる。
 

またまた読んでいる本
【No.169】 2003年10月24日

 向井敏の「文章読本」をまた広げている。もう4,5回になるか。時を置いて読むとまたまたおもしいのだ。文章の書き方を教える本だと思って買ったのが、その種のものではなかった。ハードカバーの本のとおり、ハードな内容なのだ。大作家の文だからといって、意味が通じなければ容赦なく腑分けしている。難癖をつけているみたいなものもあるが、言われてみれば「その通り」と思ってしまう。ある作品の二人の翻訳を並べて、訳者の文章感覚を比較している。そして「この二つの文章に差があるとしても、ほんの微差に過ぎないという人があるいはいるかもしれない。しかし、そのわずかな差を詰めることが途方もなくむずかしいのだ」とまとめている。わずかな差をつけられた訳者はたまらないだろう。
 ここまで書いてきて、「訳者による文章感覚の違い」について思い出したことがある。『図書の』の7月号に、三浦佑之先生が、古事記の中のイザナミの言った「然善」を訳者はどのように口語訳しているかについて書いていらっしゃる。

清水基吉選 「雨月集」
【No.168】 2003年10月23日

 俳句月刊誌『日矢』10月号が、今月もTさんから届いた。Tさんは清水基吉先生が主宰する「日矢」の会の会員で、手紙も添えられていた。
「先生と再会したのは五年前の9月でした。それから先生と先生のお父様の俳句に触発され、俳句らしきものを始めてめて四年になります。人の縁の不思議さを思います。そんな私に、清水先生は今月、ご褒美をくださったようです。」
 10月号の巻頭を飾る清水基吉選「雨月集」にTさんは登場していた。今月号に作品が載っているのは360名ほど。その中でので推挙である。
 その作品は

 子を迎ふ門火はたかく焚きにけり
 墓所に這う蛇は巳年の父かとも
 陰膳を供へてゐたり盆句会
 深爪に眉顰めをる残暑かな
 凌霄花散り急ぐ日や海荒るる
 夫婦茶碗揃へてゐたり子の帰省
 鎌倉の茅の輪潜りや世も潜り

 5年前の同窓会で35年ぶりで出会ったとき「近所の仲間と俳句を始めた」と話していた。俳句には少し関心があったので、彼女に俳句を作るように勧めた。そして4年、その精進が花開き始めている。
 
 ホームページの移動を終えた。
 新しいアドレスは
 http://park11.wakwak.com/~echo-shinbun 
 
 まだshinbunにしがみついている。 

これが10月20日の私
【No.167】 2003年10月20日

 朝8時過ぎ、新聞を読んでいたら、妻が「クリーニング代 いただきます。これ、見て!またやちゃったわね」。妻が手にしているのは洗濯が終わったばかりの私の作業ズボン。そのズボンの腰の部分が紫色に染まっている。
 「明日は雨だというので、急いで洗濯を始めたのがいけなかった。もう、大丈夫と思って、調べないで回したらこのとおりよ」。
 昨夜、私はこのズボンやサファリジャケットを洗濯機の中にほうりこんだ。ポケットを点検して入れるように、とは何度も言われてきた。
 今までに、お札、硬貨、万歩計、(洗っても乾けば動き出すことを知った)、ライター(これも使える)、ちり紙(これはタイヘン、すべてのものが花、いや紙吹雪を浴びてしまう)などなど、を一緒に洗濯してもらってきた。だがボールペンは初めて。こんなに被害が大きいとは…。すべての洗濯物が青紫の染められている。特に木綿がヒドイことが分かった。そして洗濯機のドラムまにもべったりと紫色が。
「あきれたわ。これで何度目?。ほんとにダメな人ね」「水性ならどうだったのかね。下着 買いに行ってくる」「ふざけないで」
 午前9時、S耳鼻科の先生の前で。
 私「先生、おかげで良くなりました。ありがとうございました。お世話になりました」
先生「武さん、まだ終わってないよ。私がイイというまで来なくちゃダメだよ」とあわてた声。先生に喜んでもらおうと「お世話になりました」と言ってしまった私。もちろん私だって完治したとは思っていないのだが…。これは“あわて者”というより、言葉の使い方ができていないということ。 治療が終わり薬局で薬をもらうとき、薬剤師のSさんが「先生がイイと言われるまで通ほうがいいよ」と言う。こに薬局は病院内にあるのではないのに、診察時の先生の言葉を聞いていたかのように言った。私は見抜かれている。 午後、『エコー』の原稿をプリントアウトし、切り張りの仕事をした。そのとき、不要になった紙といっしょに、必要な部分の切り抜きを丸めて屑篭へ。「しまった!」とゴミあさりをしていたら、妻が入ってきて「またヤッタのね」。
 PTA広報・6紙のクリニックをした。秦野が3、東京が2、大井町が1紙。久しぶりに硬派の広報にであった。こういう広報は批評もし甲斐がある。

大江健三郎作詞の来年のNHK合唱コンクール
【No.166】 2003年10月16日

 13日の午後、テレビで高校生の合唱の全国コンクールを聞いた。野球やサッカー、ラグビーなどスポーツ系ばかりがニュースになるが、この日ステージに立った高校生の何とすがすがしかったことか。歌っている表情になぜか涙がこぼれそうになった。司会をしていた錦織健さんが自分のことを「体育系くずれ」と言っていたが、その彼がこのコンクールへの参加がきっかけで、オペラ歌手になったのだ。どこかの学校紹介の映像の中で、男子生徒が「だれか“まともな人”入ってくれないかな」と言っていたが、みんな“マトモ”。
 このコンクールの中で、来年の課題曲の作詞・作曲者が発表された。小学校はたしか「ドリカム」だったと思うが…。中学は「谷川俊太郎」、そして高校は「大江健三郎」とアナウンスされたとき、会場は大きくざわめいた。「来年、大江健三郎の詩で歌える」との期待、そして喜び。わたしだってこの顔ぶれの課題曲が楽しみだ。NHKはきばった。今年の参加校は300校だった。来年はもっと増えてくれたらいい。高校の先生もがんばって欲しいな。来年のこのコンクールのテーマは「信じる」だって。

10月9.10.11日
【No.165】 2003年10月13日

 園芸愛好会の11名で高山祭りに出かけた。9日は汗ばむほどの好天。3時前に桜山八幡宮の表参道には入れたので、屋台の「曳き廻し」が見られた。この日は4台だった。鳳凰台という屋台は、11台あるうちで最大のものだそうだが、秋空の下、西日に輝く鳳凰は豪華で優美だった。参道には5台が曳き揃え」で並んでいた。屋台の上で女の子(小学校1.2年くらいか)が横笛を練習していた。宮川べりに夜店が並んでいた。裃と袴の衣装の男の子が二人、嬉々として店を覗き回っていた。
 10日、ロープウエイを使って西穂高口の展望台に立った。待ち時間を入れて1時間ほどで2156メートルの地点に立てるのだ。槍ヶ岳のあの頂は、大喰岳が面前なので、わずかに見えるだけだった。奥穂高岳、北穂高岳など、名前だけしか知らなかった3000メートル級の山々をすぐそこに見ることができた。南には焼岳もあった。ようやく色づき始めた落葉樹だった。第2ロープウエイ脇の桜紅葉の赤・オレンジはイイ色だった。

 11日、『丹沢そば石庄』主催の「そばの花見会」に出かけた。ソバの花は満開。1時半から2時間かけて「大山道・寺山の里ウオーク」をした。このネーミングは私。参加は70余名。交通整理と道案内を兼ねて、角谷戸の根倉市郎さんご夫妻に一緒に歩いてもらった。歩いた距離は2.5キロくらいか。10の地点で、地名の由来、言い伝えや歴史的な事実、そしてそばにまつわる民話を話した。聞いてもらうには、なおいっそう精選された話し方をしなければと、反省しきり。ウオークの最後のポイントで「大山道・市内最古の道標」の話をしたら、数名がその道標を確かめにその地点に行ってくれた。少し肩の荷が少し降りた感がした。

ホームページ開設三周年
【No.164】 2003年10月08日

2000年10月8日に開設したホームページが今日で3周年を迎えた。アクセス数は18560。どなたが読んでくださるのか判らない。月一回の更新はこのアクセス数を稼ぐためのものとも言える。どのページを見ても中途半端、反響がないのはその証拠。その中で「秦野のお話・寺山物語」は、自分としては一生懸命書いているつもり。それを2004年の正月を目安に小冊子にすることにした。“まとめる“ということでない。大それた思いだが“寺山を記録する”つもり。

ツルウメモドキ
【No.163】 2003年10月07日

 4日にお隣の小学校の運動会が終わり、裏の畑の中学生のサツマイモ畑もきのうで黒い土だけになった。きのうきょうの気温は11月中旬並。
 今朝、出勤前に「エコー」の読者のOさんが11月号の原稿を持ってきてくれた。「庭に咲いていたから」とコスモスの花を一緒に。そしてツルウメモドキの一枝もいただいた。皮のはじけた実はまだ数粒だけ。それでもその黄赤色の実は晩秋の近づきを感じさせる。
 6月の家族新聞づくりに参加したW家の「たいよう」の9月号が届いた。これで4号。電話でお礼と激励。「3号雑誌という言葉があるように、家族新聞も3号目がタイヘンになる。それを超えたのだから大丈夫。これからも続けてください。」父親の登場が少ないから、意識して記事にするようにアドバイス。
 夜、O高校の広報委員長のSさんからファックス。第1号の発行時に比べ、今は委員が積極的になったと喜びの声が書かれていた。

児童生徒緊急サポートチーム
【No.162】 2003年10月04日

 秦野市の教育委員会が設置した「児童生徒緊急サポートチーム」に加わっている。このチームは、新しく法整備がされた「出席停止の児童生徒」を助けることを目指している。構成員は児童相談所、保護監察官、臨床心理士、青少年相談員、それに退職教員である。
 きのうはその連絡会が西中学校でもたれた。西中が抱えている生徒指導の課題、特に授業放棄をしている子どもたちヘの対応を話し合った。授業もみせてもらった。私もこの西中に勤務したことがあったが、そのころと今の子どもたちの家庭環境がかなり違っていることに少しとまどった。 
 「教室に入らない子」ではなく、教室に「入れない」子という認識が、周囲の人たちに必要だと感じた。 
 校長先生の「学ぶ教師のみが教える権利がある」という教育理念を知り、教育への情熱を感じた。公教育がかなり苦しくなっている今だからこそ、この言葉に真剣さを感じる。頼もしく思う。
 授業見学の間に図書屋にも入った。そこで図書整理の仕事をしていた女性が「武先生ですね」と声を掛けてくれた。佐竹かおりさんで、15年前この棟で一緒に勉強した生徒だった。フラッシュカードの授業と新聞づくりのことをおぼえていてくれた。彼女は、今の子どもたちへの感想として「先生に恵まれ過ぎている」と言った。意味深長な言葉だった。

秋 好天の一日
【No.161】 2003年10月02日

 昨夜、K先生から「新聞のスクラップを授業で取り組んでいる」という報告があった。6月におこなったセミナーの実践である。
 寺山ウオークの下見としてコースを歩いてみた。汗ばむ好天の秋。歩きながら、寺山のよさをあらためて感じた。ついでにゴルフ場から富士を見た。こんな景色を見ながらゴルフができるのなら、やってもいいと思った。
 今度のウオークに助手をしてくれる寺山の人を探していたら、Nさんがやってもいいといってくれた。孫の中学生も一緒らしい。寺山の良さを知ってもらうウオークだから、地元の人が一人でも参加してくれることはうれしいこと。参加者の大半は京浜の人たちだから。
 
 キンモクセイの香りがただよっている。花言葉は「謙遜」だそうだが、なにか違うような香り。もっとも、数日ですべて咲ききってしまうのだから、謙遜でもいいか。

9月28日  秋です
【No.160】 2003年09月29日

 午後、隣組で昔からお付き合いがあったキヨ子ちゃんちが引越しの挨拶に見えた。一歳年上のキヨ子ちゃんは私の野菜作りの先生「わかんねえよ。でも私はこうやってんのよー」と言って、作物の作り方を教えてくれた。キヨ子ちゃんではなく、息子夫婦がお別れをしに来た。
 夜、煙草祭りの花火が権現山から上がるのを眺めた。秋の花火はきれいだ。東の風がかなり吹いているので硝煙が漂わない。上がった花火は、その風で西向き崩れるように開く。700発とか聞いたが、あっという間に終わった。時間にすれば20分。最後の花火は大きな枝垂れ柳だったが、これだけは光の余韻が長かった。いかにも最後という感じ。秋の花火だからこれでいい。中天に火星があった。

9月24日 年齢相応の一日
【No.159】 2003年09月25日

 8時30分に日赤病院に入る。鼻炎の治療。ほとんど変化なし。薬局の薬剤師さんが「もっと強い薬をもらったら」という。9時45分、予約の関歯科へ。毎週一回通っていて、もう一年半。関歯科は隣組、私の教え子。二人で週に一度、世間話を楽しんでいるようなもの。11時30分にバアちゃんのいる温泉病院に着く。昼食の相手をする。「もう病院の食べ物に慣れただろう」と聞くと、激しく首を振る、左右に、である。もっていったキャラブキで食べる。帰って3時40分に亀崎医院に。ここでは高血圧を抑える薬をもらう。善玉コレステロールを増やす食物のリストが付いていた。アサリ、ハマグリ、ホタテ、ズワイガニ、カキ、…、これじゃあ好物ばかりだ。軽トラとクラウンを乗り分けて動いた一日。疲れた。帰ってしばらく横になった。天気がすっきりしないからビールが甘くない。年齢相応の、凝縮した生活のきのう一日。


台風一過 明日は楽しみ
【No.158】 2003年09月23日

雨はそれほどでもなかったが風がひどかった今度の台風。木の葉が吹き溜まりに山のように積もっている。それを集めた。ほんとは燃やしたいのだが{
風が強いから」と止められた。それで、クロガネヤに行って野菜の種と苗を買った。今からでは遅いのかもしれないが、明日蒔くことにする。 
 このごろ、野菜作りの好きな人が多くなった。どなたも熱心だから、季節を先取りして「先に、先に」と栽培する。それで、本業の農家の人が、釣られて、同じように早く作付けするようになった。キャベツの苗を選んでいたら、Iさんが声をかけてきた。「これから」と言ったら「遅いよ」。
 たくさん作るわけでもない。太い大根も必要ではない。だから、遅れても自然に任せてつくることにした。有機栽培といっても、私の場合は手抜き栽培。
 すでに芽を出した大根や、植え付けしたキャベツや白菜の苗は、今度の台風で吹き飛ばされたようだ。「ウチはこれから」。これがもしかしたら正解かもしれない。台風の前日も耕した畑の土が、適度の雨でよい色になっている。土に向かっていると無心になれる。だから、出来具合など気にはならない。

三役人事
【No.157】 2003年09月21日

小泉総裁の党の三役人事、強気。策略家だね。幹事長に安倍、政調会長に額賀と、次の次くらいと目されている若手を持ってきた。高村、麻生、古賀らを飛び越して、次の次の世代に引き継ごうとしているのか。総務会長の堀内の留任は、ベテラン組に“ちょっぴり配慮”とも見えるが、これは論功行賞。(額賀もこれにちかい?)派閥の長たちはどのようにこの人事を受け止めたのだろう。明日の組閣が見もの。きょうの勢いがたもてるかどうか。 でも、人事だから、いろいろなしがらみが出てくるのだろう。
 外務大臣が誰になるのか気になる。小泉、安倍ラインでの外交は注意しなければいけないから。(敬称略)

 

熱々の焼き栗
【No.156】 2003年09月18日

 きょうで「今年の栗はお終い」と決めて、栗のイガを集め燃やした。数カ所に火をつけたから、かなりの煙、近所迷惑。でもお百姓の畑の煙は収穫のあった証、許してください。そんな火の中で、拾い残した栗の実が元気よくはねる。それを拾い出して食べた。 
 大きな栗の根元に腰を下ろし、手のひらの中を何度も転がしながら、熱々の栗の皮を剥く。ゆでたものと味はまったく違う。香ばしくて、甘い。秋の空を見上げながら、実りの秋を楽しんだ。けっこう幸せ感に浸れた。
 毎年のことだが、小さな実は、一本の栗の木の根元にまとめて置いておく。すると、たぶん鹿だろう、ある夜、この畑に現れて、きれいに食べて帰ってくれる。今年は、昨夜がそうだった。50粒ほどの実がきれいに食べられていた。噛み砕かれた栗の皮がわずかにそこにあった。 
 柿の実には「木守り」という風習がある。それを栗の実でやっているつもり。
 午後「エコー」208号を入稿。9月を休んだので、増ページ。

秋風や
【No.155】 2003年09月15日

 昨夜、Sさんからメールが入った。今朝の朝日新聞の俳壇に徳武先生の俳句が載る知らせだった。
今朝の新聞が待ち遠しかった。
 
金子兜太の選だった。
 秋風や君は筑紫へ彼は黄泉へ  徳武清助

 兜太氏の選評は「構えた措辞に哀別の情ひとしお」とあった。

 「彼は黄泉へ」は、徳武先生が新聞教育を一緒にやってきた園部先生、高木先生、町田先生、斉藤先生の四名への惜別の情である。この御四方は昨年秋から急に冥府へ旅立たれた。
 徳武先生は私がお世話になった全国新聞教育研究協議会の元会長。今は新聞教育に関わったOBの会「関東パピルス会」の会長を務めていらっしゃる。良い句に出会えた。先生にお祝いの電話を入れた。

きのうの日記
【No.154】 2003年09月12日

 午前8時30分に栗畑。小粒がたくさん落ちている。見張りをしてくれるTから缶2本の差し入れ。「ポックリ行きたいね」などと話す。10時に帰ってきて、庭続きの畑の草取り。荒れ放題で手を焼く。この仕事は昼飯まで。午後少し横になる。3時に温泉病院へ。担当の医師やケアマネージャーなど4人らこれからの治療の話を聞く。快方に向かっているとはいえない。帰りに栗を知人宅に届ける。「エコーが届かないので、先生に何かあったのではと心配していた」と言われた。続いてもう一箇所寄る。SEDAに「寺山物語」の原稿を渡す。12月までに完成の予定。私のいない間、Mさんが家族新聞NO29号を持ってきてくれた。5時過ぎ、Nさんも購読料をもて来てくれた。二人とも「エコー」の届かないことをいぶかっての来訪のようだ。申し訳ない。今夜のビールは甘かった。満月を寝床で眺めた。

 野中広務代議士が今期限りで引退すると発表した。古武士然とした風貌、そして話し方が好きだった。政治家とは、自分の理想、主義・主張のために生きなければならない。もちろん、国民のためにである。野中が、青木や村岡をナジったのは大人気ない、醜態と言う者もいる。しかし、小泉と別な政策を唱えながら、この期におよんで支持に回る、という実利主義者の方がもっと醜い。「政治はよりベターなものを追う」ことであるのも確か。だが、政治生命をかけて、小泉政治に対峙する野中に“潔さ”を感じる。野中は現憲法を擁護する姿勢があった。軍事大国ヘの道を取ろうとする、今の政治を危惧している政治家だった。
 10日の朝日の『素粒子』は「裏切りは政界の定法だろうに、いまさら『裏切られて』だの『悲しい』だとは、一代の策士のせりふとも思えない。野中広務氏敗北宣言。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。派閥政治の終焉である」と切手捨てた。そして11日、『素粒子』は言う「なぞなぞ3 いるはずだけど影も形も見えないひとだあれ。それは自民党橋本派会長」
 次は青木氏について何を書くのか。書くに足らずなのか。政界の定法だから解説不要か。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」でなかった野中氏を私は買う。77歳、彼は敗れ去るだろうが。

今朝の庭
【No.153】 2003年09月09日

朝6時、寝床から縁側越しに庭を眺めた。桜の梢から朝の秋の空が透けて見える。この夏の異常気象のせいかもしれない、葉の散り具合が早いようだ。温度計を見たら27度、それほど低くはないのだが、すっきりとした秋の朝を感じた。今朝も朝顔はまだ20ほど咲いているが、花はすっかり小さくなった。朝顔の季語は『秋』、案外こんな朝顔が本当の朝顔なのかもしれない。花にミツバチがもう来ている。エジプトの朝顔−苗をくれたMさんがそう呼んでいる−(本当の名前は分からない)は、夏と同じ勢いで今朝も濃い紫の花を二つつけている。椿の下にミョウガが繁っている。その根元に白っぽいものが見える。たぶん、ミョウガの花だ。もう呆けているのかもしれない。
 横になったままの視線・視角は、見慣れた庭でも新たなものを発見させてくれる。先週土曜日の朝日新聞be版で「病床六尺、これが我世界である」という正岡子規の東京・根岸での晩年の闘病日記が紹介されていた。 
 普段と違う、低い視線から周りを見ることはこまかい観察ができるのかもしれない。

日本蕎麦と油絵
【No.152】 2003年09月07日

9月6日
9時から菊の勉強会。見てもらうのも恥ずかしいくらいの貧弱な鉢もって出かけた。年毎に出来が悪くなっている。「勉強不足」このひと言、分かってます。庭続きの畑だって草ボウボウなのです。忙しいのです。 
 11時過ぎに病院へ。食事を待っているところだった。ウチの茹で栗を持っていったので、食べてもらった。喜んでくれた。1時半ころ、病院の前の蕎麦屋さんで昼食。ここのお嬢さんは、私が現職のころ模擬面接試験をしたことがある。印象に残っている子だった。食事の後お父さんにその話をしたら、大学で美術を専攻して、今は油絵の修行中とか。そういえば、店内に彼女の油の作品がたくさん飾られている。「日本蕎麦に油絵」だが、親の心が表れている。帰ってから栗畑へ。かなり汗をかいた。10キロくらい収穫。
 5時ごろ、守屋さんが今朝釣ったというカツオをさばいて(刺身)、わざわざ持ってきてくれた。感謝。リタイア1年目、生き生きとした表情。若返っている。
 タウンニュースに「ソバを蒔いている」記事が出た。一ヵ月後、この人たちを案内して『大山道・寺山の里』を歩く。その準備をしなければいけないことに気付く。

9月1日 の寺山物語
【No.151】 2003年09月02日

 昨日は9月1日、例年どおり栗畑に行った。この夏の気候、そして今年になって7本も枯れてしまったので、あまり期待はしていなかった。だが、軽トラで出かけた。私の“いでたち”と言えば、麦わら帽子、手甲、カーキ色の作業ズボン、そして首にはタオルと本格的である。
 植物とは律儀なもので、やはりもう実は落ちていた。だが小粒で数量も少ない。ところが、かがんで栗拾いをしている私に、上のほうからの視線があるのに気づいた。栗畑は道から数メートル下にある。見上げると、Tさんの奥さんが道端にしゃがみこみ、畑を覗き込んでいる。ときどき咳きばらいもしている。Tさん宅は栗畑を見下ろす位置にあって、畑の様子が良く見える。しばらくして、奥さんは家に戻り、私に聞こえるように、ご主人に大声で話しかけた。「あれは勝美ちゃんじゃないよ」「そうけえー」とご主人。どうやら、私は“栗盗人”と疑われているようだった。いまさら「勝美ちゃんですよー」とどなるわけにもいかない。今度はご夫婦で畑の私を見ている。お二人に“勝美ちゃん”だと知ってもらうには、と考え末、畑じゅうに落ちている栗の枯れ枝を拾い、一カ所に集める作業をすることにした。(これはまったく予定外の仕事。)そんな私の行動を見て、お二人は安心して家に戻っていかれた。
 市道で、通学路で、バス通りのすぐ下にある栗畑。ここには、この季節になると鹿や猿が姿を見せる。そして時に、この畑にまったく関係のない人も現れる。
 きょう2日、畑に行った帰りに“見張り”をして下さったお二人の家に寄った。そして「昨日は私だったから」とお礼を言った。「軽トラがあったから、はじめは勝美ちゃんじゃないと思ってよー」「でも、だまって拾っていく人はあんなに長く畑にいないから、勝美ちゃんだとわかって、安心したよ」  私の作戦は成功したのだった。

八月の終わりに
【No.150】 2003年08月31日

この夏、とうとう一度もこの部屋のエアコンは使わなかった。8月の終わりのころに少しすこし暑さが戻ってきたが、耐えられないほどではなかった。でもきょうは蒸した。
サーバーの都合で、ホームページのアドレスを変えなくてはいけなくなった。けっこう手間がかかる。名刺も作り変えなくてはいけない。破れかぶれでメールアドレスも変更する。もっとも、この変更は「良いきっかけ」と言えなくもない。なにしろ、毎日20本ほどの迷惑メールが入ってしまう(すべて中国語のもの)。
 この夏の収穫は“アレルギー鼻炎”。7月の半ばから患って今も進行中。検査の結果は「カモガヤ 5」「ハンノキゾク 5」「スギ  3」「ブタクサ 2」「ヨモギ 2」「ヒノキ 2」「カ゜ 2」「ハウスダスト 2」と見事なもの。数値は0→6でもちろん6が最悪。診断のお医者さんの言葉「見事に出ていますね。すごいですね」。私の感想「自然の豊かなところに住んでいるなあ…」(ため息!)
 今月も家族新聞が7紙届いたのに、『エコー』はとうとう休刊。次号は合併号として、しっかり発行したい。今月うれしかったこと、大内文一さんの『新聞と教育』の復刊。

なぜかショウを見ている感じ
【No.149】 2003年08月30日

きょうは、秦野市は「防災訓練」の日。9時過ぎに自治会の防災倉庫の前に集まる。清水自治会の参加者は、幼児や小学生なども含めて25名ほど。土曜日のせいか、いつもの年より少ない。
 10時から東中学校の校庭で、市の総合訓練が始められた。ヘリコプターが上空を舞い、自衛隊も参加、救難犬も出動。100人ほどのバケツリレーの消火訓練もあった。間近に迫っているという東海沖地震ヘの対応のための訓練なのに、なぜかショウを眺めているような気分の2時間余。  
 そんな中で、東中の2年生12名が消火栓の放水訓練に取り組んだのが好評(?)だった。なにしろ、二本の筒口を抱えたのが4名の女生徒。放水が終わってホースを巻き上げる作業も見事にこなしていた。私が中学生のときも学校自衛消防隊があった。だが隊員はすべて男子だった。
 そう、アルファ米の炊き出しもあり、昼食はそれを食べた。おいしかった。やっぱり緊張感・切迫感はない私だ。
 ニュージーランドに留学している隣の朋子さんから、友達を通して土産が届いた。
 

松岡豊治先生
【No.148】 2003年08月28日

母の病室で校歌を歌った医師は松岡豊治先生です。なんと私の叔父と秦中の同級生でした。松岡先生は今年一月『老人病院こぼれ話』というエッセイ集を出版されていた。校歌を一緒に歌ったおかげでそのご著書をいただくことができた。昭和60年から『日本医事新報』に連載をされたものを単行本化されたのだ。「生・老・病・死」という言葉を身にしみて感じる本。あつかましくも「エコー」に転載許可のお願いをした。許していただいた。
 病院でのバアちゃん食事は進まないようだ。秦野生まれ・明治人・農家の主婦だから、辛い味でなくてはダメ。ソバ屋さんのツユなど、バアちゃんにとっては論外のもの。“生醤油”でなければダメ。
 週五日、昼食時に食事の世話をしに行く。そのとき必ず妻が作ったキャラブキを持っていく。その味は当然だが“バアちゃん譲り”である。白いご飯にキャラブキをのせて出すと「これで食べられる」とにっこり。人は幼い頃食べたことのないものは食べられないのだそうな。年齢が嵩めばかさむほど、新しい食べ物には手が出ない。胃腸に自信がないから。
 そろそろマツタケのシーズン、だが私は食べたことかないものは食べられないのだ。本当だろうか。腹いっぱい試してみたい。

やっと 軽トラ出動
【No.147】 2003年08月25日

ついに軽トラで栗畑に行った。買ってから一月以上も経って、ようやく軽トラに本来の仕事をしてもらったのだ。栗畑の草刈りを3時間、暑い日差しの中だったが、私としては楽しんで仕事ができた。 
 今日届いたたよりに「“軽トラ” びっくりしました。すごいですね。私も今いちばんほしいものです」とあった。たよりの主・F氏も、農作業に精を出す教員のOB。これでは明日もがんばらなければ。それにしても草の勢いはすごい。
 

母の病室で
【No.146】 2003年08月24日

 母が三度目の入院わした日。母のいない病室で、妻とぼんやりしていた。そこに入ってきた医師が「武さん、蓑毛でしたっけ」と尋ねてきた。
 「いいえ、寺山です」
 「そうですか、蓑毛に武という同級生に武゛いたような記憶があってね」
 「なんというお名前ですか」
 「私は勉強が嫌いで、学校にあまり行かなかったので、同級生の名前をほとんど覚えていないのですよ。ところで失礼ですが、高校はどちらですか」
 「秦高です」
 「それじゃあ 校歌を歌います」
 あまりに飛躍した言葉にあっけにとられいる私たちに背を向けて、その医師は朗々と歌い始めた。
 ♪広畑が丘空晴れて 相模大野の末遠く 努力重ぬる行手には♪

 ここまで聴いていた私はなぜか、彼に唱和した。
 ♪桂の薫る島のあり 楽し勇まし我等の歩み♪
 妻は唖然として、私たち二人を見ていた。
  
 病室の窓から見えるスーパーSANWAの屋根越しに、阿夫利嶺(大山)が夏の霞に包まれて聳えていた。校歌の三番に
 「朝暮微笑み聳えつつ 阿夫利の山に啓示あり」とある。
 出会いとはなんとも魅力的なものである。

 西山家 全農会長賞を受賞
【No.145】 2003年08月20日

 『エコー』の読者の西山さんは私が初めて担任した教え子の一人。その彼女から「日本農民新聞」が送られてきた。その紙の6面全面に、「西山家が全国施設園芸共進会で全農会長賞を受けた」記事が載っていた。女性経営士でもある彼女は、ご主人と息子さんとでトマトとキュウリの周年栽培をしている。西山家は今、軒高ハウス19棟・6831uの施設面積とある。10年くらい前、厚木に彼女を訪ねたことがあった。そのときと比べ、さらに経営規模は大きくなった。「受賞おめでとう」のお祝いの言葉に「くれぐれも健康に留意を」を添えて返書を書いた。

きょう誕生日
【No.144】 2003年08月18日

 MSブラストとかいう新しいウイルスの洗礼を、8月11日にいち早く受けた私のパソコン。体調不良と相まって気力は全く無しの生活が続いた。だが、今日8月18日は67回目の誕生日。またキイボードを叩くつもりになった。そのきっかけは届いた一枚のバースデーカード。こんな文面だった。
 「古い年齢は必ずお捨てください。自分の年齢をよく確かめてください。新しい年齢を使用せずに放置しても、自動的に移行されますので、ご承知おきください。耐用年数は一年です。」
 雨が上がったら一気に蝉が鳴きだした。「あと車一台分の余生」など彼らにはない。「やりたいことがある」というわけではない。生きているから何かを感じたい。
今日の「朝日俳壇」
 茎も葉もトマトの匂ひ放ちたる  所崎知子

楽しく家族新聞づくり
【No.143】 2003年07月23日

 22日は北公民館での『家族新聞づくり』講座の一日目だった。5家族12名の参加があった。子どもは7人で小学生だけ(男3女4)。夏休みのまとめを家族新聞でしてくれたらいい。
 母子で紙面に載せることを話しあってもらった。「今、家族の中でがんばっている人」「ほかの人は知らないが、私だけ知っていること」などという項目の話し合いは、楽しそうだった。夏休みの半日、こうして母子で参加するだけでもよい思い出になるだろう。来週30日が発行日。どんなものが生まれるのか、と私の期待は大きい。

母にバースデイカードが届く
【No.142】 2003年07月21日

この日記に母が94歳の誕生日を迎えたことを書いたら、Sさんからメールでバースディカードをいただいた。ありがたいこと。
 昨日、妹が来た。誕生日のプレゼントはお手製のバミューダショーツ。バアちゃん、喜んで早速履いてみた。柄がチェックのせいか、いや、その体型から、スコットランドの男性が身につけるキルトみたいに見えた。(バグパイプの音が聞こえてくるような)
 今日は『お風呂』の日、入浴をさせてくれる三人のスタッフが、母の入浴中に一緒に歌を歌ってくれる。「星影のワルツ」くらいは付き合えるらしいが、「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の」などという曲になると『八重子さんのリサイタル』になる。バアちゃんの歌は、歌うといってもほとんど抑揚が無いのだ。「よく付き合ってくださって」とお礼をいうと「私たち、八重子さんに教えてもらっているのです。ここで憶えて、次の人のところで役立てています」と言ってくれる。

ハピーバースデイ 94歳
【No.141】 2003年07月17日

  16日、今年の朝顔が一つ咲いた。白の縁取りで赤。天候のせいか夕方までしっかりと開いていた。今年買った種なので、そういう品種なのかもしれない。ニイニイ蝉の鳴き声も今日聞けた。 
  一日遅れで、バアちゃんの誕生祝いの夕食会をした。誕生日のパーティーといったところで、四人だけの会。「何歳になりましたか」と聞くと「歳? 忘れちゃった。ハズカシイ、94」と笑う。

お盆です
【No.140】 2003年07月15日

13日  (日)  曇りのち雨
午後、軽トラでの初仕事。お盆の辻の竹を取りに行った。帰って雨の中、辻を作った。去年よりていねいなものになった。4時ごろ迎え火を焚く。近所の7軒の辻にお線香を上げ、お参りをする。これは昔は子どもたちのすることだった。今の子どもは忙しく、その姿はまったく見られない。次の世代になったら、この風習も消えてしまうのだろう。たぶん、彼岸から帰ってくる私に、迎え火は見えないだろう。松島家、杉野家、お盆の墓参りに来る。
 夜、中3のWさんから電話。新聞づくりの相談。「高校生活と部活動」を記事にしたいらしい。それで秦野高校の新聞委員のCさんを紹介してやる。

14日   (月)   曇りときどき雨
 公民館で行った家族新聞づくりの受講者Nさんからステキな家族新聞が届く。この若いお母さんの美的センスはみごと。2号まで発行。これからも続けばいいのだが…。
 17日が締め切りのP誌の原稿を二本書く。長崎の事を意識して書いたつもり。雨が多いせいか、ひょうたんの新芽に毛虫がたくさん着いていた。

車一台分の余生
【No.139】 2003年07月11日

きょうは大安。朝9時半に車が来た。二台目をとうとう買った。退職してからずっと考えていた。買ったのは軽トラ。「営農サンバー」というやつ。農作業用の車だ。 栗拾いや竹の子取りにクラウンでは、やっぱり絵にならない。 セールスに来たのは教え子。「先生、そんなに乗らないと思うよ。クラウンでいいでしょうに」。浪費だ、と言いたいらしい。売る気はあるのか、と思った。 でも、よく考えてみれば、運転できるのはあと数年。営農と言っても栗畑と竹やぶに行くだけ。
 「いまさら」という思いは買った今も、私にはある。軽トラを買ったことによって、いよいよ終点が現実になったように思う。
 今週の朝日歌壇でこんな一首を見つけた。
 「あと車一台分の余生ね」と妻の言葉に愕然とする  花上直之
 「愕然」とはしない、買いたくて買ったのだから。だけど、残りの人生と車の耐用年数を比べれば、感慨のようなものは感じる。
 とりあえず、郵便局まで行き、ついでに蓑毛の大日堂まで走ってみた。4WDでオートマで、エアコン装備なのだ。 
 

教育観
【No.138】 2003年07月10日

長崎での痛ましい事件については、少し時間がたってから考えてみたい。今・現在この事件に対しての情報はほとんどないのだから。

こんな新聞の記事があった。(朝日新聞・7月8日)スポーツ欄だから、と
は思うのだが、長い間教師をやってきた私には、理解できない内容だ。

 「私が高校の教員になったのは、サッカーの指導者になるためだった。日 体大を卒業するとき、当時の日本リーグのチームから誘いがあった。だが自分は日本代表になれる選手じゃないと、見極めをつけていたので断った。でもサッカーにはずっとかかわっていたいという思いがあったので、高校でサッカーを教える道を選んだ。教員時代は朝練習、授業、午後の練習と、朝7時から夜9時まで学校にいた。常に選手と顔を合わせているうちに、指導者と選手という関係を超えた強い連帯感が生まれた。素晴らしい体験ができたと今でも思う。昨春、「来年度は異動」と非公式に伝えられた。市船橋高とはサッカーのレベルが全く違う学校へ転勤するかもしれない。それを聞いて正直なところ、やる気がわいてくるという気にはならなかった。教員でサッカーを教えるという環境に限界が見え、プロコーチヘの転身を決めた。サッカーを教えたいという教え子もいる。だが採用数が少なく、狭き門を通過しても、サッカーのやりがいがある学校に赴任できるとは限らない。教員になって子どもにサッカーわ教えたいという教え子もいる。今、個性の時代といわれている。公立高校にも進学重視の学校、スポーツにカを入れる学校、芸術の分野を充実させる学校などがあっていい。ある高校は野球、ある高校はサッカーというように、特色ある学校を地域ごとに設け、指導力のある教員を配置する。行政がそんな方針を打ち出してもいいのではないか。このままでは、スポーツに意欲を燃やす教員の人材が埋もれてしまう。各都道府県のスポーツの強化、ひいては国の強化が地盤沈下していく。 布啓一郎(15歳以下日本代表監督)」
 
 布監督にとっても、子どもたちにとっても、教員からの転身はよかった。

七夕
【No.137】 2003年07月07日

 毎週土曜日、デイリハビリに行っている母。5日は七夕飾りを作ったという。短冊に願いごとを書いたらしい。そのときのバアちゃんの話。
 「施設の人が私の代わりに願い事を書いてくれると言うので『病気の神様、私のところから遠くに行ってください』と書いてと言ったら『武さん、病気は“神様”じゃないよ』ってその人が言うのよ。だから私はね『病気でも神様みたいに崇めてやればきっと私のところから離れてくれるから、そう思うから“病気の神様”でいいの。そう書いてください。お願いします』とその人に頼んだの。ほんとに、もうクサクサ。早く一人で歩きたいのよ」
 今日は七夕です。

 庭木の剪定作業を楽しみ過ぎた。ダウン。

「ヒシミラクル」を買った男性
【No.136】 2003年07月02日

競馬はときどきテレビで観戦する。と言うのも、武豊という名ジョッキーが出現したから。武豊さんのお父さんは武邦彦、この人もジョッキー。その「邦彦さんのお父さんは秦野の人」と、どこかで聞いたものだから、そのことを私の自己紹介に使ったりしているが、競馬場に足を踏み入れたことはない。
 その競馬の話。この前の日曜日、「宝塚記念」競争があった。(もちろん豊君も乗った。)このレースに勝った「ヒシミラクル」という馬に1200万円余を賭けた人がいた、という。
 馬券を買う人は、当日レースの前のパドックで馬を観察して、最終的に決めるのだそうな。それなのに、この1200万の中年男性は、前日に新橋の場外馬券場で買っている。馬券を一度に買える限度は50万円まで。しかも高額なので複数購入用紙が必要らしい。総額は1222万円だったそうだから、50万円の購入用紙25枚に「ヒシミラクル」と書かなければいけない。それを書いている間に《心変わり》《不安》《迷い》などなかったのか、この男性は。確信に満ちたその行動に、私はただただ畏敬の念を持つだけ。この日勝った『ヒシミラクル』の賞金は1億3000万円、この男性が得た配当金が1億9900万円だという。だが、私は思う「この人は勝負とかギャンブルの世界の人ではない」と。
 『エコー』206号 先ほど投函してきた。

6月27日 6月28日 充実の二日間
【No.135】 2003年06月29日

6月27日
 10時半、御詠歌を練習しているグループに寺山の「まわり地蔵」の話を聞くために円通寺に行く。(「まわり地蔵」については、来月一日に『寺山物語』でアップする。) 12人の女性から寺山の民俗についていろいろ聞かせてもらった。寺山物語の新しい題材を一つもらった。久保と宝け谷戸で行っていた念仏講で、大きな数珠が使われていたこと。その数珠が今も保存されていること。来月の練習会で取材させてもらうことにした。 
 午後は隣町の小学校のPTA広報委員長さんの訪問を受けた。いろいろな点で、前年までのものと大きく変えたため、その評価を得たいとのことだった。一見しただけで「みごとなでき」と思った。「次年度の人たちにプレッシャーを与えてしまいそうだけど、私たちは、私たちができることを一生懸命やるだけ、と話し合いました」との言葉。そのとおりだろう。過去をそのまま引きずっていては進歩も発展もない。

6月28日
 午前中は東市公民館で家族新聞づくりの二回目の講座。きょうは実際に新聞を作る日。なぜかお母さんたちの姿が減り、子どもたちの数が増えた。小学校三年生から中学三年生まで10名、そのうち男の子は二名。二時間のがんばりで発行までたどり着いたのは一紙だけだった。だが、他のどの家族も清書に入っていたので、近いうちに完成するだろう。送られてくるのを待ちたい。 
 夕方から内藤前教育長さんの歓送会。36名の会で、リタイア組は内藤先生を含め5名。年齢順に数えたら私は4番目だった。出席者全員が内藤先生から受けたもの、得たものを語った。教師が無意識のうちに、あるいはまったく意図していない中での言動が、時に子どもたちに大きな影響を与えるということを改めて知った会だった。現役バリバリの先生たちから今の学校教育についていろいろ聞かせてもらった。今夜は歌は出なかった。

草が伸び放題じゃないですか
【No.134】 2003年06月26日

 昨日は北中学校で新聞づくりの講習会。期末テストガ終わった午後が新聞づくりではかなりタイヘンだろうと同情した。対象は一年生。学年4クラスで、それぞれのクラスが班活動を行っている。≪班活動≫なんて、なんとも懐かしい言葉。その班に新聞係が置かれている。それで30名ほどの参加だった。ビデオなども使い90分がんばってもらった。少しでも新聞に興味を持ってくれたら、これからの新聞づくりにも役立つのだが…。
 講習会が終わって、参加してくださった教頭先生など4人の先生方と雑談をした。そんな中で「先生、このごろあまり畑仕事をしてませんね。お元気ですか。畑が草だらけじゃないですか」とH先生の言葉。「エエ? どうして知っているの」と私。「学童保育のお迎えに毎日、小学校に行ってます。そのたびに先生の家の畑を見るのですが、先生の姿は見えないし、草が伸び放題。心配していました」
 と言うわけで、きょうは畑でジャガイモの収穫(もうよそはとっくに終えているのだそうな)をした。雑草の中でもかなりの出来。けっこうな量。
 H先生、きょうは畑を眺めて「私の指導が行き届いた」とニッコリするだろう。そのとおりです。教師は、子どもに励ましの言葉と適切な指示をしなくてはいけないのです。

美空ひばり
【No.133】 2003年06月24日

日曜日に妹たちがバアちゃんのご機嫌伺いに来た。いつもならおしゃべりをするのに、その日はベッドで横になったまま何も話さない。出た言葉は「帰っていいよ」。そしてお得意の“バイバイ”の手をふる挨拶。「せっかく来たのに」と言いながら二夫婦とも午前中で帰って行った。 
 日曜日のバアちゃんの仕事は、テレビの「のど自慢」と「笑点」を楽しむこと。だが、この日のバアちゃんは「のど自慢」の途中から居眠りを始めた。「笑点」のときもほとんど眠っている状態。少し気になった。
 夜7時から、美空ひばりの歌の特集があったので、テレビの前に車椅子で座らせた。そしてその反応を確かめることにした。こういうことが、言われている「老人虐待」なのかもしれない。
 知っている歌がたくさんあったのだろう、一時間はがんばれた。

 美空ひばりの歌で私が好きなのは「津軽のふるさと」。この歌は歌曲に近い。「みだれ髪」を聞いてFさんの歌を思い出す。
 1937年生まれの美空ひばり。終戦間じかのころ、横浜から疎開してきた同級生がいた。いじめられっ子だった。そして終戦、彼女が売れ出してから、この同級生は、突然クラスのヒーローになった。彼は「美空ひばりと同じクラスだった」と言ったから。今思えば、見事な生活の智恵だった。

 きょう6月24日は≪りんご忌≫

親子で楽しく新聞づくり
【No.132】 2003年06月22日

21日の「親子で楽しく新聞づくり」の講座、 8家族の参加があった。子どもは小学6、5、3年生の4名。前半は『新聞』について興味を持ってもらうため、その日の新聞を使った勉強。新聞の値段がどこに書いてあるのかを発見したり、発行号数から創刊年を計算することもした。私の「新聞の題字」のコレクションをコピイして配った。夏休みにこのコレクションを増やしてくれたらうれしいのだが。来週までに家族新聞の題字を書いてくることが宿題。
 午後、鶴巻公民館の「地域から不登校・中退を考える」講座に出席。『フリースペースたまりば』の西野さんを招いた。20名を目標にしていたそうだが、40名を超える参加者。小さなサークルが企画の充実した講座だった。母親たちの力、そしてそれに協力した公民館の力がこれだけの講座を開催させた。「地域に生きる」という意味をこのことからも感じた。

いじめないでください
【No.131】 2003年06月19日

 昼間かかっくる電話はたいてい勧誘か商品の紹介。墓地、屋根の葺き替え、エアコンの掃除、化粧品、そしてダントツに多いのが利殖のお勧め。
 きょう 同じ商品取引の会社の三人の外交員から電話が来た。私はナメラレているのだ。
 「私の名前が社内でたらい回しにされているのか」と尋ねた。答えは「ウチの会社は大きいですから、そんなことはしていません」。これからこの社名を名乗る電話には「あなたの会社は信用していませんので」と申しあげるしかない。
 証券会社からは「お客様マニュアル」を読み上げていることが分かるような勧誘の電話。私がていねいに、しかし口数少なく対応したので、なぜか相手が含み笑いになった。そして言った「私 新人ですからいじめないでください」。
 冗談じゃないよ。途切れることなく、しかし内容はほとんど分かっていないような平板な口調の電話。こっちは切りようがないから受話器を耳にしているだけ。だいたい「私は新人だから」などという言葉を口にしただけで、もうその商品の信頼度はゼロというもの。 

秦野市教育研究所で新聞教育の研究
【No.130】 2003年06月17日

秦野市教育研究所が二年計画で「新聞教育」の研究を始めた。研究員として小学校2名、中学校4名の先生方が委嘱され、この4月にスタート。新聞づくりにかかわってきた私としてはとても嬉しいこと。私は東中の新聞委員でもあった。できることがあるなら協力したいと思う。
 昭和25年に秦野東中で始まった秦野の新聞づくり。その50余年にわたる秦野の新聞教育活動をまとめ(記録し)、これからの新聞教育の方向性を考えるこの研究。「秦野の教育」の再構築でもある。
きょう、私が持っていた東中新聞と西中新聞のバックナンバーを研究員の守屋先生に渡した。「できれば、学校か研究所でこの新聞を保管して欲しい」とお願いもした。景気がよい時代なら、縮刷版として出版もできただろうに。なんとしても保存だけはして欲しい。当時の学校の様子が分かる資料として、とても貴重なものだと思っている。
 
 この新聞活動を秦野東中に取入れられた新倉壽造先生の訃報か今日入った。新聞についての聞き取り調査に、ご協力いただくはずだった。
 

【No.129】 2003年06月15日

 昨日は9:00から東公民館で行われた「朝顔のあんどんづくり」の講習会に出た。私も会員になっている秦野園芸愛好会が、ボランティアで毎年行っている講習会。今年は30名を超える参加があった。会のメンバーは全員が元教師ということで、「教えるこ」とについては自信がある。何を聞かれても適切に答えられる人、ユーモアたっぷりに教える人、けっこう厳しく指導している会員もいた。
 私はこの愛好会では「研修」担当だが、園芸の研修ではなく県外視察担当、要するに旅行係。本来の研修にもっとも遠い位置にいるのが私。他の会員のように受講生の中に入って行って、指導するような技術や自信がない。だから、今年もみんなの周りをウロウロしていた。
 受講者の一人に知り合いのTさんの顔があった。そのTさん、作業の手を止めて「もう残り時間がないのであせってますよ」と話しかけてきた。教え子だった次女がもう50歳を超えたと言う。私の心に染み入る言葉だった。

 今、降っている雨を見つめながら考えていること。
 とりあえず、私が今やらなければいけないこと。
 1、里芋の土寄せ。 2、今週末の「親子新聞づくり講座」の資料作り。  3、ホームページの『寺山夜話』をまとめて印字すること。
 私もまた「時間が無い」。どれを最優先しなければいけないかと迷う。
 ホトトギスがこの雨の中、鳴いている。「キョッキョッ キョキョキョキョ」「キョッキョッ キョキョキョキョ」

母の食事
【No.128】 2003年06月11日

退院一年ということで、母を検診に連れて行った。11時予約なのだが12時を回ってしまった。車椅子なので院内の食堂で昼食をとることにした。会計の整理を待っている間に、妻とバアちゃんは先に食堂へ。
 「何を食べる?」と聞くと「みんなと同じでいい」と答えたという。ここの中華丼はいつも早く売り切れる、おいしいらしい。バアちゃんの入院していたころから、そう感じていた。「お母さんに食べさせたい」そう思った妻は、中華丼なるものの説明を十分して「それでいい?」と確かめた。バアちゃんは「ご飯物だから、それでいい」と言ったという。 
 妻はオニギリを頼んだ。遅れた私は、追いつくためにラーメン。  
 やがて中華丼がテーブルの上に。それをジッと眺めていたバアちゃんは、妻を見てニコっと笑い「これ、イラナイ!」。困ったのは妻。「それじゃあオニギリにする?」と聞くとニコニコと「ハイ」。
 「235番 ラーメンの方」と呼ばれたのでとりに行き、バアちゃん隣に座った私。するとバアちゃんはオニギリを食べるのを止め、私のどんぶりにジーッと視線をやる。そしておもむろに私を見る。 
 「わかった。ラーメン 食べる?」と私。こんどもまたニッコリのバアちゃん。おわんを借りてラーメンを半分分けした。バアちゃんはラーメンが好きなのてす!
妻と私は評判の中華丼を食べられた。もちろん、私は半ラーメンも食べられた。オニギリだけが少しもったいなかった。

6月7日 同窓会でのI先生の挨拶
【No.127】 2003年06月08日

 昨日、50歳を迎える教え子たちの同窓会に招かれた。当時の担任4名のうち二人の先輩は他界され、同年齢のI先生と私が出席。Iさんはその挨拶の中で「東中学校は、初任地ということ。みんなの純真さ。校長先生がいろいろなことをさせてくださったこと。そして武先生がライバルとしていたことなどから、教員生活の中でもっとも印象に残る学校です。」と話された。
 I先生と私はそのころは20代の終わりのころ。
 その時代、二人が東中でがんばったことは、学校新聞の指導。活版新聞の原稿書きを子ども達に徹夜でさせた。用務員のYさんが作ってくれたおにぎりの大きかった思い出。Iさんは卓球部を創設し、三年目のこの子達で県のベスト8。私の持った野球部も市内で初優勝。35年前、東中文化祭をスタートさせたのも二人だった。山好きのIさんの提案で富士登山とニ、三年生の丹沢キャンプも始められた。
 私もまたI先生をライバルとして意識していたのは確かだった。「結婚は武さんがするまではしないから」とIさんは言い、私も「Iさん、先に行ってよ、頼むから」と、笑った私。これもライバル意識の表れだった。新聞の私があるのは、東中でI先生に出会えたからだ。

 彼らから、リストラ、子育て、孫自慢、病気、介護など、たくさんの話をきいた。そして私のひと言がもたらした当時の現実も聞かされた。謝るしかなかった。

【No.126】 2003年06月05日

 いつもの年なら五月初めにはしていること。今日、今年になって初めて栗畑の草刈りに行った。予想をはるかに超えて草が伸びている。
 午前中4時間弱の作業。クリームソーダのペットボトルを作業ズボンの右ポケットに差し込んで、ゴーグルを着け、ほとんど休憩無しでがんばる。と言っても、給油は必要なわけで、10時過ぎ給油のタンクを畑の端に取りに戻った。そこでしばらく腰を下ろしていたら、置いてきた刈り払い機(草刈り機のこと)のあたりで動く物が見える。刈った草をヒョイヒョイと飛び越え、竹やぶに消えていった姿。大きさ、形、何より毛の色が特徴だった。狸だった。刈り払い機のエンジンカバーの色、それに関心を示し見に来たと思った。この栗畑では、収穫のころ猿の姿を見た。そして小鹿にも会えた。ひっきりなしに車が通る県道脇の畑である。こんな作業は楽しい。
 4時ごろ、隣家の小学六年生の女の子がS先生の手紙を持ってきてくれた。その手紙には「一人新聞の第二号に取り組み始めている」とあった。  千成ひょうたんの苗をMさんが持ってきてくれた。今年は夕顔があまり発芽しなかったので、ひょうたんで日除けを作ろう。

朝日俳壇・歌壇
【No.125】 2003年06月04日

5月26日・6月2日
長谷川   鹿の中少年ひとり夏帽子       帷子 黎子
       善光寺平万緑御開帳         宮澤 香子
        更衣職のなき身も鮮しき       宇田 修行
        庭に水打ちて眠れる風起す      酒井  努
        新緑や腕まくりして歯を磨く     小竹梅堂子
稲畑汀   満席の春眠乗せてをりにけり     岩田 公次
        山に向きゐるだけでよき五月哉    深澤 朱実
金子兜   山国や土現れて妻癒ゆる       内山 秀隆
        黒牛と桐の花ある但馬かな      足立 威宏
        少年の青野ふりきるオートバイ    柏倉ただを
川崎展   さくらんぼ欅大樹の下で売る     守屋 典子
         緑陰に少年厚き本を読む       石川 陽子
        あといくとせ軽さうれしき夏布団   井原 三郎
      
子供の日母の日父の日めぐり来る吾には親も子も夫もなし  高原 康子

小泉信冶さん
【No.124】 2003年06月03日

 今週の金曜日にゲストスピカーとしてお招きする小泉信冶さんを訪ねる。
 40年前からPTA活動を通しての知り合いで、今回は私の推薦で「里山と生きる」というテーマでお話をしてもらうことになっている。
 「里山が荒れている、と言われている。『荒れている』という内容が私には分からない。堆肥用の落ち葉も薪炭もいらなくなった今の私たちの生活、とりわけ農業の大きな変化からすれば、里山も変わらなければいけないときが来たということ。里山が自らの力で、苦しみながらも変わろうとしているのだから、それを見守っていくのが私たち百姓のすること。緊急雇用対策事業として里山の掃除などが行われている。その山の十年後、いや三年後の姿さえ私には見えてこない」
 50年もの間、農業に従事し里山と生きてきた小泉さんのこの指摘に、教えられた。79歳の小泉さんの穏やかな表情とその話し方は、話の中身をいっそう魅力的にする。

「永訣の朝」
【No.123】 2003年05月29日

5月27日
 東小の六年生の授業2時間。社会科新聞の指導。1、2組の教室に入る。一人新聞が見出しをつけるだけに仕上がっていた。完成までにはいかなかった。もう一時間は必要だろう。
 授業が終わり校長室で先生たちが来るのを待っている間、今日の指導に使った新聞を広げて読んでいた。
 5月26日の朝日新聞の夕刊だった。15面のコラム『洛中夢』に宮沢賢治の「永訣の朝」のことが書いてあった。山折哲雄先生がこう書き始めている。

 冒頭の一節を声に出すと、いつでも神経が騒ぎ出す。

 けふのうちに とほくへいつてしまうわたしのいもうとよ
 みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゆとてちてけんじや) 

 
 先生たちが現れるまでの数分間、この一節を、なぜだか分からないが、何度も何度も口ずさんでいた私。

 夕方、電話が鳴った。妻の姉・千代子さん「今暁急逝」の知らせだった。

日曜日
【No.122】 2003年05月26日

 朝顔の苗を鉢と露地に移植。夕顔の種はまだ芽が出ない。種苗店に行けば一本98円で売っているが自前のもので花を見たい。なにしろ園芸愛好会の会員なのだから。そのあと庭の草取り。
 前の家との境になっているお茶の木にヤブカラシがもう絡み付いている。その伸びる力はものすごく、一年放って置いたらどのくらい生い茂るかわからない。地中10センチほどのところにその地下茎が長く伸びている。指を差し込んで引き抜くのだが、他の木の根もあるので途中で切れてしまう。それでも長いものは1メートルくらいまで取れる。切れてしまったところからまた芽が出るので、一月も経てば同じ作業をしなければならない。このヤブカラしは畑のあちこちにその芽が顔を出している。春先、機械で耕すのでヤブカラシの根を切り駒裂いてしまう。それが畑一面に散らばってしまうのでいっそう繁殖してしまう。鍬で耕さなければやっぱりダメか。
 夕方5時半過ぎ、庭にいたら若者が道から「波多野城に行く道はこれですね」と尋ねた。「波多野城」という言葉が新鮮だった。「ああ波多野城址ですね。後ろに見える階段を上がって、中学の校庭を横切ると道があります。そこから南の方角に見えますよ」と教えた。彼の手にはガイドブックがあった。この時間、ということを考えたら、結構迷っていたのかな。
 10数年前だったか、ゴールデンウイークのある朝。同じようにハイキング姿の人たちか、後からあとからこの道に入ってきた。いずれも波多野城址を訪ねる人たちだった。手にしていたのは「ゴールデンウイークの散歩道」を掲載したある日刊紙の地図だった。地図が道の描き方を少し大雑把にしたため、みなこの道に入り込んできたのだった。

寒川という町
【No.121】 2003年05月22日

 寒川町のPTA役員研修会・広報づくり講座に出かけた。一時間とちょっと。夏めいた大山街道・田村道を車で行く。田村十字路の手前に喜月堂という和菓子屋さんがある。看板に「大山街道」「創業明治20年」などという文字が見え、小さな火の見やぐらがお店の屋根の上に載っている。どんな和菓子が並んでいるのだろう。
 我が家の前の道も大山道、それが大山山頂に通じ、江の島に向かう田村道につながる。その途中に寒川町がある。道だからどこにもつながっているのは当たり前のことだが、そんなわけで寒川にはとても親しみを感じる。 
 この寒川での講座は今年で連続7回、毎年声がかかるということは幸せなこと。40名ほどの参加者。だが質問が4件も出た。終わってから会場で企画会を開いているグループもいくつかあった。

週末の報告
【No.120】 2003年05月19日

5月16日
 農業に携わっている者の組合・生産組合(農協の組織の一つだが、その存在の意味がらよくわからない)の懇親会に出た。私は正組合員なのだそうな。何を生産しているかといえば『栗』になるのだろう。この間、組合を抜けようとしたら農協から言われた。「武さんは栗を作っているから」。あれは生産ではない。
 スナック「花小路」に6時半、7人が集まる。純粋の農家は一軒だけ。後は公務員やら会社員やら。私は三チャン農業組に入るのだろうが、“非生産”組合員というほうが正しい。お酒を飲んで、カラオケで。少し今年の天候を気にする話をして。 
 久しぶりにマイクを握った。歌ったのは「心のこり ‘わたし馬鹿よね…’」「お吉物語‘セリフ入り’」。相変わらずだね。3時間いたのに、他の客は一人もなし。マスターが言う「不景気と飲酒運転の罰金が上がったので、お手上げですよ。生ビールが売れなくて、味が変わってしまうので、自分で飲んでます。ストレスも腹に来るね」と腹をさすっていた。


5月17日
 大根中で新聞スクラップセミナーが開かれた。当日の様子を伝える朝日新聞の記事。

新聞スクラップの作り方など講習 秦野で教師や父母ら(見出し)
 新聞スクラップを学校教育に利用してもらおうと、「新聞スクラップ講習セミナー」(全国新聞教育研究協議会、朝日新聞など主催)が17日、秦野市立大根中学校であった。同市や平塚市の教師や保護者ら30人が、子供ちに役立つスクラップの作り方を学んだ。教育に新聞を」というNIE活動の一環。同協議会の鈴木伸男事務局長と渋谷区立本町中の本庄伸子教諭が、スクラップを使った授業の進め方などについて講演し、「難しいことを求めず興味あるテーマで張らせよう」などと説明した。朝日新聞記者が取材の舞台裏を語る講演もあった。

 「エコー」の読者が14名も参加してくれた。ありがたかった。


5月18日
 寺尾君(エコーで紹介した“演劇”の高校生)が来た。「新聞のレイアウト用紙が欲しい」とのこと。東中新聞の経験者・鎮西と東島の三人で学校新聞を復刊したい。とりあえず手書きで下地を作り、本格的なものは来年に期待することにした」と言う。演劇が終えたら、今度は新聞?と聞いたら、7月に上演する脚本を今書いているとか。「親父に『二浪をすると性格 変わるから』といわれているけど、結構ヤバイですよ」とニヤリ。うらやましいよ!

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