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2月7日 こんな日もあるのです 【No.75】 2003年02月08日
今日招かれていた小学校の音楽会はインフルエンザのため一週間延期、いま秦野の小学校は学級閉鎖がかなり行われているらしい。 午前中PTA広報の講評を書いた。予定よりだいぶ遅れてお6紙終わっただけ。11時から自治会の会則の原案を検討。12時半から例会。クラブ25周年の記念事業でにpianistの梯剛之さんのチャリティーコンサートを開く。そのチケットが今日から販売されるという。私のノルマは10枚。 3時から文化会館で「緊急児童生徒サポートチーム」の初会合。難しい事業だと思うか、できるだけ協力したい。論議が熱を帯び、終了が予定よりだいぶ遅れて5時。5時から始まっている懇親会の会場へ遅刻の電話。車を置きに帰ってバスに飛び乗る。元気な人たちが40人ほど参加。私もその中の一人であることはしあわせなこと。お開きのあとAさんと居酒屋のハシゴ。お葬式の話などして10時半に帰宅。病院には行けなかった。
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朝日俳壇 歌壇 2月3日 【No.74】 2003年02月05日
川崎展宏 牡丹雪こけしの最後口に点 服部 年男 枯れてこそ揺れてこそプラタナスの実 坂本 祥子 枝先に風枝先に冬桜 高石 幸平 長谷川櫂 プッチーニの生れし町の春の雪 広沢リリアン 久女忌やまつはるものの多かりし 岡本 恵 (花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 久女) 風花のうまるるあたり愛宕山 森岡美智子 稲畑汀子 マフラーをはづせば失くしさうな荷よ 安田 悦子 金子兜太 雪下す日矢盛んなる佐渡を見て 岩田 桂 鮟鱇の流れ出すごとおかれたる 林 達男
西空の大カンバスにローランサンの色彩広ごる時間よ止まれ 淵野 里子
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節分 豆まき 【No.73】 2003年02月03日
節分の豆を持って病院に行った。同室の三人にも少しずつ豆を差し入れした。 Aさんは食べずにテーブルの上に置いて言った。「夕方になったら『鬼は外』って撒きます」。Bさんは「これで退院できる。夕方孫が来るので一緒に食べる」。Cさんは「病院で豆まきができるなんて思ってもいなかった」と喜んでくれた。 バアちゃんは「これで私のからだの中の鬼は全部福になる」と言ってポリポリと噛む。実習中の看護学生さんと話した。一人は新潟、もう一人は北海道の出身。豆まきの経験、思いで思い出はなさそうだった。 私の豆まきの思い出は、大山阿夫利神社に豆まきにいったときのこと。たぶん戦後すぐだろうか、年男(女)だった声優の来宮良子が下山するとき私たちの前を歩いていた(みんなが言っていた)けど、私に誰だかわからなかった。ただ白いハイヒールが今でも目に焼き付いている。地元の宮永岳彦画伯が節分の日、ヘリコプターで大山に豆まきに来て、帰りに東中に校庭に降りた。何年も続いた。校長室でサインをもらったのを覚えている。その色紙はどこにいってしまったのだろうか。
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睦月 花びら餅 如月 豆いた 【No.72】 2003年01月31日
甘納豆でウイスキー」じゃなくて「ウイスキーに甘納豆」で一人旅をしたのははるか昔。ウイスキーはビールに替わり、今は熱燗がいい。甘辛両刀使いで、まんじゅうも好き。鹿の子がとくに好きだ。新潟の岩船温泉の近くのお菓子屋さんに金つばを注文したこともあった。 M先生が新聞のレイアウト用紙を求めにきたが、そのとき『花びら餅』を持ってきてくれた。喜月堂という西地区のお菓子屋さんのもの。お茶席など全く縁のない私だから、そんなお茶受けの和菓子があることなど知らなかった。 半円形よりやや浅い弓形のこの和菓子。白い牛皮に桃色の「花びらもち」という文字が優雅に浮かび上がっている。中は味噌アンでなぜかゴボウが一本両端から突き出るように入っている。「きれいだけど、このゴボウは形も味もねえ」などといっていただいた。そうしたら、29日の新聞のコラムに『新年の喜びと寿ぎ 花びら餅』という見出しで花びら餅が登場した。コラムは「早いうちにお求めを。まもなく睦月も終わって如月です。」と結んであった。花びら餅は鮎の形をしているのだそうな。 今日は1月31日、我が家は夕方『お棚納め』を行う。 2月2日は初午、秦野は白笹稲荷でにぎわう。この参道で売られるのが名物「豆いた」。和光堂の「豆いた」がひいきの私。
ところで 「パソコン」も私も不調です。
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朝日俳壇・歌壇 1月27日 【No.71】 2003年01月28日
朝日俳壇・歌壇
兜太 冬月夜なり雪の舞ふ月夜なり 柏倉ただを 櫂 風花はしづかな顔のうへに舞ふ 日原 正彦 待春のこころに渡る歩道橋 山本 幸子 汀子 流氷の来しほかは街変わりなく 白幡 千種
今週、これしか選べなかったのはなべてわたしの心の状態の問題。
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このごろの子ども このごろの学校 【No.70】 2003年01月27日
自治会の新年会の中で40代のお父さん二人と話をした。二人が同じことを言った「子どもが外で遊ばない。外に追い出すのだけど、地域の子と遊ばない。家の中で、クラスの友だちと、遠いところから遊びにきた友達としか遊ばない。だからクラスが替わればもうその友だちとはサヨナラ。俺たちの頃は近所の上級生からいろいろ世話してもらったのにねえ。こうして自治会で大人が親睦を深めているのに子どもは登校班の時だけ近所の子と一緒。これでいいのかねえ」 中三の子の父親は「昨日私立の願書を出しに行ったみたい。担任の先生が、今年は判らないからみんな私立を受けるように勧めているみたいで…。私たちの頃はそうだったんですか。絶対評価になって不安が大きくなった。週に3回、夜10時過ぎに塾に迎えに行くのもたいへんですよ。学校が少しおかしくなってないですか」 教育の話、思いわ語りたい父親は大勢いるのだ。だけどその場が少ない。 「授業参観、今年は一度も行ってない。五日制になって参観日が平日になったから。自分が子どもの時、母親が学校に来てくれなくてけっこう寂しい思いをしたので、できるだけ顔を出そうと思っていても、行けないんです」と言ったTさんは、父親を小学生の時亡くしていた。
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光と風 【No.69】 2003年01月24日
今朝のこの光と風はもう二月の風情。寒冷前線の通過で空は見事に澄み渡った。 朝からパソコンに向かっていたらバサっという音。ガラス戸にヒヨドリが激突したのだ。そんなにきれいに磨いてないガラスなのに。空の青さが映っていてそれに惑わされたのだろう。かわいそうに脳震盪を起こして墜落。久しぶりに生き物を手にした。温かい。生きているってこんなに温かいことなんだ。 コジュケイが胸をそらせ、尾をたてて小走りに庭を通っていった。2メートル先にジョウビタキ。 今日からコンクール入賞紙の講評を書き始めた。
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東小六年生の来訪 【No.68】 2003年01月23日
1月22日 曇り・晴れ・曇り はがきを出しに郵便局に向かったが、S歯科の前を通って今日が治療日だということに気が付いた。予約時間は過ぎていた。このごろ物忘れが多くなった。 帰りにコンビニで『エコー』を送る人の住所ラベルをコピーした。今日は高校の推薦入学の試験日だった。このお店の子も受験生。これから出かける受験生の子が店番をしている両親に挨拶をしにきた。スッキリした表情をしていた。「試験官の先生の目をしっかり見て答えること。私を合格させないとこの高校は損するよ、と思わせるようにしっかり話をしてきなさい」と励ました。両親の顔は不安げ。4時過ぎ、東小の六年生三人とS先生が訪ねてきた。音楽会の招待状と一人新聞をいただいた。音楽会に行こう。新聞、じっくり読ませてもらおう。
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朝日俳壇・歌壇 1月20日から 【No.67】 2003年01月22日
朝日俳壇・歌壇 汀子 羨しとも十年日記買ひしか 桑田 永子 去年今年去るも迎ふもあるがまま 手塚 基子 兜太 日記果つ八七六〇時間沈殿す 安倍 忠夫 展宏 深く礼して歳末の寺を出ず 石井 史子 注連飾る十年この方この釘に 森光ゆたか 櫂 春著着て鏡の中に入りたる 溝淵 和幸 じつとして居らぬは眼白はた笹子 真城 蘭郷
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貴乃花の引退 【No.66】 2003年01月21日
今朝の大山は霧氷におおわれているみたいだ。(霧氷は見たことがない。)富士の雪は厳しく光っているが、大山の雪は“ほんのり”という感じ。その上を機影を白く輝かせて西に向かうジェット機。
号外が出て、夕刊は一面トップ・紙面の四分の三を使い、ニュースセブンが15分も取り上げ、民放は特別番組を組む。今朝は社説で、コラムで書かれている貴乃花の引退。「分からない」などと言えば、その“へそ曲がり”ぶりを叱られるだろう。いや軽蔑されるだろう。今の日本の唯一の希望の星だったのか。「不借身命」を貫いた(と言われる)人だからなのかなあ。《終り》がこんなふうに受け止められると、これから大変だろう。でもニッポン(日本人)って不思議な国だなあ。
昨日の午後、エコーの読者Tさんが訪ねてきた。湯河原に梅見に行った帰りだそうな。かつての同僚・女性四人の一泊小旅行とのこと。「飲んで語って共感したことは、50歳を超えた今、これから生きる目標がはっきりしていないことに気づき、焦っているということ」と笑った彼女。彼女は5年前から俳句を始めた。持ってきた同人誌に 吹き寄りてやがて吹かれる落葉かな 潮時という時のあり鳳仙花 という作品を寄せていた。
エコー201号出稿。
四十雀、メジロ、ウグイス、珍しくコゲラも庭に来てくれた。見ていて飽きない。
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PTA広報の支えで新聞活動の維持を 【No.65】 2003年01月20日
1月19日 (日) 曇りのち雨 コンクールの二次審査。PTA広報を読んで(眺めて)感じたこと。 見せる広報というのだろう、ふんだんに写真を使い、カラー写真のページも作って、きれいに仕上がった広報。その写真はほとんど学校紹介。学校紹介がいけない、とは言わないが、PTAの視点が感じられない。そして、この種の豪華な広報のスタイルが一つの市とか、ある県とかで、まとまって作られているということ。 たぶん、その地域で、何らかの理由(例えばコンクール)で優秀作品−新聞は作品ではない−と認められると、その広報を参考に、お金をかける勝負の広報づくりになっている。 いっぽう、手づくりで、まさに手書きで、あるいはパソコンを駆使して、しかし苦心惨憺して作っている広報も多くある。予算がない、ということもあるが、自分たちで創る喜びを見つけた、とむいう感じが受け取れる。これがPTA広報に必要な記事かと思うようなものもあったが。
学校新聞は、指導者が代わった瞬間、新聞も変わる、ということを目の当たりにして、考えさせられることが多かった。
PTA広報が健在であるということはいいこと。だが、学校・学級新聞の存在感が教師や子どもの中にれている薄れていることに危機感をもつ。PTA広報の支えで学校の新聞活動を維持するのも一つの方策かもしれない。
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こんな一日 【No.64】 2003年01月17日
1月16日 (木) 快晴
6時半からバアちゃんの朝飯の支度が始まる。食事の終りは8時。Aさん、8時半のバスで『遊の丘』に出かけた。今日は9時から入浴サービスを受ける。「30分ほど留守番していて」と言って、10時過ぎに生活資金を下ろしに銀行へ。帰ってきたら電話。4月15日に「広報講座」をも持つことが決まる。11時半から二人で昼食。2時に三竹正義さんひょっこり訪ねてくる。「秦野らしい教育」について一時間ほど語って帰っていった。O小広報の100号記念号の内容について電話での相談。4時半になり台所に立つ。今夜は焼き飯と澄まし汁。 6時に食事を始める。食べながらテレビを見ていたら「自分らしいお葬式」の紹介があった。死んでなお自分らしさを主張する気はないと思った−今のところは…。それに、そんなことが考えられるのはまだ時間がある人たち。時間があるうちに考えておかなくてはいけないのか…よくわからない。 テレビで「寅さん」を見た。秋月という町のシーンが絵のようだった。岸本加世子がおもしろかった。若い小沢昭一も見た。渥美清の年齢が一番ぴったりあう“寅さん”。どの表情も晩年のものと違い、なんと穏やかなことか。
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ダンゴ焼きの火を見つめながら 【No.63】 2003年01月15日
1月14日 (火) 快晴 ダンゴ焼き、2時半に火をつけた。周りには大人が4だけ。4時ごろになって子たちたちや若いお母さんたちが集まってくる。トータルで50人くらい?もう少し多かったか。ダンゴを焼くとさっと引き上げていく。「ありがとう」というような挨拶をしていく人は少ない。 燃え盛る火を見つめながら思った。何時の間にか道祖神祭りは大人が行うようになっていた。この子たちはダンゴ焼き・道祖神祭りの意味をしっているだろうかと。昨年のお札やだるま、新年を迎えた門松などが各家から集められ、昨日まで置かれていた道祖神の前。もしかしたら、子どもたちには燃えるゴミの集荷場所と同じにしか意識されていないのではないか。道祖神にお参りをする人はゼロ。 この庭の子たちは、道祖神のお札を配って歩くので少しは、この祭りを意識しているだろうが。これからもこの行事は続くだろうから、それなら「子どもの祭りとしての道祖神」の由来や言い伝えなど子どもちや若い人たちに伝えたい。 来年はどこかで話をさせてもらうと思った。 今年、我が家は枝飾りはできなかった。私が風邪を引き山にいけなかったから。ダンゴだけは作ったが、少しさみしかった。
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広報の記事で論議をして欲しい 【No.62】 2003年01月15日
1月13日 (月) 快晴 9時15分に毎日ホールに着く。10時からPTA広報を読み始める。1000は超えているだろう。 学校新聞や学校だよりの代わりしているPTA広報が目立つ。今年ということで「学校五日制」「総合学習」などの特集が多い。 「絶対評価」を特集しているPTA広報についてこんな声が審査員の中から出た。 「実際おこなわれていることを批判するのだから、それならどうするのかという具体案を提起してほしい。」 絶対評価について子どもや親が何が提起できるかといえば、それは現実問題として「その評価の方法への不安とか不満」しかない。それを学校が受け止め、改革の努力を続けることで子どもたちや保護者に信頼されるように努力することだと思う。だから私は昨春から、広報講座で「五日制と絶対評価については全てのPTAで取り上げて欲しい」と言ってきた。新しい制度だからこそ、みんなで作り上げていこうとする心がなければいけないと思うからだ。そのために広報は役立たなければいけない。
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「こゆるぎ」が文部科学大臣賞 【No.61】 2003年01月11日
朝日新聞社が行っている全国高等学校学校新聞コンクールで向上高校の『こゆるぎ』が文部科学大臣賞を得た。今朝の新聞発表で知った。これで二回目かな。この新聞は時々読ませてもらっているからうれしい。いつも社会派の特集を組んでいるが、その一つが『神戸のレポート』。あの大震災のあと、毎夏神戸に通ってその後の神戸をレポートし続けている。こういう姿勢こそ学校新聞の姿勢だと思う。 エコーの準備に入っているのだが、プリンターが全くだめ。時間ばかりかかる。ほこりが舞い散る部屋に篭りきりだからか、喉が痛くなった。ここで風邪をひいたらたいへんだ。
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201号に向けて始動 【No.60】 2003年01月10日
O先生が『エコー』のために書いてくれた原稿を入力。「子どものいいところを書いてほしい」とお願いしてたもの。201号・再出発にふさわしい内容。 今日届いた年賀状の中から。 高校時代の友人Sさんが「遅ればせながら『エコー』の再出発に期待を表明申し上げます」と書いてきた。 「エコーを拝読するとき、先ず目にし、声にして読んだ3行の言葉。今年はこれと同じはがきに書いて事務所に張り出しました。今日も見ています」(Mさん)というのもあった。 私も、もう動き出さなければいけないのだ。といっても記事を書く気力は全然…。とりあえず、継続して読んでくれる人の住所録を作った。それをプリントアウトしようとしたら、プリンターが言うことを聞かない。たぶん室温の関係からだろう。今日はあきらめた。タワーの上に置いてある紙風船をついて遊んだ。
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朝日俳壇・歌壇 1月6日 【No.59】 2003年01月10日
朝日俳壇・歌壇
展宏 日の当たる障子背中に坐りけり 田之けむし 武蔵野線常磐線と継ぐ枯野 しもだたかし 櫂 星一つ氷のごとく明け空に 山村 修 武蔵野線常磐線と継ぐ枯野 しもだたかし 汀子 銀杏散り黄色の滑り台のこる 岩垣小鹿 わが山河埋めつくせり雪浄土 永森ケイ子 兜太 杣人ら風を語りて年忘れ 酒井大岳 せきれいの孤独や午後の魚市場 堂の沢慶恒
幼子が友だちあまた連れて来るねずみ花火のような二時間 長尾幹也
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叔母との別れ 【No.58】 2003年01月08日
暮に見舞った叔母が元旦の午後11時40分に他界した。84歳。告別式は7日だった。「私を送る言葉は勝美ちゃんにやってもらって」と生前から言い残しておいたそうだ。秦野にはとてもよく来てくれた。エピソードはいくつもある。遠出できなくなってから電話で話すこともたびたび。 印象に残っているのは次の言葉。 「小学生の頃、お正月は楽しかったけれど、お正月のが終わってからの薪山ことを思うと心から楽しめなかった。4日から山に連れて行かれ、重たい薪を背負い家まで運ぶのが苦しくて、辛くて。犬や猫をみると羨ましかった。猫に生まれればよかった、と何度も思った。でも今こうして幸せに暮らさせてもらっている。お嫁さんや孫がとても良くしてくれる。やっぱり人間に生まれてよかった、と思う」 遺族に代わって挨拶をした。叔母へ精一杯のお別れをした。「心静院美妙信女」いい名前をいただいた。
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「武」という文字 【No.57】 2003年01月05日
今日の新聞のある投稿に「『武』という文字は『戈』を『止』めるという意味がある」という個所があった。武器である戈の使用を止めるのが「武」の意味。「武」は平和主義者。いや専守防衛論か。 でも手元の本では、「武」を作っている「戈+止」の「止」は「足を進めること」で、「武」の持っている意味は「戈を持った軍隊が進軍すること」と書いてある。「武」は軍国主義者?いや自衛のためには先制攻撃もするのが「武」。 武姓の「武」の源は「嶽」か「竹」らしい。よかった。
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初詣 【No.56】 2003年01月05日
1月4日 暖かい一日だった。三月並の気候とか。初詣はいつものように厚木の長谷寺へ。ここは妻・佐藤家の菩提寺。妻の父・佐藤武男が小鮎駐在所勤務だった頃、長谷寺の住職米山隆道師と意気投合し、境内に墓所をつくることを許してもらったのだそうな。寺族の祭られている一角に個人の墓所を持たせてもらっているとは、とてもありがたいこと。恐れ多いこと。だから我が家の初詣は元旦に村社・鹿島神社、武家の菩提寺、円通寺、そして長谷寺になる。 長谷寺は飯山観音とも呼ばれ、坂東33カ所巡礼の第6番札所になっている。今日も参詣の人が絶えなかった。 寺の近くの寿司屋で昼食をとった。「まず、生、持ってきて。中でいいや」衝立を隔てた隣りの席から男性のグループの話が聞こえてくる。弾む話題は東海道線各駅ごとの名物のこと。品川はのり、川崎は久壽餅,いやでっかいせんべい、藤沢がシラス、由比が桜海老、焼津のトロ、安倍川餅やとろろ麦飯など。名物案内的だが、かなり実食しているふう。声からすればいずれも20代。感心する。とにかく、その流れは止まらない。 妻が言う「ああゆう人がいると、食事もたのしくていいね」そう、こっちは注文した品がくるまで隣りの話をきいていただけだった。 まもなく隣りの席から店員さんを呼ぶ声。「〇〇工業だけど、ボトル入っていると思うの。持ってきて」出てきた店員が「少しさみしいから新しく一本入れたら」というと「そうだね、イイチコでいいや」 郁彦が言ったっけ。今のサラリーマンの飲み方は最初一杯は生ビール。それも大は頼まない。そしてすぐに焼酎に切り替え、水割りにする、と…。 今日は仕事始め。「午前中で仕事は終り。新年会か。でも車じゃないの。30万だよ」そんな余計な心配をしたのは、私が飲めなかったからだ。
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Mさんの来訪 【No.55】 2003年01月03日
庭はうっすらと雪化粧。教え子のMさん、いつものように訪ねてきてくれる。 今年で6年目。彼女が今日4日に来てくれるのは訳がある。ご主人と子供さんが箱根駅伝の応援に出かけるので「その間は暇をもらう」のだそうな。子ばなれの難しさや今年から始めたホームヘルパーの仕事のことなどの話を聞かせてもらった。「仕事に就いて驚いたことは独り暮しのお年寄りが多いということでした。でも皆さんけっこう元気で生活していらっしゃいます。まだ半年なので十分な仕事はできません。私のほうがろいろと学ばせてもらっています。明日から仕事です。資格をとるための勉強は楽しかったです。しばらくぶりの勉強だったからでしょうか。また何か勉強したいです」そう言って元気に帰っていった。「さて、私は何を勉強しようか」と考えた日。今日は一日中雪がちらつき寒かった。
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お年始 【No.54】 2003年01月02日
例年どおり今年も太巻き寿司を巻いた。9時から一時間かかった。一升だとかなりの量だが、楽しい初仕事。年に二回、お年始とお祭りは私の太巻き寿司が大鉢に輝く。我ながら上達したものだと思う。しっかりと巻けている。味も上々。これも例年どおりだが、11時に3家族9人で祝い膳を囲む。 バアちゃんはすっかり武家の主になりきっていて「今年もよろしくお願いします。カンパーイ」とビールを飲む。 女衆5人に寿司の腕前をほめられて、いい気になってビールを飲んでいた私。いい天気の一日。
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年賀状 【No.53】 2003年01月01日
今朝いただいた年賀状から
まっさらな心を一年中 ひつじさんの毛みたいにあったかで、ふっくらした気持ちで365日過ごせたら…。元旦にりっぱな志!…でも三日もしたら、ハリネズミさんみたいだったりして…。ことしもお体大切にご活躍ください。「エコー」楽しみに待っています。
「エコー」いつもありがとうございました。お返事は出せなかったものの、ポストに「エコー」が届いたときは、心にぽっと灯りがともったような思いでいたことはぜひお伝えしたいと思っていました。すぐ読みたくて外出先にもっていくこともありました。一年以上、心に余裕をなくす状況になり、日々を過ごすことで精一杯でした。そんな時でもエコーは楽しみでした。励まされた思いがしました。今は一番きついときは乗り越えましたが、根本的な状況の改善までは時間がかかりそうです。これからも「エコー」を待ちたいと思います。
学校が知的学力に力を入れることは当然のことと思っています。しかし豊かな心の育成を疎かにせず、引き続き力を注いでほしいと願っています。
先生の昨年の年賀状に「期日とは希望の文字よ…」とありましたが、暢気なで無計画な私には『期日』とは恐怖の文字・となりそうです。今年もよろしくお願いいたします。
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これで年神さんが迎えられる 【No.52】 2002年12月30日
8時半から始めて終わったのが3時半。我が家ではお正月のお飾りは30日に決まっている。大晦日の飾りつけは「一夜飾り」だから避ける。神棚が二か所、床の間、仏壇、台所や水場、物置、車庫、そして最後に私の部屋。23か所に飾りつけをした。掃除もしながらだからかなり動いた。万歩計の数字は5900だった。明日はお墓に飾りに行く。これで年神さんが迎えられる。
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一年の終り 【No.51】 2002年12月30日
12月29日 晴れ 物置の片付けを朝からしていたら平塚のK先生がみえた。今年選択国語の表現という分野で一人新聞を作らせている。その新聞を見せにきてくれた。「一テーマ一新聞」だから、表現の手段として新聞を使うこと・作ること・はいいと思う。子どもが新聞からテーマを選んでくれたのなら、なおいいことだと思った。 午後、米とビールを買いに行く。帰ってから正月のお雑煮用の里芋を掘り、洗った。睡蓮の鉢を使って昔のままの「芋こじ」で洗う。その最中、高2のT君とM先生が購読料を持って来訪。T君は演劇に熱中。M先生は写真で今年も入選。 物置の奥に、もう10数年も使ってない鍋が二つしまってある。数十年の間我が家のみんなの命をつないでくれた鍋。薪で焚かなければ用を足せない大鍋だから、もう使われることはない。とにかく大きすぎる。だが整理することはできなかった。でも、ここで思い切ることにした。 4時過ぎT先生がみえた。「たぶん今年が最後だと思います。無農薬です」という言葉と共にたくさんのミカンをいただく。「ミカン一筋の父が倒れてしまって、実家のミカン栽培は今年で終わりになりそうです。父は悔しがっていますが…」 Y先生から「生徒に約束した漢字検定の準1級にパス。来年はまた生徒に宣言して点字に挑戦しようかな」とのたより。 5時近く妹夫婦がバアちゃんに年末の挨拶にきた。 年の暮、慌しさの内に人は何かを感じ、思い、決意し、今年を終えようとしている。
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絵本のプレゼント 【No.50】 2002年12月28日
1月に「さをり織展」でご厄介になる『遊の丘』に挨拶に行った。 オーナーの小西さんが25日の朝日の記事の切り抜き保存してくださっていた。 ひとしきりその話。11時にライフプラザ鶴巻に。ご挨拶を兼ねて、今日リハビリに来ているバアちゃんの様子を見に行く。入浴中だったので会わずに帰る。そのまま車を走らせ義兄が眠る小田原の瑞雲寺に。西北に富士、南西に小田原の海、そしてそれぞれの前面に足柄平野が広がっている。今日の冬の光で、景色は鈍色。偶然、義姉と娘さんに出会う。 帰ったら絵本の贈り物が届いていた。「ふぶきのあした」木村裕一作・あべ弘士絵。狼ガブと山羊メイとの命をかけてもいい友情の物語。ストイックな愛の物語、かもしれない。16景と18景が絵・文ともにいい。絵本は大人にこそ必要、と思う。
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灯油がダメなら金は 【No.49】 2002年12月27日
今日になっても電話によるセールスがくる。いや今だから彼らは頑張るのだろうが…。我が家への売り込みは、リタイア組と分かっているらしく利殖の話とお墓の売り込みが多い。 墓地の紹介の電話には「寺山の武姓に電話をしても営業は成り立ちませんよ」と教えてやる。 今日の電話はいささか腹立たしかった。東京の商品取引の会社から「灯油が値上がりする。いラクで戦争がおこるし、この冬は寒さがきびしいから」ということで、灯油の先物取引を勧める。関心はないので、と断る。そんなに冷淡に電話を切ることはしない。その話が終わって一時間ほどたったら、同じ会社からまた電話によるセールス。今度は人が変わって『金』の先物取引の話。驚き、不愉快になった。どこから私の名前を手に入れたのか、その出所を教えなさいと言った。この会社は社内のコミュニケーションもできていない。商品に対する信念もない。「一時間ほど前オタクの社から灯油の先物を勧められた。断ったら今度は『金』ですか。甘く見られたものだ」と私。とたんに電話の声は不機嫌になり「ウチの誰ですか。名前を言ってくれ」私は「名前など覚えていない。とにかく戦略的におかしいと思いませんか。私を社内でたらい回しにしている。あなたの会社は信用できない」と言った。これで電話は切れた。
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クリスマスの贈り物 【No.48】 2002年12月26日
12月25日 今日クリスマスの日、私に朝から大きなプレゼント。朝日新聞が「エコー」のことを記事にしてくれた。取材をうけたのは11月26日。「200号の単なる紹介記事にはしない」と言っていた田玉記者。8人から「読んだ」という連絡があった。うれしかった。最初はメールで7時半。「これは先生から私へのクリスマスプレゼントです」と喜んでくれたTさん。mailが5人、FAXが2人,電話が1人。伝達手段が変わった、こういう時代になった、と思った。 今日で庭の手入れは終わり。引き締まった景色になった。
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朝日俳壇・歌壇 12月23日から 【No.47】 2002年12月25日
朝日俳壇・歌壇 12月23日
兜太 鬼房の住みし塩竈冬桜 永野しん 展宏 鮟こうに重力つよくはたらける 吉野佳一 鬼房の住みし塩竈冬桜 永野しん 櫂 若き日の天突体操冬木立 堀木すすむ 鬼房の住みし塩竈冬桜 永野しん 汀子 焚火の輪抜けて駆け出すランドセル 山崎萱草
老いてなお詩境澄みゆく詩人のごといちょうの老樹黄の色深し 青山詩帆
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茶のみ話 【No.46】 2002年12月23日
きょうは暖かい日、庭木の手入れが始まった。もう20年近くEさんとKさんにお願いしている。二人とも寺山の住人だから、8時にはもう仕事を始める。昼食は自宅に帰るのがいい。午後の仕事も1時前から取り掛かる。 10時と3時に10分ほど休憩をとる。そのとき私も一緒にお茶を飲む。茶飲み話だがいろいろなニュースや情報が飛び出す。我が家の荒れた畑に鹿が出ていること。T家の孫・中学生がピンポンが上手くて将来有望らしいこと。Yさんが自分の土地に3人の子どもの家を建ててやったけど、贈与税などで戸建ちを買うのと同じくらいかかったらしいとか。 きょうの“収穫”は「いちょうの雌雄を葉で見分ける方法」−知らなかった。そして銀杏(ぎんなん)にも雌雄があるということ。また、両手一杯の銀杏があっても、雄の実は数個に過ぎないということも学んだ。来年調べてみよう。 植木鋏の音を聞きながら年賀状を書き始めた。
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本降りの一日 【No.45】 2002年12月22日
2月21日 おとといまでの予報では、きょうの天気は「晴れ」だったのに、ころころ変わる天候。きょうから植木屋さんが入ったのだが、本降りになり1時間ほどで引き上げていった。 横浜の叔母の見舞いに行く。「『勝美ちゃんには会いたい』といっている。会ってやってください」と和雄さんから連絡をもらっていた。 私が誰であるかは分かったようだが、口は開かなかった。端正な顔立ちは変わっていないが、すっかりやせてしまった。一瞬視線を合わせて横顔を見せるだけだった。眼鏡の奥にキラッと光るものが。84年間生きてきたということをそう簡単に消してはいけない。
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二学期の終り 年末 【No.44】 2002年12月20日
二学期はあと一日で終り。半日で帰る中学生たちの声が明るく、にぎやか。東中新聞を届けに来た三年生に、進路は決まったのかと聞くと「後は受験勉強するだけ」と屈託ない。 東中PTA広報を持ってみえたのは委員長のNさん。この季節なのにノースリーブ。こちらが身震いするようだ。今年の委員会で、来年度以降の委員のために「PTA広報編集マニュアル」を作ると言っていたが、その素案を見せてくれた。こういうやる気がノースリーブになってあらわれるのだ、と思った。 二学期末に届くPTA広報は、どれも企画や内容が充実している。これが三学期・来年度に続けばいいのだが、PTAの活動は12月で終りのように年間計画が作られているので、ここでの頑張りが次に結びつかない。残念。 例会に行った。元気のいい話はあまり聞けない。秦野でも名のとおった店が、また閉まったとのこと。いつまで続くのか分からないこの景気の低迷に、商店の人たちの「ひたすら耐えるだけ、だけど頑張りきれない」と悲痛な言葉を聞く。
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木守柿 【No.43】 2002年12月19日
12月18日 昨日、柿の木の剪定をした。植木屋さんによれば「来年実をならせるなら縦に伸びた枝を残せ。だが、そうすると木の背丈は高くなる一方。今年はたくさんなったので、まだ10数個に残っていた。一番高いところの一個だけ残しで全部落とした。木守柿のつもり。真っ直ぐに伸びた枝の先についているので、鳥も止まりにくいのだろう。柿色という色があるらしいが、熟した赤がきれいだ。この色を柿色というのだろうか。その木守柿を今朝見たら、もうほとんど食べられていた。餌台に置いた熟柿には全く寄りつかないのに。剥いたミカンも置いたが、こちらも突っついた気配はない。
夜、煉瓦亭で古屋忠春先生の叙勲を祝う会に出席。参加者は教師、元教師だけ。懇談になってWさんとYさんのけっこう激しい議論の中に入る。学校が少しも変わらないのは「行政がしっかり指針を出さないからだ」とW校長さん。「校長先生の意識、認識、意欲が問題なのだ」と受けたのはYさん、こちらは教委の参事。私はYさんに組する。これに加わってきたのが大学の先生のKさん、「今の校長先生ではむりだよ。50代の教師が学級崩壊に出会うのが多いだろう。今の管理職はその年代だよ」
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朝日俳壇・歌壇から12月16日 【No.42】 2002年12月18日
朝日俳壇・歌壇
汀子 残照の尾を曳く森の底冷えに 塙 告冬 風花の音のなき空仰ぎけり 山本素竹 箒目を集めて小さき落ち葉焚き 妹尾藻外 兜太 冬籠外や白きのみ白きのみ 斉木直哉 底冷えの夜毎の廊下老いを病む 池上 清 展宏 花八ツ手隣の犬のおとなしき 大窪教海 冬うらら洗濯物をピンと張り 雲木 泉 櫂 山茶花のくしやくしやと咲きつづくかな 林 柊子 南向く軒の家々吊るし柿 田中玲子 日にひとつ月にひとつの木守柿 山下節子
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宇宿允人 【No.41】 2002年12月17日
2月16日 チャンネルを変え続けていたら、ETV2002「“運命”の三日間」に出会った。宇宿允人という指揮者を始めて知った。この年齢になると交響曲は重すぎて…とN兄が言っていたが、確かにそのとおりで、年末に『第九』を聴くくらいしかない。もちろん“演歌熱唱家”ということもあるが…。 宇宿さんの年齢は68。孤高の指揮者と呼ばれているそうだが、風貌は年齢をはるかに超えていた。三日間のリハーサルの光景、鬼気迫る感。「音楽が私をそうさせてしまうのだ」と言った。「音楽とは人生の悲しみを謳ったもの。だから音楽は人の悲しみ苦しみを癒すことが出来る」と言う。圧倒的な指揮に惹きつけられた。一度聴きたい。ただ大きなワゴン車を運転しているのはチグハグな感じ。 10年くらい前、子どもの部屋で彼のCD見たような気がしたが、とくに気には留めなかった。そのとき関心をもてばよかったのに。 庭木の手入れ、きょうで終り。満足感と安堵。あとは体の痛みがでないことを祈るだけ。
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心のこり 【No.40】 2002年12月15日
12月14日 赤穂浪士の討ち入りの日 園芸愛好会の納め会、伊炉里で。レースのカーテンで三つに仕切られた大広間にセットされている料理はどこも同じ。宴会の部屋は今夜は満杯だそうな。会費は5000円で飲み放題。料理は鍋と焼き鳥、刺身、かにのムニエル、焼きおにぎり。 年齢の高い会だからこれで十分。酒はかなりいける16名の参加で5時の開会。今年の菊に自信を持ち、早くも来年に向けての意気込みが感じ取れた。私もまた、来年に期するところがある。研修旅行は「高山祭りと白川郷」を計画することになった。7時半に閉会。そのあとコーヒーを飲みに。ちょっぴり教育論も。 そしていつものとおりAさんと居酒屋、小料理店、スナック2軒をハシゴ。ハシゴはAさんの趣味。私にとっては一年に一度のこと。だが「タウンニュース」のお陰で、マスターやママさんの記憶の中に私の顔はあった。それでいい気になって一店一曲のカラオケ。歌った歌は「岬めぐり」「かえり船」「よせばいいのに」「心のこり」。「わたし馬鹿ね お馬鹿さんよね」と自嘲気味に、いやけっこう本気で歌って、午前様になるぎりぎりに“ご帰還”。家に着いたとたん声がかすれた。どうして?なぜ? 6つも店を回れば当然。
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コベントリーからのクリスマスカード 【No.39】 2002年12月14日
12月13日 今年もGRAHAM家からクリスマスカードが届いた。コベントリー特産の刺繍のクリスマスカード。いつものように玄関に飾る。もう17年も続いている。 書かれているメッセージでは、ERIC・オジサンの体調はあまりよくないらしい。心配だ。VERA・オバサンの文字は相変わらずの文字だから元気だろう。ご夫妻はもう80歳に近いかもしれない。コベントリーを訪ねた時、ニューカッスル、エデインバラ、グラスゴー、湖水地方と車で走ってくれた。B&Bへ泊まりながらの旅だった。港町・シーハウスのB&Bは開業の日、私たちがその宿の最初の客。その宿を取ってくれたグラハムちゃん。そんなことを思い出す。プレゼントのコベントリーの町のカレンダーを懐かしく眺めた。もう一度訪ねたい。
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きょうはモズも 【No.38】 2002年12月12日
きょうもまた庭木の手入れ。きょうはきのうのジョウビタキに加えてモズまでが私の働きぶりを見ている。モズはだれか。 10数年前、矢バサミと剪定鋏を初めて使った日の夜は手が震え、文字が書けなかった。そして翌日から二の腕の筋肉痛。ところが今はそういうことは全くない。植木屋さんの筋肉がついたのだ。とかっこいいこと言っているが、疲れはたまっているに違いない。また歯茎が痛みだした。 小学校の校庭のフェンス際で木に登っているので、体育の授業はよく見える。持久走だったが太目の子がかなりいた。出張帰りの校長先生と言葉を交わす。ここでこんなことをしているのは先生方には迷惑かもしれない。「中退教だより」の校正がくる。
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庭木の手入れ 【No.37】 2002年12月11日
暖かい一日、こんな日が来るのを待っていた。来週植木屋さんが来てくれるので、その前に私の受け持ちの庭木の手入れをしておかなければいけない。常緑樹の杉、檜、にっき、そして樫、他に梅など、あわせて16本を手入れするのだ。一日3本くらいのペースだから植木屋さんと一緒にはやれない。だいいちそんなことをしたら職人さんに失礼だ。 きょうはにっきの木と檜と樫。朝8時半から木に登った。にっきは4メートルくらいの高さがある。2時ごろから刈り込んだ葉の片付けを始めた。気が付くとジョウビタキが近くの枝に来ている。熊手で葉をかき集めているとき餌が出てくるのを待っているのだ。この間、畑にキャベツの苗を植えたときも来ていた。ジョウビタキはジイちゃんが好きな鳥だった。たぶん農作業や庭木の手入れの時に近くにきていたからだろう。お互いに気に入っていたのかもしれない。さて、私の場合は……そう、なんとなくジイちゃんが私の仕事振りを見に来ているように思える。明日も晴れていたら4、5本頑張るつもり。この作業はけっこう好きだ。
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きょうの生活 【No.36】 2002年12月10日
5時40分起床、6時20分朝食。バアちゃんの食事が7時からはじまる。食事のあと薬の世話をして新聞を読ませる。このごろあまり熱心に読まなくなった。だが起こしておくことは健康上必要。1時間がんばらせて横にする。 9時15分が歯科の予約。治療は550円分。 10時に戻ってきてようやく自分の部屋に座る。東小・六年生の修学旅行新聞117枚が10月の終りに届いていた。読後感を書くことになっているのだが、それが終わる。 11時、ジャスコの屋上駐車場に到着。食料品の買出しの迎え。妻の週一回の定例外出日。9時20分に自宅から歩いて店に向かう。ところが毎火曜日は特売日、レジは込んでいるので時間どおりには現われない。屋上から景色を眺めている。『今月の一枚』の写真はここから撮ったもの。国立病院の紅葉がまだ明るく見える。 11時半に昼食。2時までバアちゃんをテレビの前に置く。「昼どきにっぽん列島」とみのもんたは一応観る気になっている。 3時に小学校に仕事をもっていく。117人が一人新聞をつくったことを精一杯称賛した。十分おわびもした。 鈴木伸男さんから著書「こうすればできるNIE」をいただく。現場の教師の新聞教育に関する出版は絶えて久しかった。力作、労作。うれしい。
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12月8日の朝日俳壇・歌壇から 【No.35】 2002年12月09日
朝日俳壇・歌壇 12月8日
昨夜から今朝にかけて雪がちらついた。そして今は氷雨。
櫂 寒泳の身を細うして海に入る 山崎 秀夫 大阿蘇の枯れ野を走る風の馬 秦 由視 汀子 人もまた風に晒され冬耕す 浅利 恵子 木枯しの空を洗ひし星の数 日置 正樹 冬波に灯台の崖立上がる 田中 節夫 兜太 冬来る石にごつんと風当たる 河合 保雄 雪が降る白き聖像窓越しに 田中 清一 展宏 白菜を真二つに切る深さかな 宮田 明 ランドセル押し出す玄関北の風 木村 葉子
雨に濡れし荒縄重しこの峡に終わると決めて雪除けを組む 清野 弘也
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きょうは何の日 【No.34】 2002年12月08日
寒い日、外に出で知った―大山は中腹まで雪。来年の新聞コンクールの審査会の案内が来た。二年前の審査会の前日は雪だった。茨城のIさんが大きく遅刻してきたのを思い出す。 年賀状の原版を作って印刷所に持っていった。年賀はがきは使うが、中身は近況報告。相変わらずのパフォーマンス。でもこれが私だからしょうがないだろう。 ところで、きょうは12月8日。この日が来るたびに20年も昔のことを思い出す。その年の12月8日、「きょうは何の日」と中一の教室で子どもたちに聞いた。私としては『太平洋戦争開戦の日』を意識させたかったからだ。もしかしたら『一つ目小僧の日』と答えてくれるかもしれないと期待した。ところが、どちらも出てこなかった。U子が自信なさそうに「12月8日はお釈迦さんの生まれた日だっけ。違うよね、お釈迦さんの生まれたのは4月8日。それじゃあ、お釈迦さんの亡くなった日かな」 彼女はお寺の子だった。結局、太平洋戦争開戦の話は出てこなかった。翌日、彼女は私のところに来て「12月8日は成道会(じょうどうえ)といって、お釈迦さんが悟りを開いた日だって」と教えてくれた。太平洋戦争開戦の日 成道会 一つ目小僧 どれも私には興味がある。
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200号お祝いの会 【No.33】 2002年12月07日
190号が出た時、創刊まもないころからの読者から「200号になったら一緒にお祝いをしましょう」という話があった。そしてそれがホントのことになった。4、5日 私をいれて6人で伊豆高原に出かけた。私以外の5名はいずれも年齢50代半ばの職業人。午後1時という出発時間に駆けつけるのに苦労したようだ。 Iさんは現地に午後6時に着き、翌朝7時には宿を出た。こうした人たちに支えられて「エコー」は200号まで発行できた。「エコー」が私の生き方の原点なら、私はこの会に馳せ参じてくれた5人に代表されるような読者によって、私は生きてこられたのだ。 「復刊記念は駅前のUでやりましょう、時間は7時半から。ねえ、先生」とハッパをかけられ、お祝いとして万年筆をプレゼントされた。久しぶりに、お酒を飲みながら政治・経済、教育・文化の話をした。 伊豆に向かう道中は土砂降りの雨。翌朝、荘厳な日の出が部屋から眺められた。
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園部泰宏さん 【No.32】 2002年12月04日
体調不良が続く。なのにパソコンに一日じゅうしがみついている。15日発行の「中退教だより」の編集を終えなければいけないからだ。インタビューと資料で人物紹介をする「元気な仲間」というコラムがある。これが難関。900字でまとめるのだが、なかなか元気な顔が見えてこない。この会報の仕事、一人で全部やってきたが全てのことで限界を感じ始めた。撤退を考えたい。 「エコー」の200号・増刊号、まだとどかない。この発送も気にかかっている。庭木の手入れもしたい−これは好きなのだ。だから早くやりたい。 新聞教育の先輩、園部泰宏さん急逝。たぶん2、3歳しか違わないだろう。ゴルフコンペから帰ってのことらしい。全国新聞大会や全国コンクールの審査なとでずっとご一緒させていただいた。いつも明るく元気な先生だった。無常を感じる。ご冥福をお祈りするのみ。
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12月2日の朝日俳壇・歌壇から 【No.31】 2002年12月03日
朝日俳壇・歌壇 12月2日
展宏 蟷螂の戸口まで来て秋の果て 斎藤 亮 櫂 バスを待つ人それぞれの寒さかな 俵谷 孝助 汀子 母許の留守の落葉を掃き戻る 永森ケイ子 木漏れ日の消ゆる早さも冬めける 木下万沙羅 兜太 彼方には都市あるはずの枯野かな 板坂 壽一 柿の笑み有りて我が故土しかと故土 荒井三七ニ
私語やまぬなかに叫びて授業することにも慣れて子らとへだたる 山地 千晶 羽博かず風の螺旋をめぐりつつ渡りゆくらし鴫のひと群 西田うめ子
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ネット上の日記 【No.30】 2002年12月02日
ホームページに日記を書くということは、誰かに読んでもらいたいからだ。私の動機もそう。ところがしばらく書いているうちに錯覚し始める。「この日記を待っていてくれる人がいる」と。そんなことありえないのに。私のホームページへのアクセス数は平均すれば一日15程度。その15人のうち、この日記を期待して来てくれる人が果たして何人いようか。 ここ二日間、日記が書けなかった。風邪を引いた。しかもこの土日に、どうしても 参列しなければいけない葬儀が二つあった。いっぽうではホームページの更新も。そんな中での日記はノルマとさえ感じられた。「書きたいことがあったら」「書きたいときに書く」日記と思うのだが、そう単純に割り切れないのがネット上の日記の公開である。
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来年の五月までは 【No.29】 2002年11月29日
朝9時半ごろ電話。A市の教育委員会の塩沢さんからだった。少し早いが、来年の五月にPTA広報の講習会の講師をお願いしたい、とのこと。確かに早いが、予算編成期だからなのだろう。「私でよければ、喜んで」と二つ返事、相変わらずの私。これで6年目になる。 今年の年賀状に「期日とは希望の言葉初暦」と書いた。毎日が日曜日の私にとって、こうして予定が入るということは、その日までは生きなければいけないというノルマ。これで来年の五月までは生きられると思ったら、もう一つやりたいことを思い出した。もう蒔き時を失った感がするが、絹さやえんどうのタネをJAに買いに行った。売り子のおじさんがタネ袋の裏を読んで「11月いっぱいは大丈夫だよ」と言う。「そう、きょうは29日、まだ一日ある」と馬鹿みたいな私。そして午後、慌てて蒔く。たぶん邪道だろうがマルチを使ってみる。発芽するかどうか。それを心配しながらここ10日間ばかりは生きられる。 明日は子育ての話をしなければいけない。準備を十分したいのだが、集中できない。明日より、今が大切なのに。
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昨日の広報づくり講座 【No.28】 2002年11月28日
昨日、秦野市ボランティアコーディネーターの会に招かれて、広報づくりの話をした。このコーディネーターの会は1984年に設立され、活動をしているのだそうだ。しかし、ほんとに申し訳ないことだが、つい最近までこの会の活動はおろか、その存在さえ知らなかった。介護保険制度が出来たのだが、それに該当しないがいろいろな援助を必要とする人たちに、ボランティアの橋渡しをするのがこの会の活動なのだそうだ。もちろん、この会自身もボランティア活動をしている。 昨日の講座に出席されたのは地区の代表11名。年齢は40〜60代の女性ばかりだった。私の例にあるように、会の活動があまり知られていない、という焦燥感がこの会の中にあるようだ。その意味からも、広報の役割、必要さ、大切を理解してもらいたいと思った。「“目からうろこ”です」という感想や「右往左往、暗中模索の広報づくりをしてきたから、きょうの話はこれから役立つ」と、そのやる気の表明もあった。聞けば、前日の宿泊研修の続きに私の講座が入れられたのだそうな。約2時間の講座、精力的な皆さんだった。 「読んでもらう広報」から「読ませる広報」へ。そして「読みたくなる広報」へ。そんな発展があったらいいと思う。
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朝日俳壇・歌壇から 【No.27】 2002年11月27日
朝日俳壇・歌壇 11月25日
兜太 陽関を出でしごとくに枯野人 稲垣 長 小春日和我もひとつの風物詩 北林 誠 展宏 日がさつと差し大原の冬菜畑 水野 李村 犬が去り一人の焚き火つまらなく 谷畑 遊渓 櫂 越前のかに王者たり雪の中 木内 禎子 マヨネーズもケチャッブモ逆立ちて冬 笈川 夜白 夕されば浅酌微吟萩の宿 高島 満雄 汀子 靴音の俄かに冬とおもふ朝 佐藤富士男 枯蓮の尽きざる力残りをり 林 克己
歳々に旅の荷物の軽くなりついは手ぶらで立たむ日も来む 高添美津雄
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けんちん汁 【No.26】 2002年11月25日
11月24日(日) 「エコー」200号の最終号を出稿。今回は付録のバックナンバーまで含めB5判で16ページ。いいさか感慨もあるので付録に家族4人を登場させた。200号は総ページで40ページになった。この「エコー」の印刷をお願いしているK印刷は日曜日だが営業している。社長のSさんは「11、12月は無休です」と言う。「こうして店を開けておくと、不思議なことに“飛び込み”のお客さんがあるんです。年賀状の注文くらいですが…」 商売とはそういうものらしい。「開けておくだけ損をする」と日曜日にシャッターを降ろしている商店が多い中、Sさんの言葉は興味があった。 帰りにスーパーに寄る。日曜日の午後2時過ぎの食料品売り場は男性客が多い。たぶん私と同じ…。頼まれたごぼうとコンニャクを手に(籠を使わなければいけないのですよね)レジに入ったら、「エコー」の読者のMさんがレジ係り。彼女、笑いながら「けんちん汁の足りないものを買いに来させられたのですね。」そう、土曜日にリハビリに出たバアちゃんが風邪を引いて帰ってきたので、野菜たっぷりのけんちん汁を食べさせようと思ったから。93という高齢に何より怖いのは風邪。妹夫婦二組がバアちゃんのご機嫌伺いに来る。日を変えて、別々に来てくれたほうがいいのだが。
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実朝祭り 【No.25】 2002年11月24日
東地区の自治会連合会の第15回「実朝祭り」が23日に開かれた。今年は駐車場係りで参加。時々雨に降られ寒い一日だった。 「実朝」という冠がつく祭りだが、内容はどこでも行われている「ふれあい祭り」と同じ。実朝公の墓前では法要も行われるのだが、お祭り広場とは全く無関係のような雰囲気。祭りに来ている人は周辺の人たちも多いようだ。それは「実朝」だから、文化的・歴史的な催し物も期待してのことと思う。実朝公ゆかりの地として、また地域の人たちがそのことを意識するためにも、この祭りの内容が他で行われるふれあい祭り的なものとは異なったものであって欲しいと思った。 実朝まんじゅうと落花生を買って帰って来た。 きょうは午後からテントなどの片付けに行かなくてはならない。
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高校入学者の合否の決め方 【No.24】 2002年11月22日
昨日、学区の公立高校の6校が来年度の入学希望者の選抜基準の説明会を合同で開いたので参加した。秦野市文化会館に集まった保護者の数は1、000名に近かったろう。絶対評価という新しい評価が保護者に与えている不安が、顕著になった人数だと思った。 選抜の方法について、かなり細かい部分まで説明された。保護者が気になる「総合的な選抜」の資料については、まさに具体的だった。 「福祉・ボランティア活動に積極的に取り組む意欲を持つ者」を求めるA校は、例えば「車椅子擬似体験者はポイント1」。B校では「部活のキャプテンは25点、部員は5点」。C校では「生徒会本部経験者10点、生徒会の各種委員長経験者は5点」。印象としては、文化活動ヘの評価に比べ、運動部に属する生徒の活動は評価がしやすいようで、高配点になっているように思えた。 より公平に、あるいはより特徴的にという各校の思いがあるのだろう、数値に換算して複雑な選抜方式になっている。隣りに座っていたN中の進路担当の教師が「難しいですね、保護者に分かるかな」と心配していた。 県の配慮でこの説明会は全県で開かれているそうだ。正直に言えば「今この選抜方法を説明されても、親も子もどうしようもないだろうな」ということ。たぶん、会場の母親の多くは、あれもやらせればよかった、これもさせておけばよかった、と悔やみながら聴いていただろう。もちろん、こうして選抜方法が公開されたということは、中2以下の子どもたちにとってはよいことだろう。また、この合同説明会で各高校の特色が見えたこと、説明会すに対する意欲の差も現われたこともよかったことに挙げられるかもしれない。
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今週の朝日俳壇・歌壇 【No.23】 2002年11月22日
11月18日
汀子 爆音のひびく蜻蛉の空なりし 大久保白村 兜太 骨太のものら混浴冬隣 足立 威宏 展宏 天高しパントマイムの指の先 横谷 光風 石榴裂け猫よく眠る山の家 井上 鬼平 櫂 落葉焚きまだ火にならぬ煙立つ 西条 良史 肩幅は夫の半分秋の影 工藤 須宜
妻からもパパと呼ばれて世の中の無数のパパの一粒になる 長尾 幹也
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午後5時の香嵐渓 【No.22】 2002年11月21日
18・19日と秦野園芸愛好会のメンバーで「紅葉狩りとやきものの町の散歩」をした。紅葉狩りの奥三河の香嵐渓はまさにシーズン、18日には5万人が訪れたと名古屋のテレビが報じたそうだ。その中の13人が私たち。遅くても2時には着く予定だったが、町の入口の足助大橋1キロ前で4時をまわってしまった。山峡の日暮れは早い、しかも曇り空。もう我慢できず、バスを捨てて歩いた。人ごみをかき分け町営駐車場にたどり着いたのが4時10分。建物越しに見える飯盛山は全山紅葉・紅葉、しかも大樹だから、パッチワークのように大胆に色付けがされていた。「すごいね」という言葉しか交わせない景観だった。歩いてきてよかった、と思った。それにしても、この駐車場にあふれる人、人、人。バスツアーの客が迎えのバスを待っているのだが、迎えのバスが入ってくるのにまた渋滞が起こる。迷子ならぬ“迷大人”の呼び出しの放送は絶えることがなかった。そして、結局私たちも、6人7人に分かれてバスを捜す羽目になった「はぐれ大人」になってしまった。
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11月16日の私の生活 【No.21】 2002年11月17日
寒い朝だが8時30分頃、いつものとおりバアちゃんをリハビリに送り出す。9時、恒田先生が新聞のレイアウト用紙を取りにくる。10時過ぎ、バアちゃんがリハビリでお世話になっているライフプラザ鶴巻の文化祭を見に行った。長期入所者の作品がたくさん展示されていた。何度か訪れているが、この施設のスタッフは、誰もが明るく大きな声で挨拶をしてくれる。11時過ぎからヨークマートで食料品の調達。昼食は藍屋。何を注文するかで長考、これはいつものこと。飽食からなのか、いや、単に優柔不断だけのこと。結局日替わり定食になる。ついでに生ビールを注文し、妻に叱られた。昨夜の鶴舞会で帰宅は11時半だった。その酔いがまだ残っているようで気分がすぐれなかったからだ。中ジョッキ一杯を飲んだら直った。食事の後、明日、菩提で開く「里山の集い」の会場の下見に行く。担当責任者なのだが、上村さんをはじめ委員会のメンバーが細かい準備をしていてくれる。せめて会場の様子くらい知らなければ、申し訳ない。林道は黄葉で明るかった。そこからラオックスに回り、電話の子機の電池の入れ替え、プリンターのインクカートリッジを買う。帰りにクリーニング屋さんに寄り、ワイシャツ4枚を出す。3時45分頃、バアちゃんのご帰還。けっこうハイ。ミニコンサートで『里の秋』を歌ったとか。夕方、谷津先生から電話で新聞のレイアウト用紙の注文。品切れなのでSEDAさんに注文。夜、O小のPTA広報の100号の特集の組み方について質問を受ける。今年初めて食べたミカンが甘かった。大変な時代になった。一個ずつラベルが貼られている、愛媛産だった。
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郷土玩具を並べながら 【No.20】 2002年11月16日
応接室の床の張り替えが終わり、三日間の工事は終了。大工さんたちが帰った後からこちらの大作業が始まる。20歳くらいから一人旅に出るようになり、郷土玩具を買い始めた。私の性格だから、系統的でもなれば、限定的でもない。こけし、グイノミ、凧、土人形、独楽などが比較的多い。この応接室に納まらなければいけない数はおおよそ300。細かい物が多い、しかもほこりにまみれているので、棚に並べるのにもかなり時間がかかった。途中で「少し整理するか」と思ったが、結局は捨てきれない。こけし、土人形、紙人形など、まさに“人型”であるから燃やすことも捨てることも出来ない。それにほとんどのものが、求めた旅先を思い出せる。飛騨の松山観音の絵馬は、高山市内の呉服店のご主人が描いていた。目の前で描いてもらった。高山祭りを見に行った時のこと。芦さんと亀さんと利さんが一緒だった。『おしんこけし』で有名になった銀山温泉の伊豆護さんのこけし工房を訪ねたのは、尾花沢の宮沢中学校で新聞づくりの話をした折だった―もう30年も昔のこと。おかっぱ頭のつぶらなひとみのこけしが、能登屋旅館を思い出させる。もう廃業したが、伊勢原の『峠の茶屋』にも郷土玩具が飾られていた。そう、廃業直前に鶴巻中の忘年会をそこで開いた。鉄板焼きと笹子飯だった。これも10年くらい前だった。
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あふちの実 【No.19】 2002年11月14日
シロアリ対策の第二期工事が始まったため、バアちゃんを三日間ショートステイに出した。「ウチがいい、どこにも行きたくない」と駄々をこねるのをやっと理解させ“泣きの涙”で行ってもらった。今ごろは沈み込んでいるか、と気にかかる。トイレ、台所、応接室の床の張り替え。トイレは6月に車椅子用に改修したばかりなのに、また床下から作り直し。無駄なおかねを費やした。特にどうということもないのだが、とにかく家に居なければならない。それでパソコンの前にいるのだ。そうしたら、また歯が痛み始めた。眼鏡を使い過ぎると、目から肩、そして歯に来る。それで庭に降り、まねぎの苗を植えた。今年は150本。こうして畑らしくすると、数匹の猫が入れ替わり立ち代わりトイレに使い始める。細いたまねぎの苗は彼らに蹴散らかされる。「猫は紐に繋いで置くべきだ!」 イヤ「繋いでおいてください、お願いします」 “猫番”をかねて、畑のわきに立つ栴檀の枝降ろしもした。4メートルくらいのところに登る。タコーチ山の黄葉が見えるようになった。いつもどおりクリクリ坊主にする。だが幹についている実を5房残した。これはわが庭の風物詩。 来年も栴檀の実は見られるか、猫番は出来るだろうか、とふと思う。
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新聞の秦野は健在 【No.18】 2002年11月13日
神奈川県の学校新聞コンクールの結果が出た。秦野の大根中が「最優秀」で二年連続。東中が同じく二年連続の優秀賞。他に北中と鶴巻中も入賞した。これで秦野の最優秀は11年連続。東中、渋沢中、鶴巻中、大根中の四校で11回を飾った。「新聞教育の秦野」は健在。 菊の不出来を嘆いた日記を読んで、激励のmailを送ってくださったTさん。ギャラリーに“不肖の子”を載せました。見てください。
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今週の「朝日俳壇・歌壇」から 【No.17】 2002年11月12日
11月10日の「朝日俳壇・歌壇」
櫂 濡縁に晩秋とゐるひとりかな 水澤 紘之 塗り替へし東京タワー天高し 山田美奈子 汀子 芒野の風音倒れをりにけり 岩垣 子鹿 拝観を許さぬ古刹紅葉濃し 高田 韮路 兜太 流木を燃やして風を集めけり 平尾 博志 晴れつくす恋人岬赤とんぼ 本多 豊明 展宏 秋日向石壁に沿ふ暮しあり 清水 葉子
生来の施し好きの妻が吊るす柿は夕焼け空に曼荼羅 清野 弘也 秋色にそまる陸奥ゆきゆきて紅葉の山の一点となる 佐々木克子
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今年の菊は 【No.16】 2002年11月11日
9、10日と東公民館祭りに参加した。私が所属している秦野園芸愛好会は、3年前から『菊の福助づくり』を勉強し始め、この祭りに研究の成果を発表している。昨年の私の菊は、知りあいから「かわいい」と言ってもらった。他の豪華な厚物と比べれば、たしかに可憐ではあったが、菊は可憐ではダメ。“厚物”というように豪華でなければ。さて、今年は苗のしっかりしたものをもらったので、やる気十分だった。9月半ばまでは生育も上々。途中の研究会で久保寺さんに見てもらったら「まあいいでしょう」と及第点。だが、新人の二人の方がしっかりした苗だった。「負けてる」と思い、止め肥をたっぷりやった。ここからおかしくなった。葉が育たなくなり、生気がなくなった。花が遅い。開き始めた花弁はみな撚れている。ウチで見ているときはまだ何とか見れたので、3鉢持っていった。(これは欲目だった)たが、80鉢ほどの並べられた中で、全く“別格”だったのが私の菊。「持ってこなけりゃよかった」とほぞをかむ思い。私の菊は会場で一層いじけていた。今年は誰も私に声をかけなかった。「よく出すよね」と言いたいくらいだろうから。こうなったら、今から一年後を目指してリベンジ…。それにしても、苗は全員同じ、施肥の量?日当たりが悪い、いろいろ理由は挙げられるが、最大の原因は愛情不足。二兎も三兎も、いや五兎も追っているような生活に菊はその答えを見事に出してくれた。 会員の作品を「ギャラリー」にアップします。見てください。
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